22.山賊と怪物

 ドクンと心臓が強く脈打ち、そして勢いを止めた。全身を巡る血が凍るように落ちたかと思うと、次の瞬間には炎のように燃え上がり始める。その熱は夜風の冷気を溶かすほどであった。


 目の前で父が斬首され、その血を浴び、気が動転しないわけが無い。恐怖と怒りがないまぜになって、知希の脳天をより熱くする。


 どうして考えもしなかったのか。異世界にだって危険が潜んでいるかもしれないということを。


 意思を失い崩れ落ちる父の身体を前に言葉を搾り出そうとしたが、口の中は嗚咽でいっぱいになってしまっていた。


「紡ぎ屋。さっさと金を置いていきな。同じ目に遭いたくなきゃな」


 剣に付着した鮮血を腕の間に挟んで拭き取った男は、何食わぬ顔で次に知希を恫喝した。人を殺めたというのに、感情の揺らぎも見せない。


 山賊。そう言い得る身なりの男達は、次第に知希を囲むようにわらわらと集まってくる。おそらくその風貌から、父を襲った髭の濃い男がリーダー格だろう。


 皆、それぞれに鈍く光る武具を身につけていた。その下卑た笑い声からも、危険な香りが臭ってくる。知希が持つわずかな金のためだけに、彼らは底の知れない貪欲な眼差しを浮かべているのだろう。


 無論、知希には抵抗する術など持ち合わせていないし、父の死は自身を無抵抗にするだけの衝撃を与えるには十分過ぎるほどだった。まだ話を始めてもいなかったのに。


 気力を失った知希を見かねた賊の一人が、たまらず手を出す。


「早く出せよ、なぁ!」


 知希は背中を手で一突きされると、そのまま地面にうつ伏せに倒され、頭を強く押さえつけられてしまった。


「さっさとやって、金だけ奪っちまえよ」


「殺しちまえ」


 下衆な笑いに混じり、山賊達の声が飛び交う。


 金を正直に渡したところで、命の保証など無い。そう思えてしまうほどに、男達の声は野蛮で狂気を孕んでいた。


 窮地において、しかし知希の頭の中に過ったのは、不適な笑みを浮かべたあの男の顔だった。


 フェレス。奴はこうなることを知っていたのではないか。いや、そう仕組んでいたのかもしれない。そうやって人の命を弄び、楽しんでいる。そうして父をも殺した。信用してはいけなかったのだ、あの男の言葉を。


 何故なら、奴は”悪魔”なのだから。


「さっさと殺して、”ローズの爺”も殺りにいこうぜ」


 それは、頭を押さえつけていた男の一言だった。


 ぷつりと知希の頭の中で何かが切れる音がした。ローズの名前を聞いた途端、限界まで引き伸ばされていた一本の糸が千切れたかのような、そんな感覚だ。まるで何かが解き放たれ、身体の全てがふわりと軽くなるような。


「お、おい。見ろ」


 突然、誰かが狼狽えるようにして叫んだ。引きつるような他の者達の悲鳴を背景に。


 集まる視線の先に、知希は見た。


 それは一本の腕。およそ人間のものとは思えないほどに”肥大化した腕”だ。凶暴な筋肉が皮膚を突き破らんとするほどに膨れ上がり、浮き上がった血管には禍々しい紅と蒼がほと走っている。猛獣のもののように尖った五本の爪は、見ているだけでも心臓を引き裂かる気分になった。


 なんだ、こいつ。


 異形の者の手に知希は怯え、呼吸を忘れた。


 その腕は、まさに知希の顔の右側面、そのすぐ側を通り過ぎる。そして伸ばした先に、頭を押さえつけている山賊の顔がある。


「ひっ」


 突如現れた怪物の腕に顔を鷲掴みにされた男には、そんな短い悲鳴を発する時間しか与えられなかった。


 次の瞬間には、男の頭は轟音を立てて地面にめり込んでしまっていたのだ。皆が唖然と見つめている最中、怪物は男を石ころのように軽く拾い上げたかと思うと、再び力任せに地面に叩きつけた。


