第39話 父語る

 窓の外は一面灰色の世界だ。

 青、黄、赤、かすかに浮かびあがる信号機のライトだけが存在することを許された色のように思えてしまう。

 いくつかの交差点を過ぎたところで、空気を変えようとしてか泉が運転席付近へと身を乗りだした。


「お父さん、道、間違えないでよ。そろそろ右に曲がらなきゃいけないからね」


「それがなあ、ちょっと迂回するしかないんだ。通行止めになった道路の情報がいくつもナビに表示されている。でも心配しなくていい。仕事柄、姫ヶ瀬の道という道は知り尽くしているさ。タクシーの運転手にだって負けないつもりだぞ」


 ここでようやく、どこへ向かっているのかを聞かされていなかったことに気づく。

 そんなおれの疑問を読みとったわけではないだろうが、辰巳さんが「今のところ、葛見神社に行くならこの道がいちばん早いはずだ」と教えてくれた。


「葛見神社、ですか」


 行き先を口にしたおれへ、隣に座る泉が再びおれの腕を握ってくる。


「絶対にそう。葵ちゃんなら必ずあそこに行くよ」


 泉の手のひらには温もりと雨の冷たさとが混ざりあっていた。

 確信を持った彼女の口ぶりにおれも「そうだな」と頷いて同意する。間違えるはずがない。どうしようもなく、葵と泉は双子の姉妹なのだ。


 後部座席での会話が途切れた。次の信号が黄色から赤色へと変わり、車は慎重にスピードを落として停止線よりわずかに手前で止まる。

 不意に辰巳さんが口を開いた。


「着くまでの間、少し昔話をしようか。ぼくと唯の馴れ初めでも」


 なぜかおれよりも早く泉の方が「聞く!」と即答する。


「え? もしかして知らないのか?」


「だって。葵ちゃんとわたしがどんなにせがんでも、お父さんもお母さんも笑ってはぐらかすばかりで一度も話してくれなかったんだよ?」


 葵ちゃんよりも先に聞いて、後で自慢してやるんだ。そう言って彼女は笑う。


 ちなみにうちは父がろくでもない遊び人であり、付き合っているうちの一人にすぎなかった母がおれを妊娠したことで年貢を納めさせたのだそうだ。

 悪癖の治らない父親が朝帰りで家に戻ってこない日の遅い夕食なんか、しょっちゅうその思い出話を武勇伝チックに語られたものだ。

 そんな家でも兄と妹は健気に育ったわけで。


「自分の子供相手に恋愛話ってのも気恥ずかしいからね、確かに葵と泉にもまだ言ったことはないはずだよ」


 どこか照れを含んだ辰巳さんの口調だった。やはりそれが一般的な感性なのかもしれない。残念ながらうちの両親はやや世間からはずれた次元の住人だ。


「といってもそんなに大層な話でもないんだけどね。そうだな、ぼくの視点だと剣道が唯と引き合わせてくれたってことになる」


 信号が青に替わり、辰巳さんはゆっくりとアクセルを踏みこんでいく。


「きっかけはフランス遠征だった。うちの県警は全国的にも有数の剣道の強豪でね。その選抜メンバーがフランスで剣道での親善を行うことになったんだ。で、まだ大学を出て二年目だったぼくが最年少でそのメンバーに選ばれた。他にぼくよりも強い人はいたんだけど、若手に経験を積ませようってことらしかった」


 さらりと辰巳さんは話してくれているが、剣道でフランス遠征だなんてすごいエピソードではないか。蜂谷が慕ってわざわざ教えを乞いにいくのも理解できる。


「異文化の土地で外国人と剣を交えるというだけで得難い宝物のような体験なのに、あちらでは想像以上に剣道が盛んで、なかなかに骨のある剣士が多かった。本当に素晴らしい時間だったよ。その後あちらからわざわざ日本まで武者修行にやってくる人もいてね、そんなときにはもちろん力にならせてもらった」


