2.二十三回目の誕生日

 早起きな雀(すずめ)の鳴き声とともに迎えた二十三回目の誕生日は、”いつも通り”の朝だった。


 二月の強烈な寒波に身を震わせる窓は、大粒の汗を流している。その額縁の中に広がる無限の空は、静かで穏やかな水色に染まっていた。


 知希の気持ちとは裏腹に。


 五分ほどもがいてから起床すると、歯を磨き、着替え、母が用意してくれた朝食の前に座る。


 食卓の彩りはモダンに染まっている。網目模様の焦げ目がついたトースト、お供のコーヒー。それに母特製の卵焼き。どれも猫舌用に熱さが調整されている。トーストには何も乗っていないし、塗っていない。コーヒーだってブラック。卵焼きも嫌いなわけではないが、何年も食べ続けるうちに、はじめの頃の感動はもう忘れてしまっていた。


 質素な朝だが、その考えが贅沢であることもまた知希は知っている。気分が晴れないのは、一日の始まりである朝がとにかく嫌いだからだ。


 朝食を終えればバイトに出かけ、終われば帰って寝る。今後変わることのない、人間としての永遠のルーティーン。


 そんな退屈な毎日の繰り返しを、これから何十年と続けていかなくてはいけないのだと思うと、辟易する。


 これまで刻んできた記録は、落ち込む日もあれば、生を楽しんだ時期もあり、決して悪いものではなかった。そういう意味では、平凡な人生というのも良いとは言えよう。


ただ、その結果があまりにも報われないと感じた。


 仕事に出かければ、苦痛を伴う業務の連続に、制約にがんじがらめの会社。嫌いな上司にもおべっかを使い、微塵も感じていない尊敬さえ抱かなければならない。


 これではまるで、遊びに夢中になっていた子供時代の代償を、大人になって支払っているかのようでもある。


「知希、おはよう」


 暢気(のんき)な声で鼻唄を歌う母が、テーブルの向こう側に座った。


 前にかけている花柄のエプロンは、知希が産まれた時から愛用しているもので、長年の思い出が染みついた年代物だ。


「おはよう、母さん」何をするでもなく、ただにやにやと口の端をあげる母を見て、知希はうんざりする。「何?」


「何って……。誕生日おめでとう、でしょ?」


 口を尖らせて母が言った。彼女の得意技、百面相のキレの良さは昔と変わらず衰えていない。彼女に言わせれば、顔の表情筋を駆使することで実年齢よりも若々しい美貌を維持するのだとか。


「ありがと」


「晩御飯、何が良い? プレゼントは用意できないけど、好きな物作って待ってるから」


「いただきます」手を合わせながら言った。「なんでもいいよ」


 お決まりの返答だった。正直、食事のメニューを考えることほど面倒なものはない。はっきり言って”なんでも良い”のだから。


「なんでもいい、が一番困るんだって」


 尖らせた口を今度はへの字に曲げ、困り顔を作って見せる母。


「トルコライス」


 適当に思いついたことをぼそりと言ってみる。別にトルコライスが特別に食べたいわけでも、好きなわけでもないが、ずっと目の前で悩まれるのも鬱陶(うっとう)しい。


「よし、分かった!」


 大したことでもないのに、決意に燃える母はぐっと顔の前で拳を握った。そしてメモ用紙を手繰り寄せると、本日の買い物リストをすらすらと書き始める。


「それにしても……」一通り書き終えた母が手を止めて、こちらをじっと見つめる。「もう二十三か、早いわね。大きくなったもんだ。産まれた時はこんくらいだったのに」


 大袈裟に親指と人差し指で「少し」を作って見せた。


「……小さすぎだろ」


「お母さんのお腹の中にいた時は、こんなもんだよ。超可愛かったんだから」


「はいはい」


 この一連の流れが、もはや母の口癖だとも言える。近頃は短くなったほうだが、昔は知希が産まれてからこれまでの時間のことを延々と語り出し、こちらが話の腰を折るまで止まらないほど饒舌(じょうぜつ)になっていた。


 耳にたこができるほど聞かされてきたことだったから、いまでは適当にあしらう術を身に着けるまでに至る。


「ほんと、良くここまで成長してくれた」


 急にしみじみとなった母は、手を伸ばして知希の頭をわしわしとなで始めた。


「何だよ。気持ち悪いな」


 むず痒い気持ちが湧き、その手を払いのける。


「照れるな照れるな。良いじゃないか、たまには」


「良くない」急いでトーストをかっこみ、コーヒーで流し込むと、上着を着て靴を履く。「もう行くよ。いってきます」


 背後であがった「いってらっしゃい」という母の声は、閉まる玄関のドアによって遮断された。




 逃げるようにして玄関を飛び出した知希は、築四十年経つ古アパートの階段を揺らしながら降りた。


 五キロ離れたバイト先へは、格安で手に入れた九十九年式のムーヴで向かう。色は黒。走行距離は購入した時から既に十万キロを超えていた。


 知希がこの車を選んだ理由として、十万となんとか手が届く価格だったことと、昔ながらの角ばったデザインが好きなことがあげられる。最近の自動車のデザインは”未来の車”を意識しているのか、妙に角が丸いものが多く、あまり好きになれなかった。欲を言えば、知希の好みはフォードのマスタングコブラや、クライスラーのインペリアルなど米国産の、しかも旧式の車種に傾いているのだ。


 乗り込んだムーヴの車内は飾りっ気ひとつない標準の内装で、ラジオの受信もAMだけ。本革のシートも、夜景に煌くカーオーディオもない。それもまた安さの秘訣だった。


 どうせこの先、家族以外の誰かが乗り込むことも無い。だから、これで十分なのだ。


 運転席に座り、キーを差し込むと、急な息苦しさを感じ始める。


「またか……」


 動悸(どうき)だ。


 胸が締め付けられ、世界がぐらぐらと溶けていく。小動物のように短く、速く脈打つ心臓。血液が全身を凄まじい速度で駆け巡る。


 知希は目をぎゅっと瞑り、胸を押さえて、症状が治まるのを辛抱強く待った。


 暗くなった視界に混入してくるのは、過去の遺産。


理不尽な叱責に罵倒。過大な押し付けに、陰湿な嫌がらせ。それらによって生じる無力感に劣等感、そして疎外感。


 荒波に揉まれ、完膚なきまでに叩きのめされた知希にとって、これは一生消えることのない、心の奥底にまで侵食した深い傷だった。社会不適合者として押された烙印は、そう簡単には消えない。


 普段と同じであれば、数分もすれば収まる。もう苦しむ必要はない、終わったことだ。あの悪夢のような劣悪な監獄からはもう逃げ出したのだ。そう自分の身体に言い聞かせた。


 なんとか自分を鼓舞して気持ちを落ち着け、開けた視界に映ったラジオのデジタル時計は、車に乗り込んでから三分ほど先の時刻を表示していた。肩掛けの鞄からハンドタオルを取り出し、季節外れの汗でぐっしょりと濡れた体や顔を丁寧に拭きあげていく。

 二度大きな深呼吸をし、平常心を取り戻したところで、知希は握っていたキーを回し、車の点火装置に電流を流した。

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