灰色の対極

序章

灰色の劣等


 湿気が茹だる梅雨の季節。雨上がりの昼下がり、というと語呂がいいような気もするけれど、晴天だった道を歩けば、至るところに陽炎がゆらゆらと立ちめいている。そのせいで遠くに見える景色さえもどこか曖昧で、自分の脳が呆けているのかな、とかそんなことを考える。きっと、そんな考えもどうでもいいかもしれない。


 最近の天気を振り返ってみるけれど、今日に関してはいつもよりも一層熱く感じられる。外に出るのは学校に行くときと帰る時くらいで、それ以外は冷房の空気に染められた部屋の中で暮らしているから、自発的に外に出ればこうなるのも仕方がない。現代の文明の利器が更に発展して、いつか地球に対して冷房をかけれるようになればいいのに。


 今日に関しては猛暑日。そして先ほど言ったとおりに久々の屋外。雨上がりの湿気、そして道は雲無き日射にさらされている。


 なんでこんな道を歩んでいるのか、そういう風に聞かれれば、まあ、不幸の偶然だったという言うしかない。


 週末の暇な時間、なんとなくで家が近くの幼馴染を誘って、遊んでいたらこうなった。


 ……いや、紆余曲折を省略しすぎかもしれない。


 今どきの現代っ子とは違い、特にテレビゲームなど携帯ゲームなどを持ち合わせていない僕と、それに一緒に合わせたのかどうかは知らないが、同じく持ち合わせのない幼馴染──赤原あかはら あおい──と遊ぶには、とりあえずその場にあったトランプというアナログゲームとなってしまい、ただの遊びではつまらないと罰ゲームを含めてやって、そうして結果的にこうなった。


 端的に言えば、僕は葵に負けた。その結果の現状だと言えるだろう。


 うん、これなら状況の説明とはまとまりがあるかもしれない。


 ……といっても、罰ゲームを被せた張本人である葵本人は、湿気に浸っている僕の隣で、ルンルンと鼻歌を歌いながら一緒に歩いている。なんでこの暑さでここまで楽しそうにしているのかよくわからないけれど、まあ、彼女が楽しそうなら別にどうでもいいかもしれない。


「いやあ、荷物持ちが見つかってよかったぁ」


 あからさまに煽るような態度をとる彼女。白いワンピースを来て、少し透けた裾が肌を見せている。紫外線対策をしなくてどうするのか、という気持ちがあるけれど、僕はそこら辺については正直よくわからないから触れない。


 長くまとまった茶髪っぽいポニーテールを揺らして、彼女はそれから鼻歌を奏でながら往来を行く。彼女に暑さというものは存在しないのだろうか。





「無駄に重いなこれ……」


 僕がそう悪態をつくと、葵は「男なら文句を言っちゃいけないのだよ」とおじさんみたいな口調で返す。


 茶化すように話す彼女の言葉は、なんとなく好きだ。僕は結局、いつも通りに彼女にこき使われながら、デパートで一日を過ごしていた。


 デパートでは適当な店を冷やかしながら、葵の興味を惹くものを探した。それが積もり積もって、結果的に僕の両手が埋まるほどの荷物が誕生した。


 いつの間にか夕焼け時。太陽は斜めにあるのに、それでも熱を帯びるアスファルトの暑さが鬱陶しい。


 街の喧騒も穏やかになっていき、そうして静かな街道。葵と歩く靴音が花火のように重なる帰り道。


 何か話すべきなのかもしれない。結局何も思いつかなかったから会話は生まれなかったけれど、それはそれで沈黙が心地いいからそのままでいる。


 誰一人として僕たち以外の人間はそこにはいない。道路というのに、特に車が通る様子もなく、エンジン音も聞こえない静かな空間。


 誰かがいようともいなくともきちんと信号は動いている。赤信号が青に切り替わって、僕らは歩みを進める。


 ──そんな時だった。


 突如として聞こえるエンジン音。身体を揺らすような轟音。


 瞳の中にあった青色の信号、その傍らに見えてしまう大きな怪物のように見えるトラックが、突如として視界に現れる。


 確かに車はなかったはずだった。青信号だったはずだった。いきなり、こんな風に危険な状況になる兆しはなかったはずなのに。


 ──異変に気付いた脳が、スイッチで切り替わるかのように意識を加速させる。いつも感じている時間と違って、すべてがゆっくりと引き伸ばされる感覚。その感覚のなかで状況を整理して、行動を選択する。


