003:未来への不安

 大男が拳を振るう。

 バチリと視界が弾けて、ゆらゆらと空間が揺れているように感じる。

 俺は片足で何とか衝撃に耐えながら、片手で口から垂れる血を拭う。

 意識はまだある。この程度で倒れてやる訳にはいかない。

 それが俺の最後に残った意思だから。

 

 男は額から大粒の汗を流しながら、呼吸を大きく乱していた。

 ダメージを受けているのは俺なのに、もう疲労困憊で……やっぱりハッタリだったな。

 

「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ……くそ、こいつ……まだ、立って」

「……」


 奴は飽きる事無く俺を殴り続けた。

 時折、周りの仲間も加わって俺を代わる代わる殴って来た。

 俺はそれを黙って受け続けて、ジッと奴を見ながら立っていた。


 抵抗はしない、逃げる事もしない。

 俺はただお前を見ながら立っているだけだ。

 その意思を瞳を通して奴に伝える。

 すると、奴は一瞬だけ背筋を震わせていた。


 退役兵というのは……嘘だな。


 腐っても軍人であれば、こんなに腑抜けた攻撃はしない。

 一発一発の攻撃が、まるで力が入っていない。

 動きは無駄だらけで、ただ相手を痛めつける事しか考えていなかった。

 その証拠に無駄にエネルギーを消費して息が上がっていた。

 素人に毛が生えたような攻撃を何発受けたところで、膝を折るほどではない。


 相手がこいつで良かった。

 もしも、本物の軍人なら確実に意識を刈り取られていただろう。


 俺は黙ったまま奴を見続ける。

 すると、奴は一歩後退してから仲間に声を掛けた。


「……行くぞ」

「え、何で」

「――行くって言ってんだッ! 勘定してこいッ!」

「へ、へい!」


 仲間と言うよりは手下だな。

 怒鳴られた男は慌てて店に戻って行く。

 そうして、残されたそいつらはそいつの帰りも待たずに去っていった。


 店から出て来た奴は去っていった男たちを追いかけていく。

 俺は厄介事が消えたと認識し、そのまま店へと戻ろうとした。

 ゆっくりと重い足を動かして、店へと進んでいく。

 しかし、足が少しだけもつれてしまう。

 ゆっくりと前へと倒れそうになって――何者かが俺を受け止める。


 店からサッと出て来たそいつは、俺の体を器用に支える。

 そうして、俺の体を戻しながら「大丈夫か?」と聞いて来た。


「……ありがとう」

「どういたしまして……なぁ、アンタ」


 俺は奴に礼を言う。

 そうして、奴が何か言おうとしたのも無視して店へと戻って行った。

 これでいい、深く関わればまた厄介事が起きる。


 俺が戸を押して入れば、店の中にいた人間たちが俺を見て来る。

 どいつもこいつも、俺を煩わしそうに見て来た。

 俺はそれを無視しながら、カウンターに置いた荷物と鍵を取る。

 店主は何も言わない。この男も、俺とは関わりたくないのだろう。

 それでいい、その方が此方も気が楽だ。


 俺は店内を移動して、二階へと続く階段を上がっていく。

 ゆっくりと上っていくが、足に力を込める度に痛みが出て来る。

 体中がズキズキと痛みを発していて、俺はそれを無視して上に行く。


 階段を上がり二階へと着けば、合計で12の扉がある。

 左右に廊下を挟んで左右に六部屋ずつある。

 燭台に灯された火は心もとないが。

 見える範囲では人はいない。

 部屋からも音は聞こえず。やはり、誰も泊まっていないと認識できた。

 奥の部屋らしきところへと進めば、扉に小さく番号が刻まれていた。


「……六」


 貰った鍵を差し込む。

 そうして回せば、ガチャリと音がした。

 ロックが解除されて中へと入れるようになった。

 俺はノブを掴んで回し、中へと入っていった。


 暗い部屋の中。

 窓から差し込む月明かりで、何とか部屋の全貌が分かる。

 

