第6話

 桜の木はいつの間にか薄桃から青々とした葉だけの「緑色のただの樹木」へと姿を変えている。

 三月の終わりから四月の初めしか、ほとんどの人が桜として認識できないことがすごく哀しいな、と思う。まあ、必ず春になったら桃色の花を咲かせるアイデンティティがあることは羨ましいけど。自分を認識してもらえる、自分の咲かせる花を慈しみ、ありがたがってくれる春を待って、生きているみたいだ。それだけに希望を持ち、夏秋冬を耐え抜いている。

 授業や行事の準備は本格的になり始めていた。古典単語も、英単語も、受験で使う気のない物理も、化学も、数学も、世界史も、必死にいろんなことを覚える。遠足、研修旅行の準備、スポーツテスト。中間テストももうすぐ。体力がいくらあっても足りない。溺れかけながら生きているみたいだ。必死にもがけば口の中に水が流れ込んでくる。身体が沈み込んでゆく。あぶくとなって息がぼこぼこ、と吐きだされる。誰か。誰か、たすけて。 

 溺れかけているのに、ぷかぷかとマイペースに動く浮き輪を誰も投げてくれない。心の中だけで叫んでいるから。声に出さないから。

 あまりの忙しさに最近は放課後、部室に集まっていない。……どちらにしろ、共有する情報は持っていないから、集まる意味がないといえば、ないのだけど。わたしにとって放課後集まらないまま家に帰る生活、というのはなんだか淋しい。正直な自分を保つための、最後の救命装置、なのかもしれない。

 秘密を、孤独を、否定も追及もせず、受け入れてくれる。あの場所は旧校舎の棟の中で、放課後に唯一、話し声が響く、蛍光灯が光る異質な場所。

 気づけば、重苦しい紺色のブレザーを脱ぎ、真っ白なカッターシャツで身軽になっている。それなのに、心は中間テストという重苦しいものが残ったまんまだ。三五点未満は赤点で、補習があるから、それだけは回避しなければ、なんて思うわけで。

 顔見知り程度の男子が授業の合間の休憩時間に、身体をねじり、こっちを見る。

「ねえ、テストどこが出る? 」

「そんなこと分からないよ。わたし、先生じゃないんだからさ」

「いやいや、羽崎さんいっつも点数いいじゃん。予想でいいから。一生のお願い。今回赤点とったら絶対部活の顧問にも怒られるし、県大会にも出してもらえないかも」と半ば脅迫される。

 困惑しているわたしを見て、

「いや、あんたベンチメンバーでもないじゃん」と、隣の席から爪をいじりながら口を挟まれている。少し化粧をしている。だめなのに。

「でも、あたしも知りたい。助けてぇー」

「え、いや、うーん。……まあ、この辺勉強しとけば大丈夫じゃない?多分」

 教科書の例題の部分をシャーペンで二、三回うすーく丸を描いて、囲む。

「え、どこどこ?ああ、そこね。あざっすー。羽崎さんまじカミだわ」

「それな。今度なんかお菓子あげる。あっ、下の自販機のジュースにする? 」

「いーよいーよ、そんな。ただの予想で、当たるかどうかわからないし」


 うまく、喋れていただろうか。

 ああ、まただ。息が苦しくなる。わたしは一回もテストの点数を人に教えたことないのに、みんなが「点数がいい」ことを知っている。どこかから推測されている、監視されている感じがして、何とも言えない気持ち悪さ。

 しかも「神様」にしておけば、なんでも許されると思っているらしい。「神」にされているということが、わたしはここでは異質な存在なのだと教えられている気もする。そんなの考えすぎだって分かっている。だけど、思考をうまく終わらせられなかった。

 テスト用紙のようにぺらっぺらの、風ですぐに飛ばされるような感謝だけでこんなことを考えるわたしは、やっぱりどうかしている。いやだ、苦しいとか言いながら人の役に立った気持ちになるわたしにイライラする。学校は一枚の紙で能力を図ろうとするテストと同じ。印象で、笑い方で、すべてが決まっている気がする。

 仲良くないのに自分の都合だけで利用する人間が寄ってくる。好き勝手に、誰でもかれでも助けを求めて、断れない人に縋りつくような人。ほんとうに助けてほしい人は、声を上げられずにいる。助けて、と言える人より、大丈夫、という人に気を配らないといけないのに。わたしはその助けを、どうでもいい人に消費する。

 思ったところで、教室の中でそれなりに、うまくやっていくにはそんなこと言えるはずもない。「協調性」というやつだ。学校はそういういう言葉が大好物なのに、一方で「ちゃんと意見を言うこと」やキャラクター性とか個性の強調を求める。学校教育は矛盾したことばかり教える。

 何割の人間が心の底から学校を楽しんでいるのだろうか。急にそんなことが気になり始める。わたしが楽しんでいそうだと思っている人間、たとえば隣の席にいるクラスメイトだって実は同じ気持ちを抱えているのかもしれない。

