第43話 新たな道しるべ

 僕が羅奈に完全降伏した後、父さんと香奈さんが帰ってきた。


 父さんはソファでくつろぐ僕を見て、ほんの少しほっとしたような顔をした。

 羅奈が言うように本当に分かりにくいけど、一ミリぐらい眉が下がったように見える。


「その手はどうしたんだ?」


 父さんは羅奈に手当てしてもらった僕の手を見て尋ねた。

 僕に無関心なはずの父さんが、珍しくすぐに気付いた。


「うん。ちょっとぶつけただけだから、すぐに治るよ」

「そうか」


 それで会話は途切れてしまった。

 いつもと同じ、僕と父さんの会話だ。


 でも今日は、父さんなりに心配してくれているのだと気付いた。

 向かいのソファに座って新聞を読んでいるふりをしているが、時々僕の様子を垣間見て痛そうにしていないかうかがっているようだ。


 無関心なのは父さんではなく僕の方だった。

 ほんの少し、父さんの心を感じ取ろうとすれば、簡単に分かったはずなのに。


 僕が父さんの心に寄り添おうとしていなかったから、何も感じることができなかったのだ。


 父さんは僕と目が合うと、こほんと咳払いして広げた新聞に隠れてしまった。

 本当に分かりにくい人だった。


「うーん、いい匂い。お腹すいちゃったわ。晩御飯はもうできたの?」


 香奈さんは羅奈に尋ねた。


「今日は昨日ママが買ってきてくれたステーキよ。今から焼くわ」

「うふふ。私から蒼佑くんに誕生日プレゼントよ。最高級のお肉を奮発しちゃったわ」


 香奈さんは僕にウインクした。

 僕の知らないところで、誕生会の準備を進めてくれていたのだ。


「まだ付け合わせのサラダができてないのよ。ママも手伝って」

「えー。私、料理は下手なのよ。羅奈も知ってるでしょ?」


「サラダを盛り付けるぐらいできるでしょ? いい加減少しはできるようにならないと、私が家を出たらどうするつもりなのよ」

「嫌よ~。ずっと家にいてよ、羅奈~。近くの大学に行けばいいじゃない」


「ママを自立させるために出ていくって言ってるのよ。私にいて欲しいなら、もう少し家事ができるようになってちょうだい。そしたら少し考えてあげてもいいわ」

「本当に? じゃあ、ママも頑張るわ」


 香奈さんはキッチンに立って、羅奈に指導されながらサラダを盛り付けている。


 なんだか普通の家族みたいだ。

 この家にこんな団らんの日が来るなんて昨日までの僕に想像できただろうか。


 僕は何も見えていなかった。

 ほんの少し心を開いて周りを見渡せば、すべては手の届く場所にあったのに。

 僕が掴もうとすれば、いつでも掴むことができたのに。


「蒼佑はケーキの飾りつけを手伝って! ほら、この生クリームを搾ってフルーツを飾り付けるだけだから」

「え? 誕生日の僕が飾り付けるの?」


「当たり前でしょ。自分の誕生日ケーキなんだから自分で飾り付けた方が楽しいに決まってるじゃない」


 そういえば、昔同じようなことを母さんにも言われたような気がする。

 あの時は……。


 そうだ。本当は自分でやりたかったくせに、僕は「えー、なんでだよ」と迷惑そうに言った。


 母さんは「手が放せないのよ。お願い、蒼ちゃん」と頼み込んだ。


 僕は「しょうがないなあ」と言いながら、目を輝かせてわくわくとケーキを飾り付けたのだった。


 母さんは僕がやりたがっていたことなどすべてお見通しだったのだ。


 生きている間に全然言えなかった「ありがとう」も「ごめんなさい」も、ちゃんと伝わっていただろうか。


 伝わっていたのだと信じてみることにした。


 だから母さんが残してくれたこの場所を僕は愛おしんで生きていこうと思う。


 それが母さんの一番望んでいたことだと今は信じられるから。



「おっ? また前髪を切ったのか? 蒼佑」


 朝、登校すると、哲太はすぐに気付いて声をかけてきた。


 もう呆れて僕を見限っただろうと思っていたのに、何もなかったかのようにいつもの哲太だった。そうやって五年間ずっとそばにいてくれた。


「うん。やっぱり前が見えた方がいいなと思ってさ」


 というか、羅奈に「うっとうしいわ」と言われて切られた。

 完全降伏した僕は、もはや羅奈の下僕げぼくと化していた。


「なんか今日は元気そうだな。ったく、心配させやがって。この間は今にも死にそうな顔してたし、昨日は無断欠席するし、スマホに電話しても出ないし。どうしたのかと思ったぞ」


「ごめん。ちょっと体調が悪くなってマナーモードにして寝てたから」


 誕生会を終えてから、簡単なメールだけ返しておいた。


「なんだよ。新しいお母さんと喧嘩でもしたのか?」


 そういえば、まだ羅奈のことも話していなかった。


「お母さんというか……実は……」


 言いかけて、少し思案した。


「いや、……まあ、そんなところかな。もう仲直りしたから大丈夫だよ」


 哲太にはもう少し羅奈のことは黙っておこう。


 僕にとって羅奈がどんな存在なのか。

 今の僕にはうまく説明できない気がする。


 哲太には羅奈のことをきちんと紹介したいから。


 もう少しだけ秘密にしておこう。


「本当に世話のかかるやつだな。まあ元気になったならいいよ」


「あのさあ、哲太」

「なんだよ」


「心配してくれてありがとうな」

「‼」


 哲太は驚いたように僕を見つめた。


 ありがとうという言葉を出し惜しみしないでおこうと思う。

 永遠に伝えられない後悔を二度としないように。


 哲太は面白いように動揺して少し赤くなった。


「な、な、なに言い出すんだよ。蒼佑らしくもない。俺はお前の心配なんかしてねえよ。ダブルデートが無しになったらどうしようって心配してただけだよ! 勘違いするな」


 哲太はどうやら素直に出られると動揺して憎まれ口をたたくタイプらしい。

 楽しい発見をした。


 杉内さんとは、きっとダブルデートのあと別れることになるだろう。

 別れて欲しいと言われたら素直に応じるつもりだ。


 僕には彼女を作るなんて早過ぎた。


 マザコンをこじらせきったと思ったら、今度はシスコンを拗らせている。

 こんな面倒な男、僕が女の子なら絶対お断りだ。


 普通の恋愛ができるまで、まだもう少し時間がかかりそうだ。


 もう少しだけ。

 もう少しだけ、重度のマザコンでシスコンの僕を許して欲しい。


 その先にきっと僕の幸せがあるのだと思うから。


 迷惑だろうけど、もう少しの間だけ妹の下僕と化した僕を許して欲しいんだ。


 羅奈。



                           END

    

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