第1章【4】

「あの……ルーベル様でいらっしゃいますか?」

 雲に寝そべっていたルーベルが呼びかける声に顔を上げると、美しい銀髪の女性が彼を覗き込む。彼には、その女性が人の子であるとすぐにわかった。

「やあ。きみは?」

「ジル・アナスタシアと申します。どうぞ、アナスタシアとお呼びください」

 おそらく神に召し上げられたのだろう、とルーベルは考えた。だが、いまは神の気まぐれにより天使が増え、天使の中でもそれなりの役職を持っているルーベルでさえ手が空いている。人の子を召し上げても、なんの役割もないのではないだろうか。神の考えることはルーベルにはよくわからなかった。

「どうしてここにいるんだ?」

「ルーベル様はすでにご承知の通りでしょうが、いま現在、人間は戦争や疫病に苦しんでいます。神はそれを憂い、私はその救済に向かうことを仰せつかりました」

 確かに現在、人間の暮らす大地は荒れている。アナスタシアの言う通り、各地で戦争や紛争が勃発し、流行病に苦しむ国も多い。だが、それを救済するのは天使の役目であるはずで、人間を召し上げる必要はない。

「なぜきみが?」

 ルーベルの問いに、アナスタシアは首を傾げた。

「神に仰せつかったためです」

「そうじゃない。大地の救済に向かうのは天使の役目だ。そしていま、天使は手の空いている者が多い。例えば私だ。その中で、なぜきみが?」

「さあ……理由までは伺いませんでした。確かに仰る通りですね」

 不躾ながらアナスタシアを観察したルーベルは、ひとつの結論を導き出した。

 その研ぎ澄まされた高潔な魂は、美しく意志の強い澄んだ紫の瞳が証明している。つまり、神が好みそうな人間、ということである。

「きみは何か功績を立てたかい?」

「僭越ながら、私は故郷で騎士団を率いておりました。個人的な功績は取り立ててありませんが、我が騎士団が上げた功績でしたら」

 女性でありながら騎士団長を務め、その騎士団が人々のために役に立ったのであれば、神が召し上げる理由に充分になり得るだろう。

「なるほどな。それで? なぜ私のところへ?」

「お聞き及びではありませんか?」アナスタシアはまた首を傾げる。「ルーベル様とともに向かうよう仰せつかったのですが……」

 ルーベルは思わず重い溜め息を落とした。こういうところが神の悪い癖だ。

「初耳だ。いや、きみを責めるつもりはない。神は責任感がないんだ」

「そうですか……」

 大地の救済には天使が何人も向かっているはずだ。戦争や疫病は人間が大量に死ぬ。それを放置することはできない。放っておけば世界の均衡が崩れてしまう。ひいては世界の崩壊に繋がるのだ。

 アナスタシアの補佐役に自分が宛てがわれた理由を考えていたルーベルは、ややあってひとつの結論に至り、なるほどな、と心の中で呟いた。

「私と旅をするのなら、私の祝福が必要だな」

 自分の祝福を与えることがアナスタシアの旅路を過酷なものに変えるとわかっていたが、ルーベルとて所詮、神の遣い。神に叛旗を翻すことは簡単だが、天使団を率いる弟パテルに自分を追わせるのも酷だろう。ルーベルにとって、初めて出会った人の子より唯一の弟に天秤が傾いた結果である。



   *  *  *



「アナスタシアも、いつか記憶が蘇るのでしょうか」

 夕食をテーブルに並べながら暁が言った。そうだな、と蒼は小さく頷く。

「……パテル。私とアナスタシアが転生したのは、これが初めてではないんだ」

 蒼が静かに言うと、暁は眉根を寄せた。

「どういうことですか?」

「私とアナスタシアは、もう何度も転生を繰り返している」

 これは誰にも話したことがない。そもそも、自分とアナスタシア以外の者が同じ転生先に現れたのは初めてのことだ。何かアナスタシアに影響があるかもしれないと思い、ルーベルは慎重になっていた。

 蒼がそう話すと、暁は神妙な面持ちになり顎に手を当てる。

「兄さんとアナスタシアは、必ず同じ場所に転生するということですか?」

「そうだな。記憶が蘇ったときは、必ずアナスタシアを見つけて来た」

「アナスタシアが記憶を保持していたことはないのですか?」

「いままではないな。記憶が蘇るのは私だけだ」

 ルーベルとアナスタシアの最初の転生は、彼らが存在していた時代とそう遠くないように感じられた。現代に至るまで、文明の進歩とともに彼らは転生を繰り返している。幾度となく生まれ、幾度となく死ぬ。まるで、アナスタシアの運命をなぞるように。それが神により仕組まれたものだとすぐに気が付いた。

