第19話

 久しぶりに集まろう。

 先輩からメッセージが来たのは、夏休みが終わり、三日間の体育祭・文化祭の最終日、九月六日のことだった。土日は当然、学校が休みなので、九日の月曜日に部室に向かうと、もう電気がついている。もう先輩が来ているのだ、と分かった。それだけで、廊下を歩くスピードは速くなっていった。

 これまでのように、おつかれさまでーす、と部室に入ると同時にそう言った。

 おつかれー、先輩は何かを書く手を止め、こちらを見た。先輩が書いていたのは、お寺の住職から聞いた話であった。

 今日って重陽の節句らしいよ、と豆知識を披露した後、「あのさ、すごい話、聞いてくれる? 」と切り出した先輩の話は、確かに「すごい」話であった。

 実は、先輩の「ひいばあちゃん」は、「てる」という名前だったらしい。電話で名前を聞いた時は、「そんな名前だったような」くらいに思っていたが、お盆にお墓参りに行った際、確信に変わったというのだ。名前が同じ、と言うのは偶然なのかもしれないが、わたしまでなんだか縁のようなものを感じた。もしかしたら、「世間は狭い」というのはこういうことなのかもしれなかった。

「俺、あのとき、てるって名前聞いた時、もしかして、と思ったんだけど。もし、おれが電話取ってたら、うまく話せなかったかも。やっぱりザッキーに話してもらってよかった」

 ――なんだ、先輩もわたしもそんなに変わらないじゃないか。わたしは急に力が抜けた。思わず口元がほころぶ。

 そんなわたしを先輩は見て、「なに笑ってんの」とムッとした顔をした。

「いや、家族ってむずかしいな、とおもって」

「たしかに? 」と先輩は同意しつつも語尾のピッチが高くなった。

「家族って、近いようで遠くて。でもやっぱり近くて。血縁関係は切ることができなくて。わたしたちが大人になったって、親にとってはずっと「子供」のままで。愛とかいう曖昧なものでごまかされがちで」

「うん。むずかしいね」

 ふたりで、笑ってしまった。そして、ひとしきり笑ったあと、

「そうだった。忘れかけてたわ。そのことを言うために、ここに集まったわけじゃないんだ」と先輩は言った。

「部費、残ってるからなんかしよう、と思って。移動費・活動費とかに使えば全然大丈夫だし。もちろん、電話のある場所への移動費にも使ったけど、まだ余裕あるし。自分で言うのもなんか変だけど、送別会代わりに。あと、オカルト研究会のお別れに、さ」

 「お別れ」という言葉が、心の奥底にゆっくり、ずんと沈んでいった。明るい浅い場所から、光がわずかしか届かない深海へ。音のない深い場所へおちていく。海藻が足に絡みついて、浮上できなくなる。

「いや、違うな。再会を願う、約束するために開催するんだ。それまで当たり前にいた人がいないということが淋しくなって、時間が経って、苦しくなった時にまた会えるように。そのために、送別会をするんだ」

「……再会を約束するために開くって面白いですね」

「だって、俺、卒業するまではこの学校にいるわけだし。そりゃ、忙しくなるから顔を合わせる機会は少なくなると思うけどさ。別に卒業したって、永遠に会えない、会っちゃいけないなんてことはないわけじゃん」

 その言葉を聴いていたら、軽くなっていく風船みたいなぽわわ、とした気持ちと、それでも会えなくなることの一種の痛みに似た気持ちが引っ張り合いっこをした。その引っ張り合いの苦しさから、泣きそうになって目線だけを上に向けた。できるだけ、気持ちを軽くしたかったから。

「わたし、先輩に救われてばっかりです。もしも先輩がいなかったら、オカ研に誘ってくれなかったら、今楽しくなかったどころか、生きていなかったかも。……うわっ、すごい重いこと言ってますね、えへへっ。忘れてください、今のは、キモいですから」

「忘れないよ。忘れたくないよ。人を助けるって表面的にはできたって、芯から救う、暗闇で光を一緒に見つけ出すって、難しいことだから。前も言ったように、どれだけ助けられなかった人がいて、助けられない自分に苦しんでいたから。それこそ、流れ星が消える前に、三回願い事を言うのが難しいみたいに。せっかく光が見えたと思ったら、瞬きしている間に、よそ見している間に、消えてしまうみたいに難しい。捕まえられないし」

