第18話


 凪


 ※



 ふと目が覚めた瞬間に、自分の意識が途切れていたことに初めて気が付く。


 ぼやけた頭。


 定まらない視界。


 落ち着かない息、どこか遠くで小さく聞こえる微かな音。


 だめだ、と一瞬慌てたけれど、そういえばもう今日は仕事を休むことにしたんだったと思い直した。


 まだどこか鈍さの残る頭で、ゆっくりとベッドから這い上がる。少しだけ、喉が渇いてるし、水か何かが欲しくなった。


 そうして起き上がっても、じくじくとしたお腹の重さは相変わらずある。でも休むと決めたからか、少し寝ていたからか、身体はちょっと楽になっている。この調子なら、明日は仕事に出られるかな。


 部屋を出る前に、スマホを触って、時間だけ確認してみるけれど、多分、一時間も眠っていない。本当に少し意識が途切れていただけみたい。



 何の気なしに、寝室のドアを開けて、リビングに向かう。


 ただその途中で、バスルームから音が響いてることにふと気が付いた。


 流れている水の音……シャワーかな。あこが私の服を洗ってくれているのかも。


 いや、しかし今日は本当に助けられっぱなしだね。なんかお礼を言わなきゃ。あこがいなけりゃ、自分の体調のことで休む決心なんてつかなかった。


 バスルームのドアノブをそっと捻る、その瞬間。


 ふと、そういえばねこくん、どこにいったんだろって想いがぽっかり浮かんだ。


 いつもは彼の歩くとことこという音が聞こえるけれど、随分静かだ。寝室にはいなかったし、リビングかどこかで寝てるかな、それかこたつの中かもしれない。


 なんて、そんなことを考えていたからか。



 シャワー室のドアを開けるその時まで。



 水音の中にかすかに混じる、吐息の音に。



 少し熱のこもった、その声に。



 私の名前を微かに呼ぶ、その音に。



 私は気づいてあげられなかった。






 ※



 愛心




 ※




 何気なく道を歩いて居て、誰かとすれ違うそんな時。


 この人も裏の顔があるんだよねと、ふと思う時がある。


 だって、道を歩いて居るたくさんの人たちも、当たり前だけど、服を脱げば裸になってそれぞれのモノがついてる。


 そうして、すれ違うたくさんの人たちが、誰も見ていないところでは、自分で自分を慰めて、人によっては誰かとその部分を交わらせてる。


 そうして交わった果てに、誰もが命を受けて生まれ落ちるから。


 それはきっと、当たり前なこと。


 当たり前だけど、でも同時に、とても悍ましいこと。


 みんな、人間らしい綺麗な整った面ばかり、誰かに見せて生きているけれど、その皮の下には誰だって悍ましいほどの欲が眠ってる。道行く人、誰も彼もが。


 それを想うたび、私は吐き気を催すほどに気持ちが悪くて。



 そうして何より、それを自分も抱えていることが、許せなかった。



 私の首を掴んだ、誰かと同じものが。



 私の服をはぎ取ろうとした、あいつとまったく同じものが。



 私の肌に無理矢理傷をつけようとした、どいつもこいつもとまったく同じでしかないものが。



 私の中にもあるんだっていう。



 そんな事実に泣きたくて、辛くて、苦しいほどに耐えられなかった。



 そして、その欲に背を押されて、それを抑えきれてない自分自身が。



 何より、悍ましくて消えてしまいたかった。



 あれだけのことをされたのに。



 あれだけの傷を負わされたのに。



 あれだけの泣いた夜を過ごしたのに。



 なのに、なんでまだこんなものが私の中に残っているんだろう。



 気持ち悪い。死にたい。消えたい。いなくなりたい。



 結局、私が一番、卑しくて迷惑な、ろくでもない生き物だから。



 毒を振りまいて、人の人生を滅茶苦茶にしてしまう。



 そういう風に、生まれついてしまったから。



 だからいけなかったのかな。



 小さく、小さく声が漏れる。



 できるだけ抑えて、眠るあなたに聞こえないように。



