8.妹の話題はセンシティブ

「ただいま」


 自宅の玄関を開けて、知希は俯き加減に言った。


 既に夜の八時を回っている。部屋の中に充満している夜食の匂いは少し冷めていた。


 外の世界に身を晒すことを好まない知希にとって、この日はちょっとした冒険でもあった。少しばかりスリルの効き過ぎた冒険だ。


 顔をあげると、丁度妹の綾(あや)が帰宅したところだった。知希の帰りを目で察知しながらも、乱雑に靴を脱ぎ捨ててそそくさと自室に入っていく。


 最近ではろくな挨拶すら交わさなくなったし、妹は何かと自室に籠もりきりだ。十八の女性ともなれば、色々と思うところがあるのだろうし、理由もなく家族を疎ましく感じる年頃でもあるのだろう。そんな彼女の心情を、知希は理解しているつもりだった。


 やれやれ、と思いながらも乱れた玄関の靴を整頓していく。


 片付け終えて、自分が脱いだ靴も並べていると、背後でドアの開く音がした。


「んっ」


 開いた扉の隙間から綾が顔だけ出して、顎で中に入れと合図した。


「何、俺?」


 綾が部屋に招き入れるなんて、こんなに珍しいことはない。あまりに急なことに、知希は何かの間違いだと思った。


「お兄ちゃん以外に誰がいるの」


 ごもっとも。


 何事かと訝しみながらも、言われるがままに綾の部屋へと足を踏み入れた。


「そこ、座って」


 綾がベッドに腰かけるように指示する。


 過去を遡ってみても、妹の部屋に入るのは実はこれが初めてだったかもしれない。何となく禁足地に足を踏み入れたようで、おこがましい気分にもなる。別に興味は無いし、向こうも普段は入って欲しくないのだろうが。


 部屋の中はお世辞にも手が行き届いているとは言い難い状況だが、それでも朝から学校へ行き、夕方はバイトをして帰ってきている忙しさを考えると、良く整理されているほうだと思う。洋服|箪笥(だんす)の上にはお気に入りのアイドルグループの品々が並べられており、床にはゲーセンで取ったらしい、ゆるキャラのクッションがいくつも置いてある。白とピンクなどの明るい色の割合が多い、可愛らしい部屋だ。


「で、何だよ。何かあったのか?」


 綾が知希に声をかけるのは、何年振りのことだろうか。余程重要なことかと、あれこれ勝手な妄想を膨らませる知希の前に、綺麗に包装されたひとつの箱が差し出された。


「んっ」


 相変わらず、言葉を失くして顎で喋る妹。


 半ば強引に手渡してきた箱には可愛いリボンが付いていた。For youと書かれている。どうやらプレゼントらしい。


「俺に?」知希の視線はあまりの驚きに、プレゼントと綾の顔との間を何往復もした。「良いのか?」


「誕生日でしょ、おめでと」


 ぶっきらぼうに言った綾だが、頬は少し紅潮して見えた。


「あ、ありがとう。だけどお前、何でまた」


 不思議な気持ちだった。思春期を迎えた綾は、次第に家族を避けるようになっていた。もちろん嫌っているわけではないことは皆分かっている。そういう時期は誰にでも必ず来るのだ。それはもちろん知希も経験済みだった。だからこうして妹と向かい合い、更にはプレゼントまで貰うことになるとは、夢にも思っていなかったのだ。


「だって、お兄ちゃんは毎年私にプレゼントくれてたでしょ? バイトのお給料が出たら、返そうってずっと思ってた」


 確かに知希は働き始めてからというもの、綾には欠かさずプレゼントを渡していた。尤(もっと)も、最近では女の子の趣味などちっとも理解できなかったものだから、現金やプリペイドカードなど、無難だと思ってあまり花がないようなものを渡すようになっていったのだが。