 部屋の中は至ってシンプルだ。

 小さなベッドが一つに、窓の方にテーブルと椅子が一つ。

 トイレもシャワーも無いが、別にいい。

 ベッドが部屋のほとんどを占めていて狭いが……まぁいいか。


 俺は部屋へと入って――後ろを振り返った。


「よ!」

「……何でついてくる」

「いやぁ、何かさ。アンタが気になってな……中入っていいか?」

「……店主に叩きだされるぞ」

「いやいや大丈夫。金なら払ってるから……ほら、三号室の鍵!」


 奴はポケットから鍵を出す。

 鍵には三番と書かれた札がついている。

 この宿に宿泊予定の客であり、何故か俺の部屋に侵入しようとしている。


 此処で追い返すのは簡単だ。

 しかし、こいつは見たところ異分子ではない。

 追い返して警官を呼ばれたりして騒ぎを起こされるのは御免だ。

 本当はさっさと寝たかったが……やむを得ないな。


 俺は小さく息を吐く。

 そうして、無言で部屋の中に入っていった。

 奴は「やりぃ!」と言いながら中へと入り扉を閉める。

 ご丁寧に鍵までかけてくれて、俺は益々、警戒心を高めた。


 靴を脱いでベッドに横たわる。

 奴は部屋の中にあった煤汚れたランプに持っていたライターで火を灯す。

 暗かった部屋に明かりが灯って。

 奴は椅子に腰かけながら、俺と向き合った。


 黒い髪を無造作に伸ばして、色付きの胡散臭いサングラスを掛けた男。

 スーツをだらしなく着崩して、人懐っこい笑みを俺に向けるこの男は――怪しい。

 

「……随分と安心してんだな」

「……そう見えるか」


 奴はニタニタと笑いながら、俺を見つめて来る。

 奴の目には俺が単純に安心しきっているように見えるのだろう。

 まぁそう見えるのも仕方ないし、俺はほとんど諦めている。

 

 ベッドに横たわっているのは、単純に疲れているからだ。

 幾ら素人からの攻撃だったからといえども、それなりにダメージは蓄積されている。

 気を抜けば今すぐにも眠りにつきそうな状態だ。

 

 警戒心はそれなりにあるが、奴から俺に対しての明確な敵意を感じない。

 もしも、ほんの少しでも悪意があるのなら。

 俺はとっくに殺られている筈だ。


 金品が目的でも無い。

 もしもそれが目当てならば、俺がナップサックから離れた時点で奪っている。

 それをせずに、呑気に俺に手を貸した理由は分からないが……少なくとも、害は無さそうに見えた。


 胡散臭い見た目をしている癖に。

 何故だかこいつからは悪意を感じない。

 天性の才なのか。それとも、名の知れた詐欺師か……まぁ、どっちでもいいか。


「……俺を揺すっても何も出ないぞ。金が欲しいなら、他を当たってくれ」

「あぁ? いやいや、金なんていらねぇよ……いや、本当はめっちゃ欲しいけど。マジで。この街カードが使えないからなぁ」


 俺が念の為に忠告すれば、男は馬鹿正直に答えた。

 奴の発言は軽薄そのもので……だが、嘘は無い。


 言葉は軽いが、ほんの少しの嘘も無い。

 俺は奴の目をジッと見つめる。

 ランプからの光に照らされて、奴の碧眼が光ったような気がした。


 少しだけ、ほんの少しだけだが……この男から何かを感じる。


 プレッシャーに近い何か。

 強者だけが発する事の出来るオーラのようなもの。

 幾つもの死線を潜り抜けて、その度に出会った強者の敵たち。

 そいつ等から感じたような圧を、この男から少しだけ感じる。


 安心感を覚える空気。

 しかし、それに相反する様に妙な圧を感じる。

 全てがちぐはぐで、存在自体があやふやな男。

 何を考えているのかも、何が狙いなのかも分からない。


 こいつと言葉を交わせば交わすほどに警戒心は強くなる。

 何故だかは知らないが……気を付けた方がいいかもしれない。

 