 手元にあった荷物はすべて外に放り投げた。引き伸ばされた時間の中で、葵が買い上げた荷物はゆっくりと落ちていく。地面に着地するまでの時間の中、僕は空いた手で、僕よりも先の道を歩いていた葵の手を握って、この先にある未来から彼女を避けるために僕の後方へと引っ張って投げた。


 その勢いが足りるかどうか不安だ。でも、少しでも状況が改善できたのなら、それでいい。


 勢いよく放り投げられた葵の手は、葵のバランスを崩して後ろへともつれさせる。視界の片隅に捉えた彼女の表情は動揺と驚きに染まっていて、その表情は更に後方に消えていく。


 きっと、これで大丈夫だろう。


 そうして認識する目の前の現実。


 ──勢いのいい轟音が空間を切り裂いていく。


 そのことで嫌悪感を覚えるけれど、どうせ死んでしまう意識にそんな感情は必要がないのかもしれない。


 トラックは速度を緩めようとする。ブレーキがかかってタイヤが摩耗する臭い。先ほど聞いた轟音と、タイヤの焼け焦げた不快な臭いが、なおさら嫌悪感を募らせる。必要がないと思っていても感情を覚えてしまうのは仕方のないことだろう。


 トラックはどうにか速度を緩めようとしているけれど、そんなことをしても意味はないと思えるほどに距離が近い。


 最後に痛みを感じるのだろうか。すぐ先にある未来に予測がついてそんなことを考えてしまう。だが、すぐにその思考は嫌悪感と、記憶を探り出そうとする走馬灯にぶれて、結局まともな思考をすることができない。


 記憶がすべての思考を染めていく。といっても、それは僕が見たことのない記憶ばかりなのだけれど。


 妄想の世界に入ってしまったのだろうか。すぐ先にある死という恐怖から逃げるために頭を壊してしまったのか、よくわからない。引き伸ばされた時間の感覚の中でそんなことを考えている。あまり思考を働かせたくないのに、それでも意識は加速している。まともに働かない思考の中で、自分が狂ってしまった、という自覚をするのが苦しい。


 だがそんな風に思考がちらついても仕方のない話だろう。死という恐怖に苛まれて平気でいるような人間なんて、この世にはいないはずだ。普通の人間でしかない僕はその類にもれず、死という恐怖を頭の中で演出してしまっている。


『なあ、お前の人生はどうだったんだ?』


 心の声が僕に問いかけてくる。心が問いかけてくるのならば、僕もそれに対して声を返すしかない。


 ──最悪の人生だったよ。


 そう心に、自分自身に語りかける様はまさに滑稽と言えるだろう。自分でそう思って笑えてくる。どうした?本当に気が狂ったのか?本当に心の底から気が狂い始めたか?


 僕の答えに、心は示し合わせるように記憶を頭の中に投影する。今までの妄想のような記憶ではなく、確かな記憶。


 ああ、やっと記憶の再生が始まる。




 生まれてきた時から不平等な人生を送ってきていたのは、どこか幼い頃でも自覚していた。それは主観的に見ても、そして客観的に見ても明らかだったに違いない。それを幼い頃から意識している僕の精神は、それに対してどこか劣等感を覚えずにはいられなかった。


