4.理想はいつも裏切られる

 現実とは猫のように気まぐれなもので、いつも期待通りの答えが返ってくるとは限らない。そんな妙に達観した考えから、自らの今後についてある種の諦めを感じている知希は、物事が良くない方向へ傾いてしまったとしても、それらを率直に受け止める覚悟ができていた。……つもりだった。


 しかし現実として目の前に男の姿が立ちはだかった時、知希の堅い心の壁は一瞬で打ち砕かれ、疑いようのないほどの深刻なダメージを負ってしまうこととなった。


 およそ”父親の理想像”からは正反対にかけ離れたその姿に、口の端は無意識に吊り上がり、二の句を継ぐことなど出来ようもない。


 ――お父さんですか?


 その一言が怖くて聞けなかった。喉元にまで這いあがってきていたそんな言葉は、固く閉ざされた唇の壁に阻まれて飛び出すことが出来ずにいる。


「どちら様?」


 季節外れの汗に塗(まみ)れた男は、少しばかり息を切らした様子で怪訝な顔を見せた。膨れ上がった大きな身体には、階段の上り降りだけでも相当な負荷がかかっているのだろう。


「あ、あの」知希はどうにか勇気を振り絞った。「青谷……信明さん、ですか?」


 口の中で燻っていた言葉は姿形を変えて、ようやく外へと吐き出される。


 男は訝しさに歪めていた顔をさらにしかめてみせると、かけていた眼鏡を指で押し上げ、知希の顔をじっと見つめた。


「んん? 知り合い?」


「え、いや、あの……」


 どう答えるべきなのか。返答に困っている知希の耳に、男の次の言葉は周りの雑多な音が消えるほどに澄んで届いた。


「青谷さんなら、いないよ」


「……え?」


 聞いた瞬間、全身の力が真下にすとんと抜け落ちていくかのような脱力感に襲われる。

 この男は、父ではない?


 よく観察してみれば、男は両手に箒とちりとりという出で立ちで、付近のゴミを集めている途中であるようだった。


「あの人は、ここしばらく帰ってきてないみたいだからね」


 そう言うと、体を揺らしながら通路に落ちている落ち葉や砂埃を掃き始める。


「帰ってきていない?」


「そ。ここ五年くらい姿を見てないよ」


「そう、なんですか」


 たった数分の短い間に湧いて出た好奇心や興奮、落胆に安堵といった様々な感情が知希の中で急激に白け始めていく。自分だけがこの世界で空回りしているような気がして、哀れにさえ感じた。しかし、一瞬の間を置いて生まれてきたのは、新たな疑問。


 父の姿を、五年も見ていない?


「僕、ここの一階に住んでるんだけど、夜は明かりもつかなければ物音ひとつ聞こえてこないね。でも定期的に家賃は振り込まれてるし、どうにかやってるんだろうけど……、なんか不気味なんだよねぇ」


 聞けば、どうやら男はこのアパートのオーナーだったらしい。


 話の内容がうまく掴めない知希だったが、何故だか妙な胸騒ぎを覚えた。不安にも似た感情が身体のどこかでぽつぽつと産まれているような不思議な感覚。


 彼の言葉を信じるならば、”父が姿を消した”という解釈もできると思ったからだろうか。


「転勤とか、なのではないでしょうか?」


 だから可能性の話で、それらを拭い去ろうと考えた。


「ないない」男は顔の前で手をひらひらと振る。「あの人は会社勤めの人じゃないし。それに、転勤だったらここ残しとくのも勿体ないっしょ」


「ああ……」


「ね、奇妙なんだ」男は何故か、噂話でもするかのように少し自慢気に話してみせた。「お宅は青谷さんの知り合いか何か?」


 ふと男は掃除の手を休め、首にかけたタオルで額の汗を拭うと、再び知希の顔を凝視した。


 どう答えるべきか、本当は深く考えるべきだったのかもしれない。だが、ある一筋の閃きが知希の思考を過ぎると、その手は鞄の中を探り始めていた。


「俺、こういうものです」


 差し出したのは、さきほど市役所で取得してきた”戸籍の附票”だ。知希は、自らを正直に話すことにしたのだ。


「なになに……」男は眼鏡を額に上げて、それをじっくりと見つめると、短い間を置いて叫んだ。「え、息子さん!?」


「そうなんです」


 そのリアクションの無駄な派手さには驚いたが、知希はなんとか勢いに負けじとそう答えた。


「あの人に息子さんがいるなんて、聞いたことなかったな」


「両親は昔に離婚してしまったもので」


「あ、そうなの。ごめんごめん」


 男は形ばかり頭をぺこぺこと下げると、附票を返す。


「それで、その息子さんが今日はどういったご用件で?」


 その問いかけを待っていたかのように、知希は本題を切り出すことにした。


「悪い好奇心だと罵られるかもしれませんが、私も成人の年を越えて色々と思うところが増えました。そうした中で、実の父がどんな人物なのか興味があり、今日どうにか会えないものかと立ち寄ったところなんです」