 俺は視線を鋭くさせながら、男を見つめる。

 奴は俺の視線に気づいてくつくつと笑う。

 やはり、何か狙いがあったのか。

 俺は奴の見えないように拳を固める。

 もしも、此処で俺を襲うと言うのならただで殺られるつもりは無い。

 隙を見て逃げ出せば、まだ助かる見込みはある。

 俺は頭の中で逃走ルートを計算しながら――


「バレちゃ仕方ねぇな。そうだ。俺は、お前を――」


 奴が何かを言おうとした。

 しかし、それを遮る様に情けない音が響き渡る。

 ぐるぐると静かに響くそれ。

 下の階の馬鹿どもの笑い声にも負けないようなそれは……奴の腹の虫だった。


 奴は演技を止める。

 そうして、腹を摩りながらニコリと笑う。

 

「……腹減ってねぇか?」

「……別に」

「……此処の店のナポリタンは絶品らしいぜ」

「……食べればいい」

「……実は、宿代と酒代でな……な!」

「…………」


 ――訂正する。こいつはただの馬鹿だ。


 何か大事な事を言おうとして、腹の虫を響かせる馬鹿。

 そして、飯を食う金さえも無い素寒貧。

 俺は奴へと憐れみの視線を向けながら、隠すことも無くため息を吐いた。

 面倒事は御免だが、こいつの話を聞くのはもっと面倒だ。

 

 俺はナップサックに小銭が入っている事を伝える。

 全部持って行っていいから、後は好きにするように言って。

 すると、奴は目をキラキラと輝かせながら俺に礼を言ってきた。


「ありがとよ! この恩は、絶対に返すからな! マジだぜ。オオマジだ!」

「……さっさと行け」


 俺が顎を動かして行くように命じれば。

 奴は凄まじい勢いでナップサックに近づき中から財布を取り出した。

 そうして、小銭を全部持って行って去っていく。


「飯食ったら話の続きだ! 待っててくれよ!」

「……はぁ」


 奴はそれだけ言い残して扉を閉める。

 俺はため息を吐きながら、重たい体を動かして移動する。

 ゆっくりと扉の前に立ち手を動かして――ガチャリとロックをした。


「……これでいい」


 アイツには関わってはいけない。

 何故だか知らないが、奴からは厄介事の匂いがする。

 まるで、爆発寸前の火薬庫であり……忘れよう。


 金に関しては、手を貸してくれた礼だと思えばいい。

 明日には銀行から金を引き出して、早々に此処から去るつもりだ。

 元々、こんな危険地帯に長居するつもりは更々ない。

 金を下ろして傷の手当てを……いや、手当は良いか。


 殴られた所はズキズキと痛むが、これくらいならすぐ治る。

 昔から傷の治りは早い方で、他の兵士に暴行されてもすぐに出撃していた。

 一日寝ていれば、腫れも引いていくだろうからな。

 俺はそんな事を考えながら、明日からの行動を整理していく。

 

 仕事を探す為に、もっと人で賑わう場所に行く必要がある。

 街でもいいが、どうせなら都市やその上の大都市がいい。

 此処よりは治安も良い方であり、仕事を探すにしても求人は多く出ているだろう。

 まぁ、俺みたいな人間が再就職できるかは怪しいが……いや、ほぼゼロだろうがな。


 乾いた笑みが零れる。

 そして、ちくりと傷が痛みを発した。

 俺は頬を指で少し撫でてから、血が出ていない事を確認する。

 

 ……少なくとも、此処でいるよりはマシだ。

 

 俺はそう考えながら、ランプの火をさっと消す。

 そうして、暗くなった部屋の中で再び質素なベッドへと戻る。

 少しカビ臭く硬いだけのベッドの上に転がり、シミが浮かぶ天井を見つめる。

 そうして、俺は張り詰めていた緊張の糸を解いた。


「……はぁ」

 

 静かに欠伸をする。

 睡魔が急激に迫って来た。

 意識が朦朧としていって、ズキズキと痛んでいた傷の感覚も消えていく。

 心地よい眠りの世界へと誘われながら。

 俺は重い瞼を流れのままに下ろしていく。


 一階で騒いでいる人間たちの声なんて関係ない。

 溜まりに溜まった疲労を此処でおとしていく。

 俺はそれだけを考えながら、自然に意識を闇へと沈めていった。

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