第3章【1】

 ラクリマ・エヴァーソンは、自分の命はもう永くないと思っていた。

 父も病に臥し、母は朝から晩まで働き詰めで疲弊している。民の半数以上が患っていたが、村を蝕む疫病の特効薬はまだ開発されていなかった。だが村は貧しく、その研究費を捻出することができない。民は死を待つのみであった。

 毎日、ただ苦しかった。死んだほうがマシだとさえ思ったことがある。そんな状況の中、突如として現れたのがジル・アナスタシアだった。


「おはようございます。お加減はいかがですか?」

 目を覚ますと、そんな優しい声が聞こえてきた。寝覚めの微睡の中で、なんて綺麗な人だろう、とラクリマはそんなことを考えていた。細く揺れる銀髪と強い意志を宿した藤色の瞳が美しく、村一番の美人アルマを凌駕するほどの美女だ。ぼうっと眺めるラクリマに、美女は首を傾げる。

「まだお身体は辛いですか?」

 その問いでラクリマはハッと我に返った。起き上がってみると、病が嘘だったかのように体が軽い。苦しくもないし、どこも痛くない。

 ラクリマが困惑して視線を遣ると、その女性は優しく、温かく微笑んだ。

「私はジル・アナスタシアと申します。どうぞお見知り置きを」

 視界がキラキラと輝いていた。いままで見てきた女性の中で、一番に綺麗な人だと胸を張って言える。のちに村民は、彼女を女神だと言った。



   *  *  *



「おはよう、アナスタシア!」

「あら。おはようございます、ラクリマ」

 アナスタシアは村の一室を借り、製薬に勤しんでいた。どこから来た何者なのかは誰も知らず、しかしラクリマとエヴァーソン村長を治癒した彼女を村民たちは信用するようになっていた。アナスタシアは薬学に精通しており、薬の量産に向けて研究を続け、ラクリマはそれを手伝うようになったのだ。

「今日も元気そうですね」

「うん! アナスタシアのおかげよ」

「それは何よりです」

 ラクリマは村民の厚意により教育を受けていたが、街の者に比べると学が浅い。それでも、アナスタシアの手助けになればと彼女のもとへ通った。

「今日は何をすればいい?」

「マールム晶石しょうせきを砕いていただけますか? できるだけ細かくお願いします」

「わかった!」

 アナスタシアの行っていることがすべて理解できているわけではなかったし、アナスタシアがラクリマに任せる仕事も製薬の中で最も簡単なものだったとラクリマは思う。だが、ほんの少しでもアナスタシアの手助けをできることが何よりも喜びだった。


 頼まれた薬草を村の外に採取に行った帰り道、ラクリマはふと木を見上げた。白い服を纏った男性が、枝に座って退屈そうに頬杖をついている。

「そこで何をしているの?」

 ラクリマが問いかけても、男性は彼女のほうを見なかった。

「ねえ、そこで何をしているの?」

 聞こえなかったのかと思いまた声をかけると、男性はようやくラクリマに視線を向ける。それから驚いたように黒色の瞳を丸くした。

「私に言っているのかい?」

「ここにはあなたと私しかいないわ。どうしてそんなところにいるの?」

 男性は困ったように顎に手を当てる。もしかして声をかけてはいけなかっただろうか、とラクリマが不安になっていると、男性はようやく顔を上げた。

「私はルーベル。アナスタシアの手助けをする者だよ」

「……もしかして、天使様?」

 ラクリマの問いに男性――ルーベルは面食らったようだった。

「どうしてそう思うんだ?」

「村の人はみんな、アナスタシアを女神だって言ってるわ。もし本当にアナスタシアが女神様だったら、そのお手伝いをするのは天使様じゃない?」

「さてね」

 ルーベルが軽く肩をすくめて流すので、ラクリマは不満に唇を尖らせる。

 だが、もしアナスタシアが女神だったら、と考えた。そうだとしたら、それを人間には隠したほうがいいだろう。人間は強欲である。アナスタシアを捕らえ、利用しようとする者が出てくるかもしれない。アナスタシアが囚われたとき、ルーベルが本当に天使であったなら抜け出すことは容易いだろうが。