「なるほどなるほど」


 そんな感情は理解も半分といったように、男はぎこちない頷きを数回繰り返す。


「でも、仰られるように数年もの間姿を見てないということは、何か事件が起きている可能性も否定はできませんよね」知希は二○五号室の扉を指差して言った。「一度中を確認したほうが良いのではないでしょうか」


「え、部屋の中を?」


 オーナーの反応は、案の定警戒を示したように見えた。ふくよかなボディが少し丸く縮んだ気がする。それからオーナーは掃除用具を手すりにかけて、低く唸ってみせた。


 そもそも、五年も姿を見せない住人が居る事実を放置していたというのも、プライバシーの問題があるとは言え、オーナーとしてどうなのかと知希は思った。事件が絡めば、とても自慢話のように話せるものではなくなってしまう。もちろん、そんなことまでは口にはしないが。


「万が一、何かしらの事件に巻き込まれているのだとすれば、警察に連絡しなければなりませんし、それは出来るだけ早いほうが良い。安否確認のためだけでも、部屋を覗かせてはくれませんか?」


「うーん」まだしばらく唸り続けてから、オーナーは渋々了解した。「分かったよ」


 少しばかり理由が弱すぎるかとも思ってはいたが、彼の返答は意外にもあっさりしたもののように聞こえた。附票を持っていたことと、オーナー自身のコンプライアンスに対する意識がとても曖昧なことが幸いしたのかもしれない。唸るのもただの演技で、内側では既に答えが出ていたようにも見えなくはなかった。


「ま、正式な書類は見せてもらったし? 嘘はついてないよね。それに、実は前から気にはなっていたんだ。もし部屋の中で何かが起きてたら、その、大変だなって……」


「何か、とは?」


「あ、ごめん。いまのは聞かなかったことにして」


 はっとしたかのように、オーナーは口に手を当てた。


 予想はできている。おそらく”何か”とは父が中で孤独死してしまっている場合のことを言っているのではないだろうか。


 この状況で、考えなかったわけではない。そんな最悪な結末に出会(でくわ)すことを思うと、部屋を見たいという感情に至った好奇心を恨みたくもなる。


 だが、離婚後に父がどんな人生を送っていたのかは定かではないが、もし新たな伴侶に恵まれることなく独りでこの十数年間を過ごしていたのだとすれば、このまま誰に見つけてもらうこともなく、部屋に留まり続けるというのも、正直居た堪れない。


 そんな想いを知ってか知らずか、オーナーは一階に降りて自室に帰ると、急いで二階へと戻ってきた。狭い二階の通路、鼻息を荒くし、ツンとする体臭を漂わせながら知希の横を過ぎる。そして二○五号室の扉を数回ノックして「青谷さん」と声をかけてからしばらく待つ。返事がないことを確認すると、こちらを振り向いてひとつ頷いてからドアノブに鍵を差し込んだ。


 鍵が回る音が響くと、知希は固唾を飲み込んだ。それから、オーナーと場所を変わる。


「入ります」


 知希はドアノブに手をかけて、躊躇した。


 もしかしたらこれは触れてはいけない扉で、そのパンドラの箱のような部屋をいままさに開けようとしているのではないか。一度開けてしまえば、取り返しのつかないことになるのかもしれない。


 それとも、もしそこに父がいて、我が子を我が子とは思わないような人物だったら、どうしたらいい。母に迷惑をかけることになるだろうか。


 様々な妄想や憶測はどれもネガティブ極まるものばかりだったが、もはや手をかけたドアノブは凍りついていて離れない。この日、知希が父を訪ねることになったのも、自らに課せられた使命で運命のひとつだったのかもしれない。なるべくしてこうなった、そう考えることもできる。


 ゆっくりと回し、扉が開くことを確認した。


 錆び付いた蝶番が悲鳴をあげながら、凝り固まったその体を広げていく。


 部屋の中から漏れ出てきた重苦しい空気は、まるで何百年にも及ぶ封印から解き放たれたかのように、いきいきとして知希の身体をすり抜け、冬の寒空へと飛び立っていった。

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