 わたしは、きっと決して特別ではない。何をやったって、上には上がいる。平凡から特別の壁を前にして、越えることも、ぶつかって壊すことも、すり抜けることも、何もできない。勉強でも、スポーツでも、何かのコンクールでも。

 諦めているはずだった、特別になることを。

 なのに、教室で疎外されている自分のことをどこか特別な人間だと思っているらしい。何かの、誰かの特別でありたいという欲求が強いらしい。

 特別であると思うのは、何かの結果を残した人間か、中二病をこじらせた人間なのかもしれない。もしくは、そのどちらも持った人間か。わたしはただの中二病でしかないな、誰にとっても何にとっても、特別にはなれていないから。

 今日学校で感じたモヤモヤを抱えて、自分の部屋で終わらない課題を作業のようにこなしていた。ばかばかしい。つまらない。集中力が完全に切れている。


 ぴろろ。

 スマホの通知音がきこえ、飛びつくように画面をみる。先輩からだ。

 明日集まれる?試験前だし課題とか勉強したいなら全然いいんだけど、というメッセージ。

 最近集まれてないですし、全然行きますよ、と返し、にまにまするのをおさえた。

 翌日、放課後になると時間割を確認し、すぐに部室に向かった。部室に向かって歩く廊下で、先に部室に電気がついていることに気づく。人がいる、それも多分先輩だ。

 部室には、ときどきガチャガチャとうるさく授業の備品を取りに先生が入っていることがある。それを見かけると、世界を壊される。まるで部室に片思いしてるようだ。

 ドアはガタガタっと音を立てた。静かに開けようとしたのに。

 ドアを開けながら、

「お疲れさまです。今日はどうしたんですか? 」と電話関係の話だろうな、と思いながら訊く。

 しかし、予想を超えた答えが返ってきた。

 ――どうやら、先輩は試験前というものが苦手らしいのだ。親に別段怒られるわけではないが、それでもなんとなく良い点数を取らないといけないような気がして、ストレスとプレッシャーをため込む。ため込まれたそれらは胃や腸を弱らせ、最終的に腹痛や口内炎という形になっていく。今回はいつも以上にひどいらしく、ちょっと放課後、オカ研に集まってみよう、と考えたらしい。

 「ほあ、みへー」と先輩は頬の裏にある口内炎を見せてきた。いちご色のやわらかい口の粘膜にダイズくらいの大きさの白くて、まるいクレーターが見える。

「口内炎ってほんとに厄介だよね。せっかくおいしいもの食べても、三割くらいしか、おいしく感じないし、痛いのに舐めちゃうしさ」

「テスト勉強、進んでます? 」

「だから、ここで勉強して帰るんだよ。ザッキーもここで勉強して帰らん? 」

「ここで、ですか? 」

「そう、ここで」

 わたしは、その日にはじめて学校で人と勉強会をする、ということをした。それは、小学生の時考えた、高校生の「正解」だった。解答用紙のます目が、やっと一個だけ白から黒に変わって、赤ペンで丸がつけられた。今、わたしの目の前にいるこの人は「小学生時代のわたしのゆめ」を叶えてくれたのだ。

 教室には、静かなシャーペンの音だけがうるさく響いていた。サリ、シャリ、カチカチカチ。チャイムが鳴り、時計を見る。十八時だ。ほんの一瞬だった。一時間半ほどの時間が十分ほどにすら感じられた。斜め前に対面に座っていた先輩は、「もうこんな時間か」と呟き、教科書とワークを閉じた。蛍光色のマーカーをペンケースにおさめた。

「明日もここで勉強しよー。もし分からんところあったら、先生にすぐ聞きに行けるし」

「たしかに」

そう言ったのに。

 翌日の六限ごろから雨が降った。英語の授業の時だ。雨は川や、グラウンドの砂と混じりあって淀んだ匂いに変わっていく。

 昨日の夜から、こめかみが痛い。思わず眉間に力が入る。頭痛薬を昼に飲んだけど、効いているのか効いていないのかよくわからない。せっかくテスト勉強して帰ろうと思っていたところだったのに。自分の体質が憎たらしくて、イラつく。

 楽しい、うれしいことがあった後にはかならず悲しくなるような、辛くなるような、元通りの日常が配置されている。つかの間の非日常のせいで、元通りの日常に、思わぬほど翻弄され、首を絞められ、突き落とされるんだ。

 仕方なく、今日は勉強して帰るのをやめ、下校することにした。

 土砂降りの雨のなか、傘を差さずに帰る影は、誰にも気づかれずにすぅっと歩く。泥濘に引きずり込まれそうになりながら。

 次第にぽたぽたと音を立てる心の叫びが雨と引き寄せあってくっついていく。砂鉄入りのスライムが磁石に吸い寄せられるのに似ている。そして、どこからが雨で、どこまでが心だったかわからなくなってゆく。雨が降る前から、頭が痛くなるのはそれでだと思う。心の中の涙のかたまりが、近々あらわれる雨粒と共鳴しているのだ。

