断罪ものを読む人々は、自分が断罪する側だとなぜ疑いなく思えるのだろう

 物心ついたころには本を読んでいた。

 最初の記憶の中、特に好んでいたのは華やかな図鑑類だった。植物や動物の綺麗な絵を眺めるだけでなく、添えられた説明もある程度は読めていた。あるとき「寄生」と「共生」の言葉を覚え、幼稚園の先生に話をしたところ、やたらに驚かれた。呼ばれて集まってきた他の先生たちの前で、何度も「寄生」と「共生」を繰り返させられた。大喜びする先生たちを、園児の私はよくわからず見上げていたと記憶している。

 小学校に上がる頃には標準的な大人向けの文章も読めるようになっていて、担任教師から保護者向けの連絡帳に「この子は連絡事項をその場で読んで反応を示します」と書かれたりもした(と覚えているのが「読めていた」証拠だろう)。

 祖父母には賢い子と可愛がられた。が、両親は他所の子にしばしば言うことがあった。


「元気でいい子ですね。うちの子は家に籠って本ばかり読んでて、ちっとも外で遊ばないんですよ」


 字義通りの意味は把握できていた。だが、幼児に大人の謙遜はわからない。

 そうか、自分は外で遊ばないダメな子なんだ――と、当時の私は理解した。


 加えて昭和の当時、児童向けフィクションの主人公はほとんどすべて「元気が良い」「運動ができる」「明るく友達が多い」そして「成績はあまりよくない」子供ばかりだった。

 成績が良い子の描かれ方は、およそまったく好意的ではなかった。瓶底眼鏡の陰気な「ガリ勉」イメージが支配的で、児童向け媒体全体に「学校の成績なんか重要じゃない! 大事なのは心!」のような、反学力主義とでもいうべき風潮があった。

 否定的に描かれるガリ勉君に、私は自分を重ねた。当然だろう。明るく運動好きで成績の悪い主人公たちに、自分の姿はひとかけらも含まれていなかったのだから。



 ◆



 小学校に上がった私は、登校班内でいじめを受けるようになったらしい。

 登校途中にいじめられるために、始業間もない教室内で泣いたり騒いだりすることがよくあったらしい。ここで泣けなかったらどこで泣けばいいの、と教師や家族に言っていたそうだ。

 ……らしい、そうだ、と歯切れが悪いのは、私自身はまったく一連の事件を覚えていないからだ。記憶にとどめるのも辛かったのか、他の理由があったのかはわからない。だが本当に一切覚えていない。唯一鮮明に記憶にあったのは「教室で泣き叫んで暴れる自分」の姿だけだった。

 いじめが解消された(と思われる)後も、私はしばしば癇癪かんしゃくを起こして騒ぐことがあった。カッとなると感情のコントロールができず、衝動的に泣き叫んでは周囲に迷惑をかけた。当然ながらひどい自己嫌悪に陥り、繰り返さないよう怒りを抑え込もうとした。だが解消されないまま溜め込まれた感情は、いずれ暴発する。そして再び自分が嫌になる。

 怒りに任せて周囲に迷惑をかける自分は、邪悪な存在である――信じ始めるのにそう時間はかからなかった。

 理由なく暴れて人を傷つける有様は、フィクションの悪役の姿にも被った。

 他人に害をなす者は邪悪であり、正義の主人公に断罪されるべき存在だ。

 いつしか私は、自らを悪の権化と信じるようになっていた。自分は有害で、食料や酸素をただ浪費しているだけの存在で、一刻も早く死ぬべきだと思っていた。「自殺するだけの勇気がないから」以外に、生きている理由は存在しなかった。

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