 まだ規制されていないとはいえ、すでに排水されずに溜まった水の層が通行に支障があるレベルにまで達している道路を、車はしぶきをあげながら進んでいく。


「あくまで公的な親善というのもあって、夜はパーティー形式の食事が続いていてね。別に美味しくないとかそういうわけではなかったんだが、何せ肩が凝る。で、仲よくなったオリヴィエという名前の年上の剣士にそれを言うと『タツミ、いい店があるんだ』ってある夜のパーティー後にそこへ連れていってくれたんだ」


「そこにお母さんがいたの?」


「結論からいえばそうだ。ただ、食事中に出会ったわけではないんだ。確か四人で出かけていたんだが、店を出た後に忘れ物をしたのに気づいてぼくだけが取りに戻ったんだ。ぼくらが最後の客だったから、帰れば当然もう店じまいの準備さ。ぼくが戻ってきたときにはちょうどコックコートを着た女性がゴミを出しているところだった」


 ようやくおれも「唯さんだ」と口にする。


「そうだ。そのときになって初めて、フランス語が話せないのに忘れ物のことをどう伝えたらいいのかってことに気づいた。忘れたのはそのときのみんなで撮った写真だったんだけど、どう説明していいかわからない。仕方がないから『フォト、フォト』って片言のフランス語を使っていると向こうが『ああ、忘れていった写真ですね』って日本語で言うじゃないか」


 まさか厨房に日本人女性がいたとは思いもしなかった、そう辰巳さんは語る。


「異国の地で日本人に会えたのがお互いにうれしかったんだろうね、もうすぐ仕事が終わるからって言うので近くのブラッスリーへと場所を移して話すことにしたんだ。ああ、ブラッスリーというのは日本でいうところの居酒屋みたいなものだ。聞けば彼女は高校卒業後に身一つでフランスへとやってきて、料理の勉強をしているという。もうすっかり意気投合してね、お互いの連絡先を交換してその夜は別れた」


「それでそれで? いつお母さんと再会したの?」


 すっかり泉も前のめりになっている。


「実は一年以上も経ってからなんだ。正直に話すと一目惚れみたいなものだったから、筆不精のぼくが頑張ってエアメールなんかを送ったりして、どうにか繋がっていようと努力はしていたんだよ」


「わー、お父さんロマンチックー!」


 辰巳さんの恋する男子エピソードが、どうやら少女趣味なところのある泉の琴線に触れたらしい。


「そう言われるとちょっと恥ずかしいが、同僚連中からもよくそうやってからかわれていたよ。でも、やっぱり直接会いたいじゃないか。我慢できなくなってもう一度フランスへ行こうと決意したその日だよ、唯が日本へ帰ってきたのは。そのときぼくはワンルームの安アパートに住んでいたんだが、玄関のチャイムが鳴ってドアを開けるとそこにいたんだよ、唯が。さすがに夢かと思ったね」


 ドラマか、と突っこみたいのをおれはどうにか堪えた。


「その日は非番だったからよかったけど、前もって連絡をくれればみたいなことを彼女に言ったんだ。そしたら『昨日も来た。でもいなかった』って。仕事だったからね。唯はどうあってもぼくを驚かせなきゃ気がすまなかったらしい。で、再会の挨拶もそこそこに言われたんだ」


 言葉をそこで区切った辰巳さんに「何をですか」とおれが訊ねる。

 辰巳さんはハンドルから左手を放して頭をぽりぽりと掻きながら答えてくれた。


「『結婚しよう』って」


 きゃー、と泉は大盛り上がりだ。さすが唯さん、男気に溢れすぎているぜ。


「プロポーズを自分からできなかったのは男子として一生の不覚だけどね、はは」


 辰巳さんはそう呟いて静かに笑う。


「唯は自分の小さな店を持つのが夢だと口癖のように言っていた。でも、それは今じゃなくていい、結婚して、子供ができて、家族を守っていく。それもわたしの夢なのだと。あのとき、彼女から結婚しようと言われたときにぼくは、自分の人生はこの人といつか生まれてくるであろう子供のためにすべて捧げようと決めたんだ」

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