 アナスタシアが来るより以前、村中からありったけの薬を掻き集めた。それすら民に満足に行き渡らず、しかしそれを使ったところで効果があるはずもない。村長である父はそれを気に病み、責任感に押し潰されそうになっていた。そこに現れたのがジル・アナスタシアである。アナスタシアは村長とラクリマを癒しの魔法で治癒した。開発した薬を量産し村中に行き渡らせるために、村長の力が必要だったからだ。アナスタシアはまさに救世主。その手助けをできることは、村長にとってもラクリマにとっても誇れることだった。



   *  *  *



 ある夜、ラクリマはいつものように食事をアナスタシアに届けに行った。質素な料理ではあったが、アナスタシアはこうして届けに行かないと何も食べずに製薬に勤しむ。食事を取る必要はないと言っていた。それでも、ラクリマの母はせめてもの恩返しにと毎日、アナスタシアに食事を用意した。それを届けるのはラクリマの役目だった。

 アナスタシアが作業のために使っている部屋に行くと、アナスタシアの姿はなかった。机の上には製薬のための器具が並んでいたが、材料は綺麗に片付いている。作業を終えて、どこかで休憩を取っているようだ。

 料理をテーブルに置くと、ラクリマはアナスタシアを探すことにした。外套が椅子の背もたれにかかったままであるため、そう遠くへは行っていないだろう。

 そう考えて裏口から出たところで、話し声が聞こえてきた。裏庭の木の陰にアナスタシアの後ろ姿が見える。

「アナスタシア!」

 ラクリマの声に振り向いたアナスタシアは、穏やかで優しい微笑みを湛えた。

「こんばんは、ラクリマ」

「こんばんは。食事をテーブルに置いておいたわ」

「ありがとうございます。いただきますね」

 ふと視線をずらしたラクリマは、木にルーベルが寄りかかっていることに気付いた。おそらくルーベルは他の者には見えていない。ラクリマも見えていなければ、アナスタシアが独り言を言っていると思ったことだろう。

 ラクリマの視線を追ってルーベルを見遣ったアナスタシアが、くすりと小さく笑った。ルーベルは軽く肩をすくめる。ラクリマにルーベルが見えていることは、特に問題ではないようだ。とは言え、ラクリマは深入りするつもりはなかった。アナスタシアとルーベルが何者であろうと、きっとラクリマには関係のないことだ。

「明日も手伝いに来ていい?」

「もちろんです」

「私、アナスタシアの役に立ててる?」

「はい、とても助かっていますよ」

 ラクリマは、自分が本当にアナスタシアの助けになれているとは思っていない。ラクリマは学が浅く、製薬に関する知識もない。手伝いは簡単なことしかできず、作業のほとんどをアナスタシアひとりでこなしている。それでも、アナスタシアが頷き、微笑みかけてくれることが、何よりも誇らしいことだった。



   *  *  *



 アナスタシアはあっという間に特効薬を作り上げた。彼女は村民にその製法を伝え、村中に行き渡らせる目処が立ち、疫病は数年で収まると見込まれる。そうして村民たちに希望が見え始めると、アナスタシアは忽然と姿を消した。ラクリマにしか見えていなかったようだが、ルーベルもいなくなっていた。

 村民たちはアナスタシアを女神だとも天使だとも言う。村に滞在することは疫病に罹る可能性のあること。それでも恐れずに村で薬の開発を続けた彼女を、人々はただの人間ではないと噂した。ラクリマもそう思う。もしアナスタシアが村を疫病から救うために遣わされたのなら、きっと救いを求める他の人々のもとへ向かったのだろう。アナスタシアがいなくなったのは寂しかったが、その手助けをできたことは、ラクリマにとって誇り高いことだった。

 アナスタシアに出会うことは二度となく、ラクリマは天寿を全うした。






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