(二)

「えっ、先輩は猫じゃないのですか?」

 立花菜々子は、眉根をきゅっと寄せた、いかにもいぶかし気という表情を浮かべて、そう言う。

「猫じゃないよ! そんなファンタジックな世界だったのかここは!?」

「でも、先程は、自分は猫であると、そう仰っていたではないですか」

「いや、そう、ネコなんだけど、猫じゃないんだよ!」

 ややこしいが、これが答えなのだ。

 でも、やはり、その意図は彼女には伝わらないようで、

「もう、何がなんだかさっぱりです」

 と、彼女は、上着を脱いで、ベッドに腰を下ろす。

 まあ、無理もない反応だ。

 ここは、私の自宅――賃貸マンションの一室で、間取りは1K。リビングには、ベッドとデスクと大きめの椅子、それから小さな棚があるぐらいの、シンプルな部屋だ。先程、スーパーでの買い物を終えて、彼女を招き入れた。

「とりあえず、先輩は猫ちゃんではないのですね」

「そうだね、私は人間です」

 私は、やかんを火にかけながら、生まれて初めて、自分が人間であることを他人に説明した。案外、なかなかできない経験かもしれない。

「そうですか……、それは残念です……」

「ごめん、猫の方がよかった?」

「いえ、そんなことはありませんよ。にんげんっていいなと思います」

「熊の子目線のコメントじゃん」

「えっ、お尻を出してくれるのですか?」

「なんでだよ!? 出さないよ!」

「先輩がお尻を出したなら、一等賞どころか国民栄誉賞を贈りますよ」

「私欲にまみれすぎだ!」

 というか、受賞の理由がしょうもなさすぎる。そんな賞を貰った日には、もう日本で暮らしていけなくなるわ。

「そうなったとしても、私はいつでも先輩の味方ですよ」

「いや、居場所を奪ったのはお前だろう!」

 もはや、新手のDVだった。

――それにしても、この子は、こんなにも冗談を言うタイプだったのか。

 これまでの彼女との関係性は、かなり素っ気ない間柄だった。同じバイト先の先輩後輩という関係で、私に対しては、いつまでもよそよそしい態度で接してくる、良くも悪くも「いい子ちゃん」と言った感じの印象であった。

 それが、今はどうだろう。

 これまでの彼女からは想像もできないほど、楽しい会話がなされている。

「すみません、残念と言ったのは、その……、先程、先輩に内緒で、ちゅ~るを買いまして……その……、先輩が夢中で、ちゅ~るするところを見れると思って、大変わくわくしていたものですから、つい……」

「勘違いだったとは言え、順応早すぎでしょ……」

「麗しい先輩が、一心不乱に液状のおやつを舐めとる哀れな姿をこの目に焼き付けて、その素晴らしさを後世にまで語り継ごうと思ってました」

「待って、今、哀れって言わなかった? 猫のことそんな目で見てたの?」

 というか、動画に収めるとかじゃあなくて、口頭伝承なんだ。

「そんな、動画に収めるなんて……、いけません、センシティブすぎます!」

 と、突然、声を荒げる彼女。

 私は、つい驚いて「わあ、どうした」と言ってしまう。

 すると、彼女は、みるみるうちに顔が赤くなっていく。そして、恥ずかしそうに顔を手で押さえて、俯く。

「す、すみません。つい、かっとなってしまって」

「暴力事件の容疑者みたいなこと言うじゃん」

「そ、その……経験がないっていうのもあって、えっちなことに対しての耐性が無くて……その……すぐ、恥ずかしくなってしまうんです……うう……」

 そう言いながら、彼女は真っ赤に染まった顔を、手で扇ぐ。

「この前、友人ふたりに、ポッキーゲームという遊びを教えてもらったときにも、顔を真っ赤にしてしまって……それで、初心うぶすぎると、すごく笑われてしまって……」

「そ、そっか……」

 たしかに、それは災難だ。

 だが……。

「ポッキーゲームって、そんなに、えっちな遊びだったっけ?」

「え、違うのですか?」

「いや、私の知ってる限りでは、そこまでなものではないのだけれど……」

「それは、おかしいですね」

「そのふたりは、どんなルールって言ってたの?」

「私が教えてもらったルールでは――ふたりのうち片方がポッキーのチョコがかかってない部分を咥えて、もう一方が、ポッキーにかけられているチョコを全部舐め取る、というものだったのですが……」

「えっちだなあ!」

 なんだその、ど変態ローカルルールは!

