召しませ茶釜食堂

三河すて

常連になりかけて

 駅前の繁華街を途中で抜けて、一本入った路地裏の先。ちょこんと置かれた看板と、まだ新しい暖簾からほんのり灯りが漏れる。シンプルな漆喰の壁では、控えめに店名が入った四角いブラケットライトが優しく客を出迎える。

 レトロなくもりガラスの引き戸をからから開くと、中からふわりと出汁の優しい香りが流れ出た。続いて鼻腔をくすぐるのは甘い炊きたてご飯の匂い。

 温かい色合いの灯りに、清潔感のある店内が映える。手入れの行き届いた木目の壁に、ゆったりした背もたれのある木の椅子。席はL字型のカウンターのみ、それも十人も座れば満席になってしまう。

 カウンター台には、大皿に盛られたおばんざいがいくつか並ぶ。入ってすぐの角には、小さな黒板に手書きの可愛らしい字でメニューが書かれていた。

 店内は多少の話し声があるものの、至って静かだ。曲名はさっぱり分からないが、邪魔にならない音量でしっとりとしたジャズが流れている。

「あら、いらっしゃいませ。開いてるお席にどうぞ」

 カウンターの中は小さな厨房。その先に繋がる長い暖簾の奥から、優しい女性の声が話しかけてきた。この店の店主だ。

 入り口から右手に三席、まっすぐ奥に七席。一番奥は誰も座れない指定席。開いてる奥から二番目の席につく前に、隣の人と会釈を交わす。スーツだからサラリーマンだろうか。ちょっと疲れ気味の目のクマが、遠慮がちに微笑む。

「さて、何にしましょうか」

 カウンター越しにことんと湯呑みを置く白い手。髪を後ろで一つにまとめた笑顔の眩しい店主は、三十路を過ぎたくらいの女性だ。この店を一人で切り盛りしているらしい。整った目鼻立ちと大きな瞳に、毎度ながらどきっとする。

 まずは注文と入った時に見たメニューを思い出しつつ、並んだおばんざいを見つめて頭の中で組み立てる。

 一瞬で心奪われたごろごろ野菜の肉じゃがは外せないとして、隣に置かれた自家製ポテトサラダも気になる。残り少ない豚の角煮は、頼んだら自分で最後かもしれない。とはいえ、出来立てで出されるであろうだし巻き卵も食べたい。

「じゃあ、だし巻き卵に肉じゃが。角煮も追加で」

「はい、かしこまりました」

 紺色のシンプルなコックコートを身に纏った店主は、軽くお辞儀をするとまた暖簾の奥に引っ込んでいった。

 モダンな和風の内装なのに、彼女は和服ではない。着物姿だったら女将と呼ぶのが似合いそうではある。和服の白衣なら大将だろうか。

 スッキリしたスタンドカラーのコックコートに、真っ白なロングの腰エプロン。細身のパンツルックでてきぱき動き回っている。シェフと呼ぶのがぴったりの姿なのだ。

「豚汁もあるんだ……」

 少し熱いお茶に息を吹きかけながら、別の人の注文を見て突然羨ましくなってしまう。

 つい出てしまった独り言に、隣の人が気付いたのかくすっと笑った。恥ずかしいけれどなんだか楽しくなって、彼の分かりますよの一言からぽつぽつと会話が繋がっていった。


 偶然この店を見つけた時は、ドラマの中でしか見たことのない小料理屋というやつだと思った。大学進学で上京して、バイトをしながら勉学に励むギリギリの生活。そんな自分には縁が無い店だとスルーしようとしたのに、あまりにもいい香りがするからつい扉を開いてしまった。

 中もテレビで見たまんま。お客さんは落ち着いていて店内も上品。どうやっても学生には手の届かなさそうな雰囲気で引き返そうとしたのに、あれよあれよと店主に促されてちゃっかり着席。