 きっと、別に劣っていたわけではないと思う。逆に優秀というわけでもなかったけれど、それでも平凡に生きていくことができるくらいの器量は僕の中にあったはずだ。


 ただ、歪んだ僕の精神が不平等を拡大解釈して、あらゆる負の感情を劣等感というものに書き換えてしまっただけに過ぎない。


 家族は、僕と母の二人だけしかいなかった。


 父は幼い頃に死んだと聞かされた。父親はとうの昔に亡くなっている、そう認識したときからこの劣等感は生まれたのかもしれない。


 片親で賃金を賄うことのできなかった僕は保育園へと通わされることになった。その保育園では十字架が飾り立てられた教会があって、保育園の関係者でなくとも、いろいろな人が出入りをする。母も時間があるときには、飾り立てられた大きな十字架を見ながら涙を流していた姿がよく印象に残っている。


 その日は外で花があちらこちらで咲き乱れていた。春という季節を感じるには十分な日差し。そんな中で、保育園ではいつものように神様への感謝を祈念して、様々な人が出入りをする。大人だけでなく子どももたくさんに。


 母は働きに出ていて、僕は独り、教会でぼんやりそれを眺めていた。


 そんな風景を眺めてすぐに気づいたのは、父親がいない、というのは僕だけだったということ。子どもは大人と必ず行動していて、その中で僕に対する大人の目はどこか異物を見るような視線でとても痛かった。


 教会の十字架を静かに見上げることしかできない僕を、一部の大人たちは優しく受け入れようとしてくれていた。大人としての対応なんだろう。おそらく、人として正しい対応だったはずだ。


「独りぼっちが嫌なら、こっちにおいでよ」


 優しい声かけだったと思う。大人として子どもに優しく誘うような声かけ。


 だが、そう言われて僕はなぜか大声で泣き出してしまったことをよく覚えている。泣いた理由はよく覚えていない。哀しかったわけでもないし、悔しさを感じたわけでもない。ただ器から溢れた水のように涙を零して、そして流れるままに教会から裸足で逃げ出した。


 ──そんな劣等感を覚えて、それを拭わずに生きる人生。


 ああ、最悪な人生だ。未だにこの劣等感をぬぐえない人生は最悪としか言いようがないだろう?


 自分自身、心の中で納得することができたみたいで、いつの間にか記憶が心の中で再生されることはなかった。そして改めて認識する現状と、死への恐怖。


 気が付けばトラックはもう寸前まで来てしまっている。


 そうか、僕はもう死んでしまうのか。こんな最悪を飾り付けた歪んだ人生を最後に死んでしまうのだろうか。ああ、どうしようもない。悔いしか残らない人生に満足感など持てるはずもない。




 ──最後に、意識がさらに加速する。


 様々な願望が頭の中を渦巻いた。無視していた死に対する恐怖感が吐き出したくなるほどに死に対して嗚咽を繰り返す。気持ちが悪い。胃が破れそうなくらいにこみあげる嘔吐感。


 僕はまだ生きていたかった。最後の瞬間まで。僕の意識は死ぬときも持続しているのだろうか。よくわからない。それでも、僕が僕として機能できる最後の瞬間までは、この生という感覚に浸っていたかった。


 トラックが止まることはない。このトラックによって飾られる鮮血を僕は想像せずにはいられない。グロテスクな光景は苦手だ。だけれども、それを葵に見られてしまうという事実が、やけに心に痛く響いた。


 だが、その鮮血が僕という存在がいたことを証明してくれる。確かにそこに僕という存在、──在原ありはら たまきという存在がいたことを。


 どうか忘れないでくれ。誰に伝わるかもわからないこの願いを。誰か心の中に留めてくれ。この劣等感の存在を。


 代わる代わる意識は混濁する。最後に僕は目を閉じた。


 視覚はもう死んだかい?


 聴覚はもう死んだかい?


 感覚は?


 思考は?


 心臓はどうだろう?


 僕の最後を見たとき、僕が笑っていたのなら、君を助けられてよかったと思える僕がいたと、そう思ってくれないか。

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