魅惑の国のアリス―異界と繋がる喫茶店―

玖蘭サツキ

第1話 美女と純喫茶

「もうこの町に来ることはないだろうな」


 安いビジネスホテルのチェックアウトを済ませ、1冊の文庫本と少しの着替えくらいしか入っていない簡素なリュックサックを背負い、僕は駅に向かって歩き出した。


 ――月曜日、午前10時頃。


 今頃、多くの人々があくせくと仕事に勤しんでいるのだろうと思うと、憂鬱な気分になる。今の僕の身分は大学生だが、数年後には本格的に大人の世界に足を踏み入れねばならないことがわかっていたからだ。


 自分が何をしたいのかわからない。何のために生きているのかわからない。この問いの答えを見つけるために余暇時間を作っては1人旅を繰り返していたが、一向に解決の糸口は見えてこない。

 学業とバイト、たまに旅行。ただこれだけのループ、ループ。現状へのもやもやとした不満と将来に対する漠然とした不安に包まれて、僕の心は曇った空のようだった。

 

 ぼーっと歩いているうちに、いつの間にか僕は閑静な住宅街に出ていた。さすがに平日の午前中だからだろうか、人っ子一人見当たらない。

 その時、少し遠くからガタンゴトンという音が近づいてきた。周囲を見渡すと、青いラインが入った電車が高架線の上を走っているのが見えた。足早に通過する電車をじっと目で追いながら、何かに誘われるように僕はそこへ近づいていった。


 電車が過ぎ去った後、ふと視線を落とす。すると、高架下にぴったり収まるようにいくつかの店が立ち並んでいるのが見えた。

 その中に、妙に目に付く古風な印象の建物があった。どうやら、喫茶店のようだ。その店の看板には『喫茶店アリス』と書かれていた。


 まるで昭和時代が舞台のドラマに出てくるような、レトロな雰囲気の喫茶店――いわゆる純喫茶というやつだろう。

 煌びやかなステンドグラスにはハートやダイヤのマークの装飾が施してあり、ウサギ型の飾りが付いたドアには“OPEN”と書かれた看板が出されている。


 吸い寄せられるように店の前まで来た僕は、ゆっくりとドアノブをひねった。中に入ると、1人の女性がカウンターテーブルの奥で煙草をふかしながら座っていた。自分以外に客はいない。

 店内には、小さな音量でゆったりとしたジャズミュージックが流れている。薄暗い店の壁には、サンドイッチ400円、ナポリタン600円、コーヒー300円……といった風に、メニューが書かれた張り紙が並んでいた。


「……いらっしゃい。好きな席にどうぞ」


 奥にいる女性がスマホをタップしながら、投げ捨てるように言った。ここの店主だろうか。無愛想な態度の店主ではあるが、何より目を引くのは彼女の美貌だった。

 美しいポニーテールスタイルのブロンドヘアで、鼻が高く日本人離れした端正な顔立ちをしていた。すらりとした細身で脚が長く、座っていても長身であることがわかる。切れ長の鋭い目は、そこはかとない強さを感じさせた。


 店主は相変わらず、店の奥で煙草を咥えたままスマホを眺めている。僕はカウンターテーブルの一番端にある椅子を引き、静かに座った。すると、無愛想な店主が目の前にドンと勢いよく水の入ったグラスと灰皿を置き、「注文は?」と言った。


「ええと、何かおすすめはありますか?」


 どんな答えが返ってくるのだろうという多少の悪戯心もあった。だが、この隠れ家的な純喫茶にどのような名物があるのか知りたいというのも本心だった。


 その刹那、それまで一切目を合わせようともしなかった美人店主がカウンターから身を乗り出し、ぐっと顔を近づけて、じーっと僕の目を見つめた。思いもよらない出来事に不意を突かれ、顔がカッと熱くなり、鼓動がバクバクと高鳴った。

 耐えきれず目を逸らそうとしたが、なぜか店主の視線の先から逃れることはできなかった。不思議な時間が数秒続いた後、店主はニヤリと小さく笑い、ようやく口を開いた。


「あるよ、おすすめ」


 そう呟き、店主は裏手にある厨房の奥へと消えていった。




 ――数分後のことだった。


 裏手の厨房から出てきた店主は、一杯の紅茶を僕の前にそっと置いた。そして、おもむろに煙草に火をつけると、無遠慮に音を鳴らしながらスマホのパズルゲームで遊び始めた。


 それは、いたって普通の見た目をしている、何の変哲もないただの紅茶だった。しかし、ふと何か違和感を覚えた。口に出すのも失礼だと思い、五感を使って違和感の正体を探る。

 その時、違和感の正体に気が付いた。香りだ――紅茶からは今まで経験したことのないような、とても魅惑的な香りが放たれていたのだ。


「冷める前に飲みなよ」


 美人店主はスマホから一切目を離さずに、気の抜けた声で言った。


 言われるがままに、僕は紅茶の入ったカップに指をかけ、口元へ運んだ。芳醇で魅惑的な香りが嗅覚を強く刺激する。そのままカップを傾け、店主がおすすめする自慢の紅茶を口に含んだ。

 紅茶を何度か舌で転がしてから飲み込むと、甘く切ない香りが喉から鼻へ抜けていった。すると、身体が不思議な幸福感に包まれ始めた。ふわふわとした、幸せな気持ちだった。


 「何だこの美味しい紅茶は!」と言いたくなり、ふと美人店主の方へ目をやると、店主のミステリアスな視線とぶつかった。さっきまでスマホに夢中だったはずの彼女が、にこやかにほほえみながら目を細めてこちらを向いて手を振っている。


 何やら口を動かしているようだが、何も聞こえない。


 ふわふわとした気持ちが心の中を埋め尽くす。まるで、大きな湯船に全身を浸けこんでいるかのような多幸感だ。

  幸せに包まれながら、ふわりと浮かんで空中をぐるぐると回転するような、奇妙な感覚に襲われた。それが収まったと思ったら、今度は薄暗い店内をわずかに照らしているおしゃれなランプが見えた。店の天井に吊るされているものだ。


 ――天井?


 ゆっくりとまぶたが閉じて世界が暗くなっていき、僕はぐったりと意識を失った。


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