「あの、俺、お酒飲めなくて……」

「うちは飲めない人大歓迎なんです」

 実のところお金もないんです、なんて言えない。差し出されたメニューを恐る恐る見たら、つい声が出ていた。

「え、安っ」

 学食とまではいかなくても、そのへんでちょっといいラーメンを食べるより遥かに安い。しかも流行りのカフェだの映えるめしだの以上に、文字だけで美味そう。

 緊張して目に入らなかったカウンター台の上に並んだものを見て、ごくりと喉が鳴ったのも覚えている。

「迷ってらしたら、本日のおすすめはいかがですか。並んでるおばんざいをちょっとずつと、今日は豚の生姜焼きです」

「それでお願いしますっ!」

「はい、かしこまりました」

 それからはすっかりこの店の虜。毎日は無理でもバイト帰りで猛烈に腹が減っている時は必ずここに来るようになった。


 ぶりの生姜煮に小松菜の煮浸し、ニラと卵の炒め物。ご飯は少なめに味噌汁は普通。ひじきの煮物も小鉢についてきた。

 カウンターの上でやり取りされる四角いお盆。ぴったり収まった中身をついつい横目で見てしまう。さっき知り合ったばかりの人に失礼だけれど、漂う匂いにどうにも目がいく。

「一人暮らしをしていると、魚ってなかなか食べなくて」

「言われてみると……」

「不思議と最近、肉より魚が食べたくなるんです」

「そんな都市伝説みたいな……」

 隣のサラリーマン風の人は、そう言いながらつやつやのぶりの身をちょこちょこ器用に箸でほぐした。そんな年齢には見えないけれど、歳を取ると肉が食べられないって事実なんだろうか。

 湯気の立つお椀を傾けるところは、見たらまずいと目を逸らす。その先でちょうど逆隣の特等席の主と目が合った。

 とろんとした瞼に、気だるげな口元。ふわあ、と声まで出して大あくび。むにゃむにゃ何かを言ったと思ったら、椅子の上に座り直して背伸びをする。

「起きた……」

 こくりと頷いた主は、ふんふん黒い鼻を鳴らしてカウンターの端をぺしぺし叩いた。

 何度か通ったけれど、主が起きているのを見たのは久しぶりだ。むしろ最初はなにか分からなくて、ぬいぐるみでも置いてあるのかと思っていたくらい。

「……犬?」

「たぬきです」

「生の?」

「生きてますよ、ほとんど寝てますけど」

 ひょこっと奥から出てきた店主が、別の常連さんにお盆を渡しながら話しているのに聞き耳を立てる。まさか小料理屋にたぬきがいるだなんて誰も想像しない。俺も慣れてきた時に同じ会話をした。

 奥の席の主、たぬきが起きたのは催促のためだったらしい。店主が腕を精一杯伸ばして、カウンターの中から年季の入った枡をたぬきの前に差し出した。見慣れない家紋のようなものが焼印で記された枡の中身は、艶めく透明な液体。

 寝起きで喉が渇いていたのか、お水のようだ。たぬきは椅子の上で楽しそうに頭を揺らす。もふもふの大きな尻尾も犬と同じらしく、ふりふり左右に揺れている。

 長めの舌でぺちょっと枡の中身を舐めて、目を細めたたぬき。ご満悦、と頭の上に浮かんだみたいな顔。

 店内の全員がたぬきに釘付けになった。野性動物がどうしてこんなところに、いや衛生的にどうなんだ。なんてことの前に、美味しそうに水を舐めている姿がたまらなく食欲を掻き立てる。

 ぐう、と限界に達した腹が鳴った直後、ふわふわの湯気とともに店主が奥から現れた。

「おまたせしました。だし巻き卵に肉じゃがと角煮です」

 軽くお礼を言って受け取ると、店中の視線がこちらに刺さる。どこからか漏れたため息と、ちょっと悩む独り言。いつの間にか、みんなおばんざいに釘付けになっていく。

「すみません、こっちにご飯おかわりとニラ玉と肉じゃが追加で」

「私も肉じゃがとご飯と……味噌汁もおかわりください」

「はーい、すぐ用意します」

 手元に運ばれてきたお盆の中にずらりと収まった料理が眩しい。漆塗りのお箸を紙袋から引き抜く。まずは味噌汁がいいなとお椀を手にしたら、目の前で肉じゃがが売り切れた。ニラ玉ももうすぐなくなりそうだ。

 まだ口もつけていないのに、おかわりはどうしようなんて心配が頭に浮かぶ。

 ふと視線を感じて隣を見たら、一番奥の席の主が意味ありげににんまり笑っていた。


 芯まで味の染み込んだほろほろのじゃがいも。口に入れたら牛肉の脂と混じって口の中でほぐれてしまう。とろとろになった玉ねぎと一緒に炊きたてご飯を頬張ると、鼻から熱が溢れていく。

 角煮、最後の一皿に滑り込めて良かった。噛むとじゅわっと溶ける脂身と甘辛のタレ。茶碗の中身がどんどん減って、おかわりしたのにもう残りが少ない。

 しっとり巻かれただし巻き卵は出来立てほかほか。明るくて鮮やかな黄色の中に覗く焼けたきつね色は手作りの証だ。ほんのり甘くて出汁の優しい味がふわふわ広がる。

 シンプルな油揚げとわかめの味噌汁も二杯目に突入した。この店で初めて食べたちょっと甘めの味噌汁、他では味わえなくて癖になる。レシピを知りたいけれど聞いていいものか分からなくて、毎度おかわりしてばかり。