 重い頭で、何でこんなことを考えているのだろう。もう帰ろう、と昇降口を出ようとしたとき、だれかが肩をたたいてきた。

 すぐさま振り向くと、先輩が立っている。

「傘持ってきてないんでしょ」

「家近いし急いで帰ればまあどうにか。」

「どうにか、って……。この傘使っていいから、傘さして帰りな」

「いや、そしたら先輩びしょ濡れになっちゃうじゃないですか」

「大丈夫だって」

「いや、先輩の家の方がどう考えても遠いじゃないですか」

「じゃあ、一緒に帰る? 」

 え、いや、だから、わたしのことは…、といって口ごもる。あんまりきっぱり断るのも違うし、一緒に帰るのもなんだか恐縮してしまう。

「あーあー、ザッキーが離れるから俺が濡れちゃうよお~」

「分かりましたから、入りますから、まっすぐ傘を差してください」と傘のほうに近づく。

「っていうか、今日も部室で勉強して帰るんじゃなかったですっけ?」

「いや、昼休みに薬飲んでたからちょっと気になってさ。」

「え」

「また倒れられるわけにいかないでしょ?まあいいから、ちゃんと傘に入って。どうせ人いないんだから」

 雨傘を差した先輩の横に立つと、思っていたよりも身長が高くて。視界に白いカッターシャツ。雨でぬれて、少し肌の色が透けて見えた。柔軟剤の匂い。

 傘は大きく黒くて、斜め下には色素のうすい影。ぱちゃぱちゃと鳴らす靴の動き。水たまりを踏まないように小さく跳んだ。光を持ったしずくが、地に落ちて光を失っている。アスファルトのごつごつした肌でちぎれて、割れて、他のしずくとくっついていく。そこを足が踏む。タイヤのゴムがしずくを擦り、水がはねる。傘の水滴がつうっと、直線状に落ちる。上昇はしない。落ちるだけ。

 雨の日は好きじゃなかったけど、晴れの日には見られない景色がたくさん、たくさん散りばめられていた。

「ザッキーって、嫌いなものとかあるの?なんか好き嫌いなそうだけどさ」

「うーん……。英語の授業、ですかね」

「英語かあ。確かに覚えること多いもんね」

「いや、そうじゃなくて。授業のやりかたが嫌いで」

 英語の先生の授業は、全員に当てようとするから、それが苦手なのだ。宿題をやってきても、全然違うことを質問してきたりして、抜き打ちテストみたいで。先輩に説明しようと、さっきまでの授業を思い出す。

「……ここを訳してください」

「はい。えっと、私はあなたを心配せざるを得ない……? 」

「だいたいは、いいですね。‶cannot help -ing″ の意味もちゃんと取れています。でも、せざるを得ない、のところはその訳よりも、仕方がない、の方がいいですかね。つまり、全体をもう一度訳しなおすと、わたしはあなたのことが心配で仕方ない、という感じでしょうか。この文法、大事なのでちゃんとマークしておいてください。テストに出すかもしれないですからね」

 そんなことが聞こえる中、わたしは集中力が切れて、ぱらぱらと授業で使う参考書を読んだ。


「魚の群れ」 a school of fish 

「類は友を呼ぶ」 Birds of a feather flock together.


「……だいたい、普通に生活してて英語なんてしゃべることないですよね。もし外国人に会っても、アイキャンノットスピークイングリッシュ、って言うと思うし」

「いや、英語喋れてるやんけ、ってなるやつじゃんか、それ」

「じゃあ、先輩はどうなんですか」

「実は親が片方英語圏出身だからしゃべれるんよね、英語」

「へ? 」

 びっくりして、顔をあげる。

「うっそー。ザッキー、ほんとだと思ったでしょ」

「いや、全然思ってないですよ。嘘だって気づいてましたから」

「うそだあ。絶対信じてたじゃん。素直じゃないなあ」

 信じてないですから。むきになってそう言ったけど、別に嘘をつかれても嫌な感じはしない。むしろ、なんだか楽しくて、久しぶりに笑えてきた。頭痛は、いつの間にか消えていた。

「ここまでで、大丈夫です。先輩あっち側ですよね? 」とわたしは立ち止まる。

「え、いいの? 」

「すぐそこですから大丈夫です。そこまで体弱くないですから」

 先輩と別れて、家へまっすぐ、小走りをした。アイキャンノットスピークイングリッシュ、と言った自分の声が耳の裏に残っている。

 ――そういえば、なんで「キャン」と「ノット」は離して書いちゃいけないんだろう。Can と not はずっと離れられない。否定を切り離せない。

 それは、例えば生きることと死ぬこと。学校の規律と自由。たまごの黄身と白身。くじの中にあるはずれと当たり。日常と非日常・特別な日。そんなふうにずっと陰陽のように共存しているみたいで、なんだか仕方なくって、変なことみたいだって思った。


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