第4話 少女アンネッタ

 レンが天涯孤独の身となったのは十一歳のときだ。

 正確にはまだレンという名ではなく、周りからは「痩せっぽちのアンネッタ」と呼ばれていた。

 元々貧しい生活であったが、唯一の肉親であった母を病で失ってからは無情にも住んでいたあばら家を追いだされてしまう。


 どうにか孤児を引き取って育てている慈善院にもぐりこんだおかげで住居の心配だけはなくなったものの、環境としては劣悪で食事もお情け程度の量だ。

 他の子供たちの輪にもなかなか溶け込めず、暇さえできればあてもなく一人で街をうろつくことが多かった。


 賑わう街にあって、アンネッタは醒めた目でいろいろなものを見た。

 良いこと悪いことの判断を下すことなく、喜怒哀楽も様々に暮らす市井の人々の観察をひたすら続けたのだ。


 中でも「これはきっと役に立つに違いない」と判断したのが、手練れの掏摸が見せる技術だった。

 あるときなどは一瞬の見事な早業に「おお」と声を出してしまったせいで、すれ違う寸前の掏摸の男と目が合ってしまう。

 しかし男は「お嬢ちゃん、黙ってなよ」とばかりに片目を瞑るのみであり、そして颯爽と立ち去っていく。


 慈善院の子供たちの中にも、徒党を組んで掏摸を働いている者たちがいるのは知っていた。アンネッタ自身が会話に混ざっていなくとも、戦果を自慢し合う子たちの話し声はよく聞こえてきたからだ。

 ほんの少し、仲間に入れてもらえないかと頼むことも考えた。だが結局、彼女は自分の目で見たものだけを師として実践に移っていく。


 街で標的を定める際、優先すべきルールを設けた。

 それは裕福そうな人物を狙うのではなく、人の好さそうな相手を選ぶ。もし失敗してしまったときのための安全策だ。


 仮に捕らえられてしまっても、涙を流して孤独な生い立ちを語り謝罪すればその手の人間なら同情してくれるはずだ、と小賢しくもアンネッタは認識していた。

 はした金を盗もうとして逆に袋叩きにされてしまうようでは、あまりにも行動と結果の釣り合いがとれていない。

 とはいえそのような光景を彼女は何度も目にしてきた。慈善院にもその憂き目に遭い、足が曲がって二度と伸びなくなった子がいるのだ。


 心臓が破れてしまいそうなほどの緊張とともに、見事アンネッタは一度目の掏摸を成功させた。日を置いて試みた二度目も同様に。


 そして自信を得た彼女が三度目の標的として選んだのは、にこやかな笑みを絶やさず楽しそうに歩いている若い女であった。

 連れ立っているのは恋人だろうか、随分と軽薄そうな遊び人風の男だ。へらへらと緩み切った表情をしており、警戒心が強そうにはとうてい見えない。


 往来でたくさんの人が行き交う中、こちらへやってきている二人の姿を前方に途切れ途切れで捉えながらアンネッタは呟く。


「何て素敵なバカ面。おあつらえ向きのやつらが来たね」


 ほくそ笑みたいのを我慢しながら、人の流れの間を縫うようにして恋人同士と思しき二人へと近づいていく。

 あくまで自然な足の運びを装いながらアンネッタは、若い女へ手が届く位置までやってきた。

 後はさりげなくぶつかり、その瞬間に何かしら盗めればそれでいい。どんな物であってもいくらかの金にはなるだろう。


 だが事態は彼女の予想した通りには進まなかった。

 ぶつかって「いざ」とばかりに若い女の懐へ伸ばしたアンネッタの手首は、いきなり強い力でつかまれてしまったのだ。


「痛い痛い痛い!」


 骨が軋みそうなほどの力だったため、ついうめき声を漏らしてしまう。


「やれやれ、いけない子だ。この手が悪いのかな」


 アンネッタは恐る恐る視線を上げ、声の主を仰ぎ見た。

 先ほどはただのちゃらんぽらんな遊び人としか思えなかった男が、一転して鋭い眼光を放ちながらアンネッタを見下ろしている。

 身にまとう雰囲気がすっかり豹変していた。


 まずい。謝らなければ。すぐに、今すぐに。

 アンネッタの思考はそのことのみに支配された。相当に性質たちの悪い男に捕まってしまったのは間違いなく、この場は速やかに謝罪して少しでも助かる確率を上げるべきであった。