「……アナスタシアは、記憶を取り戻すと死ぬんだ」

 抑揚のない声で言う蒼に、暁は目を剥く。これがいままで話さなかった理由で、ルーベルがアナスタシアを守らなければならない理由だ。

 一番初めの人生で、記憶が蘇ったルーベルはそばにいた人間の中にすぐアナスタシアの魂を見つけた。転生したのだと気付いたとき、この生まれ変わりになんの意味があるかわからなかった。アナスタシアの記憶が蘇ると、彼女は事故により命を落とした。そのとき、ルーベルは理解した。この転生が、神が再びアナスタシアの魂を得るために仕組まれたものだと。

「アナスタシアはいままで、記憶が蘇った直後に命を落として来た。事故や、病気や……。私は必ずアナスタシアのそばに生まれ、それを何度も見て来た」

 しかし、最初の死でアナスタシアの魂は神に奪われなかった。それを知ったのは、二度目の転生のときだった。ルーベルは再び記憶が蘇り、アナスタシアの魂を見つけたからだ。神の試みは失敗しアナスタシアは神の手を逃れたが、神がそう簡単に諦めるはずがない。ルーベルが天使として神に仕えていた頃、神のアナスタシアへの執着は凄まじかった。神の手を離れたあとも、アナスタシアに執着していたのは目の当たりにしている。

 二度目の転生も結末は同じだった。アナスタシアに記憶が蘇ると、彼女は数日のうちに病に罹り命を落とした。その次も、その次もアナスタシアは同じ運命を辿った。ルーベルは自分の転生に意味があるのか考えていたが、アナスタシアの運命に神の力が作用しているように、自分の転生は自分とアナスタシアの力によるものではないかと考えた。つまり、アナスタシアの魂を守るためにルーベルの転生は存在している。アナスタシアがそれを望んでいるのだ。

「今回もそうなると言うのですか?」暁は顔をしかめる。「アナスタシアは、いまだ神の手から解放されていない……ということですか?」

「そうだ。転生が終わらない限り、アナスタシアは神の手から逃れられない」

 パテルはアナスタシアの最期を知らない。だが、アナスタシアが神から与えられた運命に苦しめられたことは、そばで見ており承知していたはずだ。

「では……兄さんはいままで、アナスタシアを守るために……?」

「残念ながら、守れたことはないがね」

「…………」

 そこにシャワーから上がって来た律が入って来るので、蒼と暁は話すのをやめた。ふたりが険しい表情をしていることに気付き、律は首を傾げる。

「どうしたの、ふたりとも。難しい顔して」

「なんでもないですよ」暁は微笑んで見せる。「夕食にしましょう」

「きみ、ちゃんとドライヤーしたのか? 髪が濡れてるじゃないか」

 蒼の指摘に、律は困ったように笑った。



   *  *  *



 アナスタシア本人に転生のことを話したことはない。もしかしたらアナスタシア自身には神から逃れるなんらかの力があるかもしれないが、彼女が自身の記憶を取り戻すことにより死を迎えるのは神の力である。ただの人間に戻ったアナスタシアにそれを覆す力があるかと言うと甚だ疑問だ。アナスタシアが繰り返す死の記憶を取り戻し再び苦しむ可能性もある。そんなリスクを冒すくらいなら、ルーベルが神の力を破る方法を探すほうが数倍マシだ。

 アナスタシアは記憶を取り戻して数日内に死ぬ。しかし幾度となく転生していることに気付いたことはない。あくまでアナスタシアとしての記憶が蘇るのだ。それがせめてもの救いだろう。アナスタシアはルーベルの祝福により死を繰り返した。その運命から解放されたはずだが、転生したことにより同じ道を辿っている。それに気付けば、アナスタシアは壊れてしまうだろう。

 ドアをノックする音で、蒼は考えるのをやめた。部屋を訪れたのは律だった。

「蒼、あのさ……何か、僕に隠し事をしてない?」

 遠慮がちに問いかける律に、蒼は促すように彼を見遣る。

「蒼もハンナも義父とうさんも、何か隠し事をしているような気がするんだ」

「……俺たちは人間だ。隠し事のひとつやふたつ、誰にでもあるだろう」

 蒼はそう言って誤魔化すほかなかった。律は不満げな表情をしていたが、蒼の言うことに返す方法はないと思ったのか、小さく頷いた。

「それもそうだね」

 どこか寂しげな笑みだったが、その隠し事を話すわけにはいかない。いまはまだ、アナスタシアを救う方法は判明していないのだ。





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