 でも漏れ出る声そのものは止められない。



 なぎさんの名前を呼ぶ。



 あなたに抱きしめられることを考える。



 あなたに口づけされることを考える。



 あなたが私の全部を―――『全部』を受容れてくれて。



 それで、私のことを好きになって、愛して、その手で抱いてくれることを考える。



 最初はきっと、優しく口づけをしてもらって。



 それから、服を一枚ずつ脱がされる。丁寧に、丁寧に。



 優しく、優しく、まるで小さな子どもをあやすみたいに。



 上着から一つずつ、ホタンを外すのも一つずつ。



 下着だけになってから、しばらく抱きしめてもらって。そこからやっと上のホックが外される。



 それから優しく、全部を脱がされて、晒されて。



 きっと、その、奥の奥まで―――。



 あなたの経血がついた下着を握って、唇に当てながらそんなことを想ってる。



 何度も何度も、そこについた経血に口づけをしながら、想いに耽る。



 あなたのその血は、少し酸っぱくて、しょっぱくて、でも頭の奥がどこかくらくらするような、そんな匂いがする。



 それを感じながら、裸になった身体にぬるいシャワーを流していた。そのまま壁に手をついて蹲って、独りでそんな妄想にばかり耽ってた。



 冬場でお風呂場は寒いはずなのに、身体が火照って少しも気にならない。



 裸のままの身体にあたるシャワーを感じながら、空いた手を自分の首にあてがって、時々軽く絞めるように力を籠める。



 そうしていると、時々むせてしまうけど、それでも変わらず絞め続けた。



 そこは私の命の場所、知りもしない人間に、好きでもない人間に決して触らせてはいけない大事な場所。



 でも、なんでか不思議と、誰かに触って欲しいと想ってしまう、そんな場所。



 息が詰まる感じも、食い込む爪の感覚も痛くて苦しいはずなのに、不思議とどこか気持ちいい。



 本当は、こういう自分を慰める行為をするときは、胸や大事なところを触るものらしいのだけど。



 それをしてしまったら、二度と戻れない気がして、したことは一度もない。



 こんなに欲に弱い私が、そんな快楽を知ってしまったら、もうきっと人間じゃいられなくなってしまう。



 でも想像自体は、何度もしてた。



 なぎさんの手が、指が、唇が。



 私のそこにあたること、胸を触ること、吸われること、奥をその指で掻き乱してもらうこと。



 何度も、何度も、何度も。



 そんなことばかり考えて。



 そうしたらどうなってしまうんだろう、って想ってた。



 きっと、私は我慢なんてできなくて。



 いくらでもあなたを求めてしまう。



 そしてその果てにきっと、毒を使ってあなたを無理矢理に犯してしまう。



 いつか、私がされそうになってきたことを。



 きっとたくさん、あなたにしてしまうから。



 そう想うと、胸奥が締めつけられるような、お腹の奥に何かが響いて震えるようなそんな感覚ばかりが満たされて。



 痛くて、苦しくて、悲しいはずなのに、どうしてか気持ちいいと想ってしまう。



 そんな自分が何より悍ましいのに止められない。



 ねえ、お願い。



 想うだけだから、許してください。



 願うだけだから、許してください。



 あなたは何も知らないで、こんな醜い私のことを。



 あなたは決して知らないで、こんな欲に塗れた私のことを。



 そうしたら、もう少しだけそばに居られるから。



 あなたに知られさえしなければ、もう少しだけそばに居られるから。



 冬の終わりまでなんて、わがままはもう言わないから。あとほんの少しだけでいいから。



 だから、どうか今だけは。



 そんなことを願って、独りで、私は私を慰めた。



 








 扉が、開いた。









 「あこ?」






 え?





 「あ、シャワー浴びて―――」





 え?





