第6話 天国の扉

 地方都市である姫ヶ瀬の郊外、ちょっとした高台に星見台学園は位置している。

 学園の構内に建つ寮から通う寮生とは違い、自宅通学の生徒たちは駅に着いてから登り坂と毎日格闘しているのだ。ゆっくり歩くのでもひと苦労なのだが、自転車通学生の中にはこともなげに登り切る猛者もいるらしい。


 そんな立地にもいいところはある。

 晴れた日だと正門から姫ヶ瀬の街並みだけでなく遠く海までが一望でき、入学式や卒業式などの節目のイベントの折には非常に人気の高いスポットなのだ。

 その名が示す通り、星々がきらめく夜空をビルなどに邪魔されることなく眺めることもできる。


 私服に着替えるのをいまいましいドタバタ劇のせいですっかり忘れていたが、さすがにもう時間の余裕はない。制服のままでよしとしよう。

 約束していた時間の三分前、おれは葵よりも先に正門前にやってきていた。


「なんか、景色のいい場所で待ち合わせってデートみたいじゃないか?」


 思わず独り言を呟いてしまって勝手に気恥ずかしさを覚えてしまう。

 星見台学園のあるここ姫ヶ瀬市は彼女だけでなくおれにとっても地元だ。

 寮生の中でもおれは変わり種だった。息子が進学校に入ったからと家族ごと姫ヶ瀬市に越してくるケースは毎年あるそうだが、うちの場合は逆に父親が転勤となり、おれだけが入寮することでこの土地にそのまま残って今に至る。


 うち、志水家はかつて空中分解寸前だった。

 それというのもすべては多情な父の度重なる浮気による。あれは一種の病気だ。

 浮気相手の存在を隠そうともしない父に対して、小学生ながらおれはそうあきらめていたし、両親の離婚も時間の問題だと覚悟していた。


 だが母は辛抱強かった。いや、むしろ執念深かったと形容すべきかもしれない。そして奇跡的にも人生をチップ代わりにした賭けに勝った。

 花南の誘拐事件を契機に、父の乱れた行状はぴたりと治まる。

 首筋にキスマークをつけて平然と朝っぱらに帰ってきていたような男が、家庭の幸せを何よりも大事にする絵に描いたようなマイホームパパとして生まれ変わった。


 事件をめぐる周囲の騒音から花南を守るためにそれまでの職を捨て、新しい土地で新しい仕事に就き、自らが壊しかけた家族を父は再びより強く繋ぎ止めたのだ。

 春休みには一応実家に帰省してはいる。ただし実家とはいっても、おれにとって地元は生まれ育ったここ姫ヶ瀬であり、向こうの土地は家族以外に仲のいい知り合いがいないまったく見ず知らずの場所なのだ。

 家にいてもまるでどこか他人の家に招かれている感覚、と言えばいいだろうか。


 この春、結局二泊しただけで寮に戻っていくおれを、珍しく花南が不満気な表情を浮かべて見送ってくれたのを思い出す。

 本来ならおれも家族についていって転校するべきだったんじゃないだろうか。

 いい大学に行くためには進学校じゃないと云々については特に関心がない。そんなにいい大学へ行きたきゃどこでだって勉強するはずだし。


 にもかかわらず家族と離れてまでこの地に残ったのは、自分の中に何か切実な理由があったからではないのか。

 背中を軽くつつかれたのは、とりとめのないぼんやりとした思考がかつて閉ざしたはずの扉に手をかけてしまったときだった。


「まだお昼なのになに黄昏れてんのよ」


 そうからかってきた葵がおれの顔をのぞきこみ、わずかに表情を曇らせた。


「ひょっとして少し遅れたから怒ってる?」


 無理言って図書室に入らせてもらえたからつい夢中になっちゃって、と弁明しながら葵は顔の前で両手を合わせた。

 スマートフォンを取りだしておもむろに時間を確認し、笑顔を浮かべて彼女へ告げる。


「ジャストだな。遅刻じゃないよ」


 よかった、と意外にもほっとしたような様子の葵がくるりと回った。


「じゃ、いこうか」


 坂を下りきったところにある駅を目指しておれたちは歩きはじめる。ここから唯さんの店までは電車の乗り換えも含めて三十分以上はかかるはずだ。

 先を行く葵に気づかれぬよう静かに息を吐きだした。不用意に開きかけてしまった扉は再び固くきつく閉ざしておかなければならない。

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