 山賊達は怪物の驚異的な力に腰を抜かし、そして震えた。動かなくなった仲間の姿を見せつけられて、恐怖しないわけがない。


 賊に加えて怪物まで出ると、知希にとっての異世界の世界観は更に大きく歪んだ。この世界はとんでもない危険で満ち溢れている。


「お前、何しやがった」


 父を殺した男はしかし、剣を構え直して知希の姿を凝視している。


 知希は、そんな男の意図を図りかねた。対峙すべき危機は知希などではなく、突然現れた怪物だ。髭の男は何故、こちらを見て戸惑った顔をしているのか。


 とにかく、腕の持ち主が一体どんな姿をしているのか、知希は腕に向けた視線を徐々に上げていった。


 狂気じみた悪魔のような手のひらから、極限にまで膨張した二の腕を辿り、そこで行き着いたのは……。


 なんだよ、これ。


 行き着いた先、驚愕の事実に生唾を飲み込んだ。


 怪物の腕は、知希の胴体から生えていたのだ。いや、正確にはそれこそが知希の右腕だった。


「……俺の?」


 どっと噴き出るいくつもの不快な汗が、筋となって頬を流れ落ちていく。悲鳴のひとつも上げたかったが、唇も震え、喉も乾き切っていて声が出せない。


 そして知希はおもむろに立ち上がったが、それは自らの意思で立ち上がったのではなかった。本人の制御を無視して、身体が一人でに動いている。


 本人に腕を動かしたり、ましてや男ひとりを地面に埋めてしまったような感覚は全く無い。まるで何者かに身体を乗っ取られてしまったかのような気分の悪さが、知希を不安定にさせた。視界だけが、まだ知希の言うことを聞いていたのだ。


「冗談じゃねぇ。お前も”ギフテッド”かよ」


 ごくりと生唾を飲む音が聴こえると、髭の山賊は知希の知らない単語を口る。


「グググ……」


 知希の口から、猛獣のような唸りが漏れる。怒りも疑問も、口に出そうとした声は全て言葉となり得なかった。


 俺の体は一体、どうしてしまったんだ。そう内側で呟いて、まさかと見てみた左腕も、いつの間にやら右腕と同じように凶暴化してしまっている。


「てめぇら、ずらかれ!」髭の山賊が叫んだ。視線は知希から離さないまま。「こいつはお前らの手には負えねぇ。トリス、笛を吹け!」


 リーダーの一声に笛の音が上がり、皆、蟻の子を散らすかのように慌てふためき、よろけながらも夜の暗い林に向かって走り出す。


 その様子に知希の視線が喰らい付いた。四つん這いになった姿勢から、両脚に凄まじい力が送られてきたかと思うと、瞬時に爆発する。まるで動く獲物に反応する動物のように、脚に力を入れて空を跳んだのだ。


 凄まじい跳躍であった。蹴り上げた地面は大きく抉れ、飛んだ高さは優に人の三人分はある。逃げ散らかる山賊達の数を、頭上から正確に把握できるほどだ。


 他の者より出遅れた最後尾の一人を狙う。必死に自身を制しようとする知希の意思に反して、右腕が勝手に動いた。鋭爪の一閃が、賊に向けて振り下ろされる。


「おっと!」


 振り下ろした爪は、しかし、無音の壁に遮られ、眩い火花を散らしながら何かに受け流されてしまった。


 それは、髭の男の剣だった。知希とその獲物との間に立って、その武器で知希の攻撃を無力化したのだ。知希の一撃には相当な力が乗っていたはずだが、それを流せるこの男もただものではない。


 しかし、火花散るほどの衝撃、何故一切の音をも発さなかったのか。


「グッ……!」


 一瞬の後、右腕に痛みが走った。


 見れば腕の内側に一筋の切り傷。じわりと染み出す真っ赤な血液に、知希の血の気が引いた。いつの間に斬られたのか。感覚は無いが、痛みはある。


「とんでもねぇ化け物だが、斬れないわけじゃねぇな。お前、何のギフトだよ、それ」


 額に玉の汗を浮かばせた髭の男が、固唾を飲んでそう聞いてくる。


「ウググ……」


  そんなこと、知るわけが無い。こちらが聞きたいくらいだ。そんな知希の声は、またも言葉の体をなさなかった。


 何故、こうなってしまったのだろう。身体の制御も効かず、意思も言葉に出来ないまま、いつか本当の怪物へと変わってしまうのだろうか。知希が求める答えは、どこを探しても見つからない。


 しかし、ひとつだけ気付いていることがある。それは、心の奥底から湧き上がってくる何者かの気配。暗く、深い、形容し難い感情に塗れた、漆黒の思念。それが知希のコントロールを奪おうとしている。強力な意志の前に、意識を保っているのもやっとのことであった。悪意を持った力なのか、そうではないのかは分からないが、それは確実に知希自身を取り込もうとしている。


 猛烈な睡魔のように、目を閉じてしまえばいつでも眠りに落ちてしまいそうな感覚。眼に力を入れても、瞼が鉄のシャッターのように重たい。


 抗う力に限界を感じた時。


 髭の男と知希の脚が、互いの間合いに入った。そして地面を蹴り上げ、相手の懐に飛び込むところで、知希の意識は真っ黒な思考の海へと墜落してしまった。

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