 おばんざいは完売御礼、店先の看板は店主に片付けられていた。大皿もすっかり姿を消して、熱いお茶を啜る人と空いた席がちらほら。

 いつの間にやら空になった枡の前でぷうぷう寝息を立てているたぬきは、人が出ていったところで我関せずのままだ。

 香ばしいほうじ茶で口の中をさっぱりさせて、大満足のため息が出る。

 一番遅く入った自分が最後の一人。隣のサラリーマンの人は、少し前に晴れやかな顔をして出ていった。他の人もそうだけど、みんなこの店に入った人は明るい表情になって帰っていく。

「本当、いい食べっぷり」

「へへ……」

「また来てくださいね」

 店主からお釣りを受け取ってちらっとたぬきを見ると、ムッと変な声を出しながら目をしぱしぱさせた。主なりのお見送りなのかもしれない。

 暖簾がなくなった引き戸の外に出た瞬間、すっと爽やかな風が吹く。そういえば、この店から出た時はいつもそうだ。帰り道から寝る前まで、店に行って良かったな、という気持ちで満たされている。

「うん、ホント良かった」

 人通りのまばらになってきた繁華街を抜けながら、ついひとりごちてしまった。



「うーん、もう一杯」

「飲み過ぎだからダメ」

「なぁんだよ、このケチ人間」

「働かざる者飲むべからず、なの」

 ううん、と低い声で唸ると、たぬちゃんは専用のもちもちクッションの上で伸びをした。やっと片付けが終わったところなのに、また飲もうだなんて。

 人前ではたぬきのふりをして無言を貫いている彼は、二人きりになると本性が出てお喋りになる。喋れるだけあって普通のたぬきではないらしく、何を食べても問題なし。

 それどころか、お酒が大好物のおじさんたぬきだ。

 お腹はぷにぷに、おめめはだるだる、いつでも気だるげ。ちょっとしゃがれた声までおじさん丸出し。自分で歩くのも疲れちゃう、と抱っこをねだることだってある。

「今日も満員御礼、平和な一日だったろ?」

「それは助かるんだけどねぇ」

 たぬちゃんがいると、何故だかいい具合に席が埋まる。一席分を彼で埋めていても、さくっと入れ代わり立ち代わりで閉店時間までちゃんと回る。

 それどころか、奮発して高めのお酒をちょこっと出してみると、美味しそうににまにましている顔に釣られて、みんなおかわりをしてくれる。

 招き猫ならぬ、招き狸。語呂が悪いのは御愛嬌。

「しょうがない、帰りは抱っこしてしんぜよう」

「そいつぁどうも」

 小型犬よりはちょっぴり立派、少し大きめの猫くらい、が最適だろうか。抱っこ待機中のもふもふボディを抱き上げる。案外毛皮が厚いので、見た目より軽くて腰への負担も安心。抱っこしたまま店の引き戸に鍵をかけて、裏に回って別の扉を開いた。

 お店の上、階段を登った先はこぢんまりした私たちの住処。一人と一匹で暮らすにはちょうどいい広さだ。お風呂もあるし、小さいながらもキッチンだってある。

「おっ、鮭の茶漬けか。いいねえ」

「ご飯が少し余ったし、小腹が空いたからね」

 さっと食べられるものを、と市販のお茶漬けの素に鮭のフレークを乗せただけの簡単ごはん。仕組みは分からない焦げ茶の肉球が、器用に木のレンゲを掴む。

 ちゃぶ台に合わせた子供用の椅子へ座っているたぬちゃんは、ぽよぽよお腹の毛を揺らしながらお茶漬けをかき込んだ。こうして見ると、人間のあかちゃんみたくて可愛らしい。

 はふ、と湯気を口から出しながら、彼は小さなおみみをぴょこんとはねさせた。

「鮭のほら、なんつったか。なんとかってのと混ぜたアレがまた食いたいな。生のぐちゃぐちゃしたやつだよ、ぶどう酒に合わせてただろ」

「なにそれ……」

「なんっつったかねえ」

 空っぽになったお椀を片付けて、こっそり酒瓶に近付くたぬきを見張りながら事務作業。幸いなことに、赤にはならないままのんびり続いてくれている。

「箸袋、奮発して店名を印刷してみようかな」

「いいねえ。俺がいるから茶釜って安易な店の名前は置いといて」

「ついでにたぬちゃんの手形も押しとく?」

「なんだかなあ」

 いいデザインが思いつかないからそのあたりは要検討。たぬちゃんありきのこのお店、もう少し入りやすい雰囲気にしてみようかしら。アイデアは浮かぶけれど、ひとまず今日のところはやめておく。

 ちなみに、お風呂上がりにやっと判明した鮭の料理は、私の得意なサーモンのタルタルだった。

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