 あなたの眼が、私を見ている。






 あ、そっか。






 最初、裸になるつもりなんて、なかったから、脱衣所へのドア、少し開け放したままになってて―――。




 あ。



 視られてる。



 私がさっきまでしてたこと。



 自分で自分の首、絞めて。



 あなたの下着を手に握って、顔うずめて。



 それで。



 多分、聞かれた。



 なぎさんのこと呼んでること。



 全部、全部。



 私が隠してた、私の醜いとこ、私の悍ましいとこ。



 全部、全部、全部、全部。



 知ら―――れた。



 知られちゃった。



 私の気持ち悪いとこ、全部。



 あなたの隣にいちゃいけない、ほんとの私。



 あなたへの欲で塗れた、ほんとの私。



 その全部を。



 あ。



 だめ、泣くな。



 泣いちゃ、だめ。



 壊れちゃうから。もう二度と立ち上がれなくなっちゃうから。



 泣くな。



 立て。



 座るな、へたりこむな。



 泣くな、こんな情けない姿を見せるな。



 ほら、嘯け。



 そうだ。いつも通りだ。



 だって、欲なんてまるでない純粋な少女みたいな演技を、今まで散々してきたじゃんか。



 だから、できるはず、せめて、なぎさんが一番傷つかないように。



 この関係を終わらせなきゃ。



 あなたとの糸を断ち切らなきゃ。今、すぐに。



 そうして、できるのなら。なぎさんが傷つかないやり方を。あいつはほんとは醜い化け物だったんだって、なぎさんが―――これはなぎさんのせいじゃないんだって、そう想える終わり方を。



 やれ。これで最後なんだから。化け物なら化け物らしく、化けの皮を剥がされて終わりにしろ。


 

 だって、あなたが何も知らないから、私はそばに居られたの。



 だから、あなたが知ってしまった以上、私はもうあなたの隣にはいれなくて。



 いることに耐えられなくて。



 だから、この話はここでおしまい。



 私はあなたのところを去って、また明日から独りぼっち。



 自業自得、ただそれだけの、ありふれた終わり方。



 でも、それでいいんだ。それがきっと、なぎさんのためなんだ。



 だから、それで、きっと―――。






 「あは、バレちゃいました」




 「でもね、なぎさん。もうわかってたでしょ? 私が化け物だってこと」




 「身体から、人を狂わす毒が出る。そんなフィクションに出てくる、淫魔とかサキュバスみたいなものなんですから、私は」




 「それに他人を欲で誘惑するような奴が、本人はその欲を持ってないなんて、わけないでしょう?」




 「誰かを使って自分の欲を満たすために、欲を煽る毒を振りまいているんですから。生まれながらにそういう生き物なんですよ」




 「ほんとはそう、なぎさんのことも、いつか襲ってやろうって想ってたんですよ」




 「まずはねー、裸に剥いて、腕を縛って、私の毒を飲ませるの。無理矢理ね、それで興奮させて、ひっどい声で啼かせるの」




 「そうして、どろどろに溶かしちゃう。何日も何日もそうやって、もう私のことしか考えられないくらい無茶苦茶にしてやろうって、そんなことずっとずっと考えてたんだから」




 「あーあ、でもバレちゃった。ほんとはもっと、気を許して自然に触れあえるようになって、あと、もうちょっと毒が効くようになってから、襲うつもりでいたのになあ」




 「なぎさんが無理矢理されて、泣きながら、やめてっていうの見てみたかったのになあ」




 「でも残念、バレちゃったら仕方ないかな、あーあ、私ってほんとバカ」





 嘯く言葉を震える喉で並べるあいだ、あなたの顔が私にはどうしても見れなかった。





 「―――ごめんね、こんなの近くにいても気持ち悪いよね。だから、すぐ―――出てくから」




 「――――ごめんね、こんな醜い私で」





 ごめんね。



 なぎさん。





 ※




 
















 「じゃあ、襲えば? 今、ここで」




 「私は別に、それでいいよ」

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