029譚 風に導かれ道を進む(下)


 ひと息付くと、アラニスはまた進み始めた。王城は寂しいくらいにひっそりとして、どこまでも暗い。だと言うのに、あちらこちらに衛兵が彷徨いており、「呼び掛け」がなければドッキリに付き合うこととなっていただろう。――否。すでに一度、心臓が飛び出しかけたが。

 

(ここもダメ……やっぱり、一筋縄に行かないわね)


 アラニスは物陰に隠れて、衛兵や侍女などの通行をやり過ごす。

(なんだかどんどん遠ざかっているような……)

 だが、仕方のない。人目を避けて、と指定したのはおのれである。きっとこれでも最低限の人通りの場所を通っているのだろう。

(よし)

 ようやく最後の侍女の姿が闇に溶けると、アラニスはさっと物陰から出た。隠れん坊をしながら進んでいる気分だ。いや、だるまさんが転んだか?とにもかくにも、進まねばここへ訪れた意味がない。アラニスはまた、足を進め始める。

(だいぶ歩いたわね)

 今、アラニスは王城の東端あたりを歩いていた。幾つも部屋があるが、どこも扉を固く閉ざしているので、何に使用している部屋なのかさっぱり判らない。途中、書物が大量に詰め込まれていた部屋があり、そこだけが書庫であろうと判ぜられた。

 矢庭に、ふつり、と風が途絶えた。


『え?』


 アラニスは思わず、声を上げる。定期的に指の血は垂らしているし、神詞かむことばも唱えている。だと言うのに、突然に神々の力が途絶える。

(しまった!)

 後方から足音が鳴らされた。数人の衛兵たちだ。彼らは確実にこちらへ向かって来ている。――誘い込まれたのだ。


された……!』


 アラニスは悔しさで地団駄を踏みたい気分になる。だが今はそれどころではない。急いで逃げなければ。アラニスは形振り構わず走り出した。

(いつの間に、上書きされていたの!?そんな気配、なかったのに)

 薄暗い廊下を駆け抜け、アラニスは隠れる場所を探す。

 上書き――それは、自分より上位の精霊師(光の王国では聖騎士)が、「呼び掛け」を改変すること。正確には同じ神々を特定して「呼び掛け」をし、「呼び掛け」の内容をすり替えてしまうこと。

 アラニスは東の階段を駆け下り、ふと目に入った書庫へ飛び込む。それと同時に、追手と思われる衛兵たちが書庫の横を通り過ぎて行く。間一髪だ。


「はあ……危なかった」


 脱力したいところだが、そうは行かない。アラニスはすっと立ち上がって書庫の中を歩いた。

(どうしよう。しばらくは「呼び掛け」できないし……)

 上書きされた「呼び掛け」が無効になるまで、下手に再度の「呼び掛け」はできない。

(わたしは「声」聞こえないしな)

 神々の力を借る者の多くは、神々の声を聞くことができない。それが九割方と言っても過言ではない。神々は人間ひとに聞こえない波長で言葉を話す。逆に大抵の場合、神々は人間の声を聞くことができる。だから、一方的に神詞かむことばで話し掛けて、力を貸してくださいと「呼び掛け」るのである。


(せめて直接契約している精霊さまがいたらな)


「呼び掛け」をする者の中には、特定の神と常に共にある者がいる。ようは、その神に気に入られた者だ。

 どれくらい気に入られているかというと、神々から気を遣うほど気に入られているのだ。たいていの人間は神の声を聞けないので、神々が肉体はわざわざ纏って、その人間と話せるようにするらしい。

 中にはそんな工夫もせず、憑き物よろしく勝手に付いて回る神もいるらしいのだが。なんだかいつもこの技が使えるな、という時はたいていそうだ。


 だが残念なことに、アラニスはどちらでもない。


 途方に暮れながらも、アラニスは何となしに書庫の中を歩き回る。人の気配はない。壁に埋め込まれた棚にはびっしりと古い文献が並べられている。

(紙は高価なのに、すごいわね)

 中には、石版まである。かなり古い。

 アラニスはふらふらと、書庫の奥に並べられた机のそばへ歩き寄る。すべて同じ重厚な造りの机だ。セットの椅子も細やかな文様が施されている。

 ふと、アラニスはその机のひとつに置きっぱなしになっている石版を認めた。


(これは、古代語ね。それもかなり古い)


 はるか昔、光の王国が建国されるより以前の言葉だろう。アラニスでも、その形を知っていた。独特の象形文字。

(さすがに読めない……)

 元々あまり得意ではないというのもあるが、風化していて掠れているというのもある。

(こんな石版まで手に入れて……しかも読もうとするなんて)

 飾りとして手に入れたのならこんなところに置かないだろう。それに、ここは「王の」書庫だ。

(今の王さまは、古代文化か何かに興味を持っているということかしら)

 よくよく見れば、書棚に入り切らないほどの文献が積み重ねられている。異国語の物もある。加えて、どれも埃を被っていない。直近も何者かが触ったということだ。アラニスはその数冊を捲って、中身を見た。凝った装丁のものもあれば、質素でただ羊皮紙を纏めただけのものもある――片端から集めたという印象を受ける。


「おい、ここにいたぞ!」


 突然、室内に向けて男の声が響かれる。いつの間にか、数人の衛兵が書庫へ押し寄せている。アラニスははっとして瞠目した。

「――!」








 王城の柱廊で、ヒュウッと強い風が吹き付ける。その風は広く、王城すべてを撫でるように吹き渡る。葉を落とさない木々を揺らし、空の厚い雲の流れを速くする。

 その暗闇の差す柱廊をひとり、ケルバンは足音と立てずに歩いていた。周囲には人の姿はなく、風の音を残して静寂の中にある。彼は頭からすっぽりとダークグレイの外套マントを被り、闇に紛れるようにして前へ足を進めている。


「人が悪いわね、ケル」


 その耳元で、女の声が鳴らされる。鈴の音のような、軽やかで透き通った声だ。ふふ、と笑う声とともに、その声主は風の中にふわりと姿を現した。


「五月蝿い」


 ケルバンは短く返す。横を歩くのは、緑の髪をした美しい女。風を司る神ティララである。

「片っ端から私の同族に声を掛けろなんて。今ごろあの、真っ青よ」

 ぴたり、とケルバンはおもむろに足を止める。

「――しつこい。さっさと行け」

 外套マントの奥から、低く言い放つ。その声には感情のようなものは感じられない。だがその外套マントの奥で、黄金の瞳が鈍い光を放っている。それは爛々と燃える獣の眼だ。

 ティララはにっこりと微笑を浮かべたまま、ふふ、と笑って姿を消した。厚く覆う鈍色の隙間から、ケルバンの黄金と同じ色をした満月がひっそりと顔を出していた。

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