 しかし彼女の体から溢れ出てきたのは恐怖を伴った汗ばかりで、声はかすれるのみで一向に出てきてくれない。

 理屈と実践はやはり別物である。


 いかにこれまでの自分が的外れな考えでいたのかを思い知らされ、絶望しかけていたそのときだった。

 意外にも隣の若い女の口から助け舟が出されたのだ。


「怖がっているじゃありませんか。どうか手を離してあげてください、フランチェスコ様」


「ちょっと!」


 声を潜めながら、フランチェスコと呼ばれた男は隣の女に対して気色ばむ。


「ここではその名前はなしだとお伝えしていたはずですよ。お忍びだということを何とぞご理解いただきたい。約束が守れないのであればすぐにでも帰りますが」


「あら、そうでしたっけね。ふふ」


 まるで意に介していない様子で、相変わらず女は笑みを絶やさない。


「それはともかく。水も漏らさぬ完璧な警護ぶりには感謝していますが、怯えている子にこれ以上怖い思いをさせる必要もないでしょう」


「まったく、あなたはいつも甘い」


 大きなため息をつきつつ、フランチェスコが手の力を緩めた。

 ようやく恐怖から解放されたアンネッタだったが、本当ならここで一目散に逃げるべきであったのだろう。けれども彼女はそうしなかった。


 そのかわりに、自分を助けてくれた女の顔をまじまじと見つめる。

 アンネッタの視線に気づいた女も微笑み返してくる。

 そして再び、アンネッタの手が他者に触れられた。今度はとても優しく。

 女にそっと握られた手のひらにはじんわりと温もりが広がっていく。


「細い手。ちゃんと食事はとっていますか?」


「……あんまり」


「失礼だけど、一緒に暮らしている家族はいるの?」


「……もういない」


 自分が答えている内容が恥ずかしいことであるように思えてしまい、アンネッタは俯き加減になってそのまま口を噤む。

 そんなアンネッタに合わせたか、手は離すことなくゆっくりとその場に屈んで女が言った。


「ね。もしよかったら、わたしと一緒に暮らしてみない?」


 唐突すぎる提案だった。


「どうかな」


 そう言って彼女はアンネッタの顔を覗きこんでくる。

 あまりにも現実味のない問いかけだったものの、心は大きく揺れた。どんな暮らしが待っているのであれ、今より悪くなるとは考えられない。

 あっという間にアンネッタの気持ちは受諾の方向へと傾いていく。

 だがこの場にいたもう一人の苦り切った声によって返事が阻まれてしまった。


「さすがに看過できませんね」


 すでに軽薄そうな気配の消えたフランチェスコは語気を強める。


「いささかお遊びの度が過ぎるようですな。孤児となったこの少女の境遇に同情はしますし、当然ながら我々にも責任の一端はある。ですが、それでもあなたにはご自分の立場を今一度認識していただかなくてはなりません」


「つまり?」


 わざとらしいほどにあどけない表情を作り、女が先を促す。


「やれやれ、皆まで言わせるおつもりですか。哀れに思ってこの少女を連れて行ったところで、結局は上の連中に引き剥がされてしまうだけです。命の保証だって致しかねる。はたしてそれはこの少女のためになると言えましょうか。

 いえ、決しておっしゃりますまいな」


 詰め寄らんばかりの勢いで諫めているフランチェスコとは対照的に、意に介さない様子の女はまたしてもにっこりと笑みを浮かべた。


「なら大丈夫ですよ。だってこの子、わたしたちの一族の生き残りですから」


「──は?」


 ここまで冷徹な態度を崩さなかったフランチェスコだったが、仮面が落ちてしまったかのように呆気にとられている。

 アンネッタは初めて彼に共感した。どういう成り行きになっているのか、もはや彼女には何一つ理解ができない。

 一族だの生き残りだの、いったい何を喋っているのだろうか。


 そんな二人にはお構いなしで女は話を進めていく。


「そうね……名前はレンだったかな。まだこの子が幼い頃の話だもの、思い出すのに少し時間がかかってしまっても不思議はないでしょう?」


 アンネッタにそのような記憶は存在しない。

 レンという名前にはかすかに惹かれる響きがあったが、彼女がそのような名で呼ばれたことは生まれてこの方一度もなかった。

 まったく架空の名だ。


 不安げに見守っているアンネッタに気づいたか、女はほんの少しだけ握っている左手に力を込めた。大丈夫だよ、と言わんばかりに。

 そしてフランチェスコの胸を右手の人差し指でとん、と突いた。


「後はあなたがその事実を了承してさえくれれば、何の問題もありませんよ。ね、お優しいフランチェスコ様」


「サラ様、あなたって人は……」


 悪戯っぽい笑みを浮かべた女とは対照的に、嘆息したフランチェスコが天を仰いで額に手を当てた。

 先ほどは自身の名を呼ばれることを嫌がっていたはずだが、今度は己がぽろっと相手の女の名を口にしてしまっていることに気づいていない様子だ。

 よほど衝撃を受けたのであろうか。


「私にも偽りに加担せよ、と。そう無理難題を仰るわけですね」


 絞りだしたような声ではあったが、なぜかそこにサラという女への非難めいたものはまったく感じられない。

 むしろ恋人のいつものわがままを聞き入れているだけ、といった様子である。あくまでアンネッタが抱いた勝手な印象だ。


 いずれにせよ、このやりとりこそが痩せっぽちのアンネッタでしかなかった少女の人生が一変した瞬間だった。

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