 ああ、「流れ星」を何度も、何度も、先輩は見せてくれた。何度も願えないまま、消えていった。わたしがなにを願っていいかが分からなかったから。消えてしまったら願えないけれど、その美しさはわたしの中に消えずに残り続けている。メダカを見たこと、一緒にテスト勉強したこと、電話を探したこと。先輩はわたしがわたしのために望みを持てるようにしてくれた。わたしも願っていいんだと教えてくれた。

「ありがとう、救おうと伸ばした手を取ってくれて。いや、救えたとか、そんな大きいことは別にできなかったのかもしれないけど。でも、このことがどれだけ過去の自分を救えるか。救えなかった人は救えないままなのはわかっているけど。それでも俺はやっぱり役に立てた、確かな記憶が欲しかったんだと思う」

「……願ってもいいですかね、わたしも。自分が自分を幸せにすることを」

 ――「結末なんて、取ってつけたようなもの、不要なの。死んじゃったりしても、どっかで生き続けているのよ。わたしたちがあずかり知らない場所でね。その人のことを忘れない限り、ね。どこかで生き続けているから、忘れないってことが一番の弔いなのかもしれない」と母が言った言葉が頭をよぎった。わたしが祖父に対して、最初にできるのは、多分そういうことなんだと思う。

 思い出を忘れないこと、歴史として残していくこと、まずはそこから始めてみよう、そう思った。母はわたしに大きなヒントを与えていたらしかった。

「昨日も今日も明日も五十年後も、どこかに生きているあの人を探して生きていこう」と、人権作文や読書感想文なら、今までの自分なら、最後の決まり文句みたいに書いていたかもしれない。

 そんなこと言っても、結局は目の前のことにあたふたして、余裕なんて全然ないし。自分の不安を必要以上に膨らませて、爆弾のように持ち歩くのがわたしの通常だ。自分のために、わがままさを持って生きる。

 それが、わたしの、今の目標。


 立つ鳥跡を濁さず、とはよく言ったものだ。部活を引退した後、先輩がいた痕跡は部室から消え去っていた。部室に置かれていた多機能ボールペンも、これまで調査してきた記録ノートも、無造作に置かれていたはずの机と椅子も、すべてが無くなっていた。

 そうして、わたしの手元に残ったのは、住職から聴いた昔話を書いた紙だけだった。先輩がこの前書いていたものだ。この前の送別会の時にもらった。

 昔話の文章は最後まで完成されていなかった。

 ザッキーが書いて、完成させてほしい、先輩は、そう頼んだ。紙の下には、小さな文字で、


クイズ!「玄鳥去」の読み方は?


と書かれている。

 ――「玄鳥去」の読み方は、つばめさる。先輩のおかげで、読めるようになってしまった。なんとも、さびしい。

 引退直後の九月ごろはそれでも、先輩に会う機会が昼休みなんかにあったわけだが、十月になると、受験の準備で忙しいのか、ぱったりと見かけなくなってしまった。部室に行って頼まれた昔話の続きを書こうとしたが、うまく書けない気がして、書き終わってしまったら先輩との唯一のつながりが消えてしまう気がして、一文字も書けなかった。

 あれだけ、歴史を残していこう、とこの前は言っていたのに。決意したのに。ひたすらに自分を責めて、「ああ、わたしはまた、完璧を目指そうとしているんだな」と辛くなった。変われていないかもしれない。

 わたしは開け放たれた教室の窓の外から吹き込む風を浴びて、自分を責めていた。

 気づけば桜の咲くこの季節がまたやってきている。桜の幹は、少し太くなったんだろうか。

 わたしは相変わらず、旧校舎に向かっていた。もう、わたし一人だけの居場所へ。

 校舎の近くの川に花びらが落ち、花筏になっている。ああ、桜はやっぱり似ている。大切な人との別れと。

 静かで暗い廊下に足音が響く。…わたしのものでない足音が混じっている。え?驚いて思わず振り返ってしまった。

「もしかして、入部希望ですか? 」

 わたしはその人に、聞いたことがあるような言葉をかけていた。

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