 彼女は、説明したことで、再び恥ずかしくなったのか、また顔を赤くしている。

「ななちゃんが純真なのをからかって、嘘のルールを教えたんじゃない?」

「そ、そんな……」

「私が知っているルールでは、ふたりで一本のポッキーを端から互いに食べ進めていって、先に口を離した方が負け、っていうものだよ」

「じゃあ、ということは……」

「そう。どっちも口を離さなかったら、キスしちゃうよね、みたいな感じ」

「なるほど。欲望に満ちたゲームなのですね」

「あはは、そうかもね」

 そこで、やかんがけたたましく鳴きだした。

 お湯が沸いたようだ。

 私は、火を止め、ふたつのカップにお湯を注ぐ。そして、先程買ってきたティーバッグを広げ、静かに沈める。

 蒸らしの時間は二分。その間、豊かな茶葉の香りが広がり、鼻腔をくすぐる。

 早く飲みたいという気持ちが、タイマーの進みを遅くさせる。

 …………。

 さて。

 ティーバッグを三回揺らし、紅く色付いた液体から取り出す。

「紅茶できたよ」

 私は、彼女の元へカップを持っていく。

「熱いから気を付けてね」

「はい、ありがとうございます」

 それから、自分の分のカップを持って、デスク前の椅子に座り、彼女と相対する。

「美味しいです」

 彼女にそう言われ、私も口を付ける。

 む、これはたしかに。

「うん、美味しい。これにして正解だったね」

「はい、悩んだ甲斐がありました」

 それからしばらくは、静かなティータイムを楽しんだ。ゆったりとした時間が流れる、至福の時間だ。この時間を誰かと共有できることが、こんなにも幸福感をもたらすとは思いも寄らなかった。

 彼女は、紅茶を飲み終える。そして、中身のなくなったカップの底を見つめながら、静かに口を開いた。

「南先輩は、したいですか?」

「なにを?」

「ポッキーゲームです」

「ああ、ポッキーゲームか」

 私は考える。

 と言っても、彼女が何を言いたいのかは、なんとなくわかっている。

『キスがしたいか』

 彼女は、遠回しに、そう問うているのだろう。

 いや、大変えっちな方のポッキーゲームのことを言っている可能性もあるが、この際、その可能性は考えないことにする。

 どうだろう。

 わからない、と言うのが正直なところだった。

 恋人同士なのだから、キスをするぐらいは当たり前だとは思うが、したいかと問われると、よくわからない。

 わからないなあ。

「ななちゃんはどう? したい?」

 そう問いかけると、返事はすぐに返ってくる。

「私は、したいですよ」

――でも、

 と、彼女は言う。

「ゆっくりでいいですよ」

「…………そっか」

 どうやら、彼女は彼女で、こちらの胸中を察していたようだった。

「じゃあ、そのうち」

「はい、そうしましょう」

「うん、必ず」

 そう言って、私は、紅茶の最後のひとくちを口に含んだ。

 それは、もう冷えてしまっていて、酷く渋い。

 私は、それを、丁寧に飲み下した。

「そういえば、――先輩が猫ではないことはわかりましたが、結局、先輩が猫を名乗ったのは、一体どういう意味だったのですか?」

「ああ、いや、それは……」

「もしかして『猫』というのは、何かの隠語なのですか?」

「いや、なんでもないよ。なんでもない」

「……それは本当ですか?」

「うん、本当だよ。だから、あのときの言葉は忘れて欲しい」

「そうですか……」

「うん。変なこと言って、ごめんね」

「…………わかりました。先輩がそれでいいなら、いいです」

「うん」

 それでいい。

 知らないなら、知らないままでいい。

 自分がありのままでいられないよりも、自分のために相手が無理をする方がよっぽど辛い。

 押し付けることはしたくないのだ。

 絶対に。

「じゃあ、このちゅ~るはどう処分すればいいですかね。二十本入りのバラエティーパックをふたつも買ってしまったのですが……」

「そんなに買ったの!?」

「推しの乱れる姿を想像したら、手が勝手に動いていて……、気付いたら両手に持ってました……」

「欲望に忠実すぎる……」

「今までは、推しとファンという関係だったので、自分を律することができていたのですが……、今はもう恋人同士なんだと思ったら、たがが外れたように欲望が湧いて出てきて……」

「そ、そっか……大変だね……」

「はい、とても大変です。今も、すごく我慢しています」

「我慢? 何を?」

「いえ、言ったら引かれそうな気がするので、止めておきます」

「そんな、引いたりなんかしないよ。それに、私だって、できる限りの要求には応えたいからさ、言ってみてよ」

「ほ、本当ですか……?」

「うん、本当だよ」

「そ、それじゃあ…………」

「ほら、言ってごらん」

 私は優しく促す。

 しかし、彼女は、それでも決心がつかないようで、もじもじと逡巡する。そうして、しばらく迷っていたが、ついに意を決したように口を開く。


「先輩を吸ってもいいですか?」



 当初の予定通り、映画を観ることになった。

 ベッドに並んで寝転がり、彼女のスマホで視聴する。

 観たい作品は沢山あったため、かなり悩んだが、最終的に、私が前々からずっと気になっていた、イギリスのゾンビ映画を観ることにした。

 この作品の見どころは、古き良き走らないタイプのゾンビと、足腰の弱い老人たちによる、緊迫感のない超低速の追跡劇だ。そこからもわかる通り、ホラーというよりは、コメディ寄りの作品なのだが、要所々々で彼女はかなり怖がっていた。

 マイナーな作品ではあったが、ゆるく展開されるパニックホラー劇と、老人たちによる本格ガンアクションのギャップが非常によく、観ていて飽きの来ない、大変面白い作品であった。

 しかし、肝心のストーリーに関しては、いまいち頭に入ってこなかった。

 作品の作りに問題があったわけではない。

 私の腹部に仄かに残る、温かな吐息の感触が、思考を阻害し、映画に集中することができなかったのである。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る