早すぎる再来

さっきのおばさんの声じゃない。気が付くと、目の前に鋭利なナイフの腹が突きつけられていた。荒いナイフ。衝動的に首だけ振り返ると、そこにいたのは昨日Bの部屋に現れたアイツだった。

うっ。ナイフを持った腕が俺の首を絞め始めた。

焦りで汗がバッと額から噴出したような気がする。

昨日と同じように、俺は奴から離れようと、両手で腕を掴み剥がそうとするが、袖を引っ張っても、力が分散してどうにもできない。抵抗すればするほど、締められていく感覚がする。

だめだ、これじゃ昨日と同じじゃないか。


「なあみろよ」


やつの顔をまた見ると、まっすぐ前を向いていた。その視線の先には、俺が待っている洗濯機。


ぐあんぐあんぐあんぐあん。


「洗濯機に人を入れて、閉めて回したらどうなると思う?死にはしないんだ。どうなると思う?」


息ができなくて、まともにこいつの言ってることを理解できないが、まともなことを言っていないのはわかる。奴のニヤニヤしている顔に怯えて俺は顔を引き攣らせていく。

だんだん、意識が遠のいていき、洗濯機が動いて俺を追い詰めているように見えてきた。焦って足だけが地面を滑らせて逃げようとする。暑い。苦しい。


「脳みそが完全にシェイクされて、まともに言葉が話せなくなるんだ。もちろん、脳機能が終わるから、体も不自由になるんだ。一生拘束されながら生きるようになり、ただ希死念慮だけがみるみる増幅していく」彼は嘲るように、しかし震えた声で言っていた。


頭にピトッと濡れる感覚がして、一瞬腕の力が弱まったのがわかると、力一杯に腕を押して、洗濯機の方へと逃げた。ダンッ。痛い。頭を打った。ぐあんぐあんぐあんぐあん。と死にかけの俺の体を洗濯機が揺らしてくる。

上手く息が吸えない。まずい、まずい。


目も振動してこいつが何重にも見える。何重もいるこいつが近づいてくる。

逃げなきゃ。


足ってどうやって動かすんだっけ。やばい。


「おい!何をやっている!」


人がいる。でかい。誰。Bじゃない。

急に目の前が真っ暗になり、気づいた頃には――。


まだ、コインランドリーにいた。いつの間にか俺はベンチに横になっていた。

逃げなきゃ。急いで周りを見回す。あいつはいない。俺は、生きてる。


息が浅くなっているのがわかって、命を吹き戻すように、深く息を吸って吐く。


奴の代わりに、メガネをかけたガタイのいい男がいた。薄茶色のシャツに紺色のスーツのズボンを履いている。少し白髪が生えていて、顎髭が角張るように生え、顔には年齢を感じさせるシワが刻まれていた。

俺が起きたのに気がつき、しゃがんて俺の頬をペチペチと二回叩いてきた。


「大丈夫か。誰だねあいつは」


「わからない。わからない」


「そうか……」


と残念そうに呟き、救世主は出て行ってしまった。背の低い黒い車に乗って。


あっ、洗濯物。


後ろを振り返り洗濯機を覗き見ると、丸々なくなっていた。とうとう全部盗まれたか。焦り振り返ると、後ろの机の上に、小さい紙とともに、全て綺麗に畳んでおいてあった。

紙には、ケオ、ダグラス・メイデュー?


