第30話 すれ違う主従

 レンとマルコとの対話の後、その足でテスレウは城塞の最奥へと向かっている。ジャズイール第六皇子の寝所となっている区域だ。


 人払いは済ませた。

 今夜、ジャズイール第六皇子の私室付近に衛兵はもういない。

 責任は私がとる、と要塞ターシュカの次席であるテスレウに明言されてしまえば致し方のないことだった。


 迷いのない彼の足取りが突き当たりの扉の前で止まる。


「私です、テスレウです」


 中からの返事は待たず、そのまま歩を進めていく。いつものことだ。

 基本的には夜の寝所としてしか扱われていないとはいえ、ジャズイール第六皇子の私室は非常に広い。入口とはまた別に設けられている三つの扉を抜けて、彼の寝台へたどり着くまでに随分歩かされる。


 最後の扉を静かに開いてみれば、深夜にもかかわらずジャズイールは椅子に腰掛けて地図を広げていた。


「おまえの方から私の部屋を訪ねてくるのは本当に久しぶりだな」


 この城塞が建てられる前になるか、と感慨深げに口にする。

 彼が見ていた地図は広域のものであった。ニルバド皇国の領土のみならず、旧ヴァレリア共和国をはじめとする都市国家群のある大陸まで含まれていた。


「殿下にお願いがあって参りました」


 地図を一瞥したテスレウはさっそく切りだした。二人きりのときには、面倒な口上や儀礼的な作法は不要である。


「聞こう」


 色気のある流し目でジャズイールが応じた。

 テスレウは立ったまま、頭だけを下げる。


「これ以上の戦線拡大、何とぞ考え直していただけないでしょうか。海の向こうへの出兵となると、無益どころか命取りとなります。それもニルバド皇国にとってではなく、殿下にとって」


「何だ、そんな話か」


 露骨につまらなさそうな顔をしてみせるジャズイールが、灰色の髪を手櫛で後ろへと撫でつけた。


「おまえも知っているだろう、テスレウ。私はな、守りには興味がないんだ。守成など退屈なだけではないか」


「殿下のおっしゃりたいことはわかりますが、しかし──」


「攻めて攻めて攻めて、視界に入るすべての国を打ち滅ぼしてこそ、ニルバド皇国の皇子として生まれ落ちた甲斐もあるというもの」


 天を指差してジャズイールはにやりと笑う。


「それともあれか、例のヴァレリアから来た〈遠見〉の娘に情でも湧いたか? 言っておくが、あれはなかなかに性質たちの悪い娘だぞ」


 ジャズイールがまともに直言を受け止めないであろうことは、長い付き合いであるテスレウにもわかっていた。

 けれども主君を危地に追いこむ戦略を、予測しているのにむざむざととらせてしまうわけにはいかないのだ。

 そんな結果を招いてしまえば、テスレウには死よりもひどい後悔だけが残る。


「そのレン一行がこの要塞ターシュカへとやってくる際、襲撃を受けたことは報告させていただきました。生き残った襲撃犯によれば、大金とともに〈遠見〉の殺害を依頼してきたのは素性の不明な商人だったそうです。おそらく──」


「皆まで言うな。兄上か姉上か、そのうちの誰かの差し金だったのだろう」


 凡人どもの考えつきそうな策だ、とジャズイールは一笑に付した。

 次の皇帝の座を狙いながらも、現在の地位保全のため失策を犯さぬよう汲々としている五人の兄と姉。

 ジャズイールより上となる第一から第五までの皇位継承権を保有しているが、弟の活躍を心底疎ましく思っているのは公然の事実だった。

 テスレウでさえ、複数回の襲撃と謀反の誘いのどちらも受けている。ジャズイールに打撃を与えるためならば手段など選ばない連中なのだ。


「殿下、お願いでございます。戦線を海の向こうまで拡大したならば、必ずや御きょうだいのどなたかによって留守を突かれましょう。考えたくはありませんが、ヴァレリアと組んででも殿下を陥れようとする可能性だって捨てきれません」


「ヴァレリアを簒奪した元将軍、名をフランチェスコ・ディ・ルーカといったか。そういった搦め手で仕掛けてきそうな男ではあるな」


 テスレウが必死に懇願しているにもかかわらず、ジャズイールはまるで他人事のように論評するのみだ。

 そして彼は「はあ」とこれ見よがしなため息を吐いた。


「いい加減にしろ、テスレウ。つまらぬ心配など無用だ。これまで通り、おまえは私を信じてついてくればよい。それだけのことよ」


 テスレウにとっては懐かしささえ覚えるジャズイールの物言いだった。

 二人が幼かった時分からまるで変わっていない。成長していないのではなく、彼は己の才覚によって尊大で強気な態度を貫き通してきたのだ。

 それはどれほど困難な道のりだっただろう。


 けれども今、テスレウを苦悩させているのもジャズイールのその性分ゆえだ。分厚い雲が彼らの行く先に垂れ込めているように感じられて仕方なかった。


「どうあっても聞き入れてはくださいませんか」


「くどいぞ」


 話は終わったとばかりにジャズイールが腕を組んでしまう。

 結局、二人の間に刻まれていた小さな溝は、すでに埋めがたいほどの断絶となって横たわっていたのだ。

 事ここに至って、テスレウは最後の手段に訴えるより他なかった。


「なら、もはや私が殿下のために力になれることなど一つとしてございません。ターシュカを辞去して暇を頂戴いたします」


 さっとジャズイールの表情が変わる。


「つまり、裏切りか」


「いいえ。これからは人里を離れ、山中の庵で静かに余生を過ごすのみ。殿下の偉業を陰ながら見守らせていただくつもりです」


「充分な裏切りではないか。私からの離反などと、そんな身勝手を認めてもらえるとでも思ったか」


 絶対に許さぬぞ、とジャズイールは傍らに立てかけてあった剣をつかむ。

 にもかかわらずテスレウは主君に対して背を向けた。そしてそのままゆっくり扉へと歩いていく。

 振り返ろうとしない彼の後ろ姿へジャズイールが絶叫した。


「おまえは私の下にいるべきなのだ! 他の誰にも渡すものか! 他所へ去るというのなら、その命ごと貰い受けてやる!」


 斬りつけてくる剣を受けることも避けることも、テスレウの頭にはなかった。

 衷心よりの直言を受け入れてもらえなかったそのときは、自身の命の終わりをさらなる賭け金代わりとして積み上げるつもりだったからだ。

 ほんのわずかでも、ジャズイールの心が動く可能性を作るために。


 ただ、その決断を感じ取っていた者たちの存在はテスレウの想定外であった。


「早まってはなりませんよ、殿下!」


 乱暴に扉が開け放たれると同時に、ここにいるはずのないレンの鋭い制止が彼らの耳に届いた。

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