第4話 香水(二つ目の扉)

 暗くなり、明るくなった差に耐えきれず、思わず瞑った目を恐る恐る開けると、前には小さな炊飯器があった。

 母親は息子のために、米を炊くことはしていたんだな、と苦い心を噛み締める。


 手に感覚があり、見ると彼女がそっと手を乗せていた。


 深呼吸をひとつ。


「お帰りなさいませ」

 その声で青年の存在を思い出す。

 じっと見つめると、にこりと笑ってくれた。相変わらず、思考の読めない顔ではあったが。

 ゆっくりとこちらに近づいてきて、差し伸べられた手に首を傾げた。


「お手をどうぞ」

 そうしなければ、という気持ちが湧き上がり、手を取って、さらに彼女の手を取る。彼女の青と視線を合わせ、笑いあう。もう初めの恐怖心は薄れていた。

 青年の手は案外豆だらけでささくれだっており、それでいて見た目通りに細い。だが、不思議と力強さがあった。

 ふんわりと、山茶花のように艶やかに笑う青年に、少しドキリとした。慌てて横を見ると、彼女もバツが悪そうに頬を赤らめていて、ほっとする。


 しばらくすると、暗闇からぼんやりと、重そうで錆びた様子の扉が見えてきた。


「あ……」

 そこは彼の住んでいた団地の扉で、事情を知っているらしい彼女が渋い顔をする。


「君のせいじゃないよ」

 頭を撫でて、久しぶりのドアノブを掴むと、懐かしさが込み上げる。

 そういえば、ここにも十分母の感情があったな、とハッとした。

 それを振り切るように、勢い良く扉を開け放つ。

 青年の手が離れると、振り返ることなく、感情と共に歩き出した。


 見慣れた白い部屋。そこは二人の城だった。

 物が揃うまでと置かれたものの、そのままになっている沢山のカラーボックスすらも白で統一され、何でも売っていて安く手に入る店で買ったらしいテーブルとクッションも徹底して白い。

 だがいづれも黄ばんだ上にボロボロになっていて、余計に愛着が湧いた。

 そんなクッションを差し置いて、床に直に寝る二人がいる。

 日差しに照らされている破れたままの白いカーテンが、夏の風で揺れていた。

 予備動作なしに、パッと飛び起きる彼女。それと共に鍵を開ける音が響く。

「ただいま」

 小声で言って入ってきた母に、彼は驚く。

 挨拶をしている母の記憶が全くなかった。

 彼女は彼のそばに寄ったまま、じっと母を見つめている。

 あら、と呟いて少しだけ頬を緩める母にさらに驚いた。遠慮がちに母の手が伸び、彼等に毛布をかける。それを黙って受け取り、彼女はまた体を丸めた。

 ほっと息をついて、母は自室へ入っていく。出来るだけ静かに閉められた扉に、男は釘付けになっていた。

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