何やら難しい単語が並んでいて、それと一緒に大きく名前らしきものが書いてあった。


紙の裏表を確認して、俺は何もわからないのに、ふーんと呟いた。外が黄色がかっているの見て、とりあえず服をカゴに詰めて外を出た。さっきまで白く輝いていた太陽が地面に向かって溶け始めている。こんな時間になるまで、あの人はずっと俺を見守ってくれていたのか。今度お礼を言おうと思ったが、来週もいるとは限らない。もらった紙は、ポッケに入れて、ひとまず、家に帰ることにした。あの人は今浴びている夕日のような人だった。大きくて、あったかい。家が見えた。カゴを置いて、扉を開ける。開かない。鍵が閉まっている。なんで。


ドンドンドン。開かない。ドンドンドン。窓を見るが、窓はやっぱり機能を果たしていない。


ガチャ。


開いた。と思ったら、ブランケットを持って顔を真っ赤にしたBが斜めになってこちらを見ていた。


「殺すから来い」


枯れた声で、入るやいなや、バンと扉を閉められた。また俺まずいことしたかな……。

部屋に向かっているBは、長い髪で隠れながらも、服を、着ていなかった。


反射で目を逸らしてしまい、魔が刺してBを見てみると、ブランケットに隠れていた。


一旦ふぅ。とため息をつき、カゴを持って玄関を閉め、Bの部屋の前まで行く。

肌が隠れているとはいえ、身体のラインがくっきりと見え、強調されている部分に目が行ってしまう。


「遅くなってごめん」


「違う。私の服、全部持って行ったろ」


「汚れているのを持ってったから」


「うざいわ本当に殺す」


ドン、ドン、ドンと床を叩く音は強く聞こえるが、くそっくそっと言う声はやはり枯れていて力無く、咳の方が大きかった。ビールで焼けたような声ではなく、迫力がない。少し、心配になってきた。


「ちょっと、そっぽ向いてろ」


俺はとりあえずテレビを見ることにした。リモコンでつけてぼすっと座ると、テレビではバトルモノのアニメがやっていた。鮮やかな色のヒーロー達が体が黒い、いかにも悪そうなやつをドンドン殴っている。攻撃される側が悪なら、俺は悪だったのか。Bの服を全部持っていて、ナイフを持ったあいつに危うく殺そされそうになったし。しかし、あのメガネの人は確かに俺のヒーローだった。ヒーロー達が必殺技を繰り出し、エンドロールが流れる前に、


「いいよ」


とか弱い声がして、Bを心配そうな目で見ながら、Bの部屋に入った。扉を閉めていない。引き戸を引く気力もないほど弱っているのか。布団にこもっているBに近づくと何か言っているような気がして、よく聞こえないのでしゃがんで少し近づいた。咳をするたびに、心臓のように体をドクッドクッと震わせている。


「どうしたの」


「なあ、手ェ貸して」


手を布団の中に入れると、弱々しく掴まれる。引っ張られ、急に俺の手に熱が伝わってきた。


「冷えてるー」


荒い息遣いが、振動となって手のひらからも伝わる。湿っていて、Bの汗が俺の手の中まで流れてきた。息がどんどん荒く、速くなっていく。


「くそっ、くそっくそっ!」


急にブランケットを蹴飛ばして姿をあらわしたBが、駄々をこねる子供のように寝そべりながらドタドタと暴れ回った。俺はびっくりして腰が砕け、壁までのけぞって呼吸が荒くなってしまった。しかしそれは一瞬で、すぐに止まってさっきの荒い息遣いのまま動かなくなってしまった。


「熱い、熱い」

Bは苦痛に顔を歪めながら目を強く瞑っていた。


「ど、どうしたらいい」


「冷たいの、冷たいの」


とりあえずリビングに向かい、急いで周りにあるゴミを蹴散らしながら冷蔵庫の中からビールを取り出し戻り、俺は座って、開いている手のひらにそっと置いた。それをつかんで持ち上げたかと思うと、一瞬口元を通ったが、飲むことはなく、代わりに頭を冷やして気持ちよ良さそうにしていた。


今思うと、よくこんな汚いところで、今まで具合が悪くならなかったな。

俺は腕重心で近づき、Bの顔まで寄って、刺激にならないように囁いた。


「他に何したらいい?」


半目で俺のことを確認するなり、力のない手を震わせて俺の手首を掴む。


「ここ、ここにいて」


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