「良いんだよ、気にしなくて。金の使い道が無かっただけなんだからさ」


「そういうこと言わないの。ありがたく受け取ってれば良いんだから」


「そうか、何か悪いな。綾のお金だから、お前の好きなように使えば良かったのに」


「だから買ったんじゃん、プレゼント」


 綾は頬を膨らませると、次に「開けてみてよ」と促した。


 言われた通り包装を丁寧に開き、姿を現した洒落た感じの黒い箱を開けると、中には腕時計が入っていた。


「お前、これ高いやつじゃ?」


 それは、流行りのスマートウォッチだった。画面はつやつやとした新品の煌きに覆われていて、横のボタンを押すと色鮮やかな風景が飛び出し、その上に時刻が表示される。


「違うよ、やっすいパチモン。でもスマホと連動はできるし、普段お洒落に興味ないお兄ちゃんには、時間が分かるだけでも十分でしょ」


「そ、そうだな。いや、嬉しいよ。ありがとな」


 内心、本当に嬉しかった。嬉しくないわけが無い。早速腕に巻いて、「どうだ」と顔の前に構えておどけて見せる。


「うん、良いんじゃない」


 ずっと横を向いて視線を逸らしていた綾はこちらに向き直り、にこりと微笑んだ。


 その時、知希は見てしまった。


 綾の隠れていたもう片方の頬に、まだ新しい痣(あざ)があったこと。長い黒髪に隠れてはいたが、それでもはっきりと見えるほどに、それは大きい。


 見た瞬間に、自分の血の気がさっと引いていくのを感じた。妹に何が起きたのか。


「おい、綾。その頬っぺた、どうした」


 指摘された綾は、一瞬「しまった」というような顔をして、痣を髪の後ろにさっと隠した。


 部屋の空気が、一瞬で澱んだ気がした。


「さっき階段で転んだ」


 見え透いた嘘をついてくる。


 知希はすぐに、それが非常にセンシティブな問題であることを察した。妹の身に何か良くないことが起こったのだろう。だからこそ、どうにか力になってやりたいとも思ったのだが、うまく言葉にすることが出来なかった。


「あとの設定は、自分でなんとか出来るでしょ」


 先程の笑みは消え、綾の顔にはいままでと変わらない無関心が張り付いてしまっていた。これ以上追求されるまいと、兄に向かって「しっしっ」と手をひらひらさせて追い出そうとする。


 安易には踏み込めない。もどかしくて堪らなかったが、知希は出しゃばりたい自分をぐっと押さえつけた。


「分かったよ。でも何かあったら、いつでも言えよ。じゃ、これ、本当ありがとうな」


 そして貰ったスマートウォッチを高々と挙げ、知希は作った笑顔で今日三度目の礼を言うと、自らの不甲斐なさに嫌悪しながらも、ドアノブに手をかけた。


「ねぇ、お兄ちゃん」


 背中に、震える綾の声が突き刺さる。


「もしもお父さんが居てくれたら……、ビシッと言ってくれてたのかな」


 振り返ると、綾は自分の膝を抱きしめ、顔を埋めていた。す


 父のことが綾の口から飛び出してきて、知希はどきりとした。


 綾も、知希と同じように父親を求めているのだろうか。そして”言う”とは相手に対してなのか、それとも自分達に対してなのか。はたまた、そのどちらともか。沈黙したままの彼女を見ると、その意図までは深く掘り下げられそうもなかった。


「そうだな……。俺たち、また違った生活を送ってたのかもな」


 無責任な言い方だとは思いながらも、そうとしか言えなかった。


 それ以降、綾からの返事も無く、知希は身を震わせながらも部屋を後にした。


 そして扉の前でしばらく立ち尽くしていると、部屋の中から静かにすすり泣く声が漏れてきて、とてつもない無力感に襲われた。


 それと同時に体の中から湧き起こってきた父に対する新しい感情は、いままでに感じることの無かった”怒り”であった。

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