その頃である。

 女騎士達に寄ってたかって追い出されている最中の商人は、全く予想外の事態だと鼻息を荒くしていた。こうした大きな宮では常に下働きの奴隷を求めているものだから、手に余る女を放逐出来ると思っていた。「グランドリー王国に二度と戻らないようにすること」と大金と共に厳命されているが、この国で手放すならそうそう戻れるものでもないだろう。しかも場所は後宮、女は一度入れば出ることが出来ない。

 女にも「上手く取り入れば王の女になれるぞ」とやる気を出させてここまで来たというのに、何をどうしてかひとつとて商品を売れずに追い出される始末。本当に美しいだけで益のない、疫病神の女としか言いようがないだろう。

「ああ、もうクソが! 手を離せ!」

 女騎士の手を払い、商人は身体を捻る。その途端、通りすがりの下働きと思わしい女に腕がぶつかったが知ったことか。

「貴様!」

「おい、さっさと行くぞ!」

「メーヤ! メーヤ!」

 商人は奴隷達を引き連れ、後宮の境を飛び越えた。後宮の女達は如何なことがあろうとこの境を越えることは許されない。

「メーヤ! メーヤ!」

 背後から響く声を全て無視し、商人は砂漠に消えてしまったのだった。

 さてメーヤはといえば、商人が振り回した腕で殴られて転び、外壁の角に頭を打って気絶してしまっていた。強かに流れる血に、女騎士達は泡を食って走り出す。

「ナジュマ様! ナジュマ様! メーヤが!」

 これには後宮中に緊張が走った。メーヤはただの乳母で位は高くない。けれど、他に替えの効かない、王女ナジュマの乳母なのである。

「メーヤ! メーヤ!」

「メーヤ母様!」

 ルゥルゥが取り縋ろうとするのをナジュマはとどめた。頭を怪我した人間を無闇矢鱈に動かしてはいけないと、前世の知識で知っているからだ。

(わたしの所為か)

 あの商人を問答無用で追い出したから、腹を立てて。メーヤが傷付いた前後の様子を女騎士から聞いたナジュマは唇を噛む。だが今は反省をする暇などなく、一刻も早くメーヤの治療をしなければならない。

「母様、医師を呼んで! なんなら王宮に遣いをやって」

「ナジュマ」

「境の兵士に手紙を」

「ナジュマ」

 そっと夫人の手がかかり、ナジュマは視線を向けた。夫人達は哀れそうな目でナジュマを見つめている。

「後宮に、医師は呼ばれない」

「……何を」

「後宮で穢れを生んではならない。穢れになる者は、その前に捨てられるの」

「……なんだって?」

 ナジュマの眉が上がるのに、応えたのは元踊り子の母である。

「私はほら、少しばかり薬草の知識がある。だから軽い治療は出来たの。でも、それでどうにもならないような者に後宮は手をかけられない。この宮で死を迎えてはいけないから、ここの女達は死を目前にしたら砂漠に出されるのよ」

「どういうこと」

「……『宿下がり』というのよ、ナジュマ」

 ──お母様!

 ナジュマはこの時初めて、己の母が産後実家に帰ったのではなく、産後の肥立ちが悪かったばかりに捨てられて……きっと砂漠で死んだことを知った。それだけでなく、今まで幾人も去っていった夫人達、彼女らもまた同じように砂漠に打ち捨てられて死んだのだ。

 ナジュマには特別な、ナジュマだけに与えられた能力がある。しかし皆に「おうちに帰ったのですよ」と言われて素直に信じ、一人たりとて索引を引くこともなかった。後宮から離れて家に帰れて、きっと幸せだろうと思っていたからだ。

 その頃、彼女らは看病すら惜しみ穢れと言われ、太陽に焼かれ砂に晒され、苦しんで死んでいったのに!

「女を! わたし達を! なんだと思っている!」

 胸の内、いつだって寂しさと苦しさが渦巻いていた。この狭い鳥籠がナジュマの世界で、穏やかだけれど歪で、絶対何かが間違っていると思いながら、けれどナジュマには何も出来なかった。

 ──知らなかったから、やらなかっただけだ!

 ダンッと足を床に打ち付けるとそこら中に侍っていた女達が怯え、肩を震わせた。

 ナジュマは今、明確に怒りを表している。双眸はギラギラと光を湛え、太い眉はしっかりと上がったままだ。ナジュマはいつでも快活に笑い、女達に優しい顔しか見せてはこなかった。これがナジュマにとって、初めての怒りの発露である。

「母様達、わかれば教えて。大皇国の一行が来ていると言ったね。彼らはどこに? 王宮かい?」

「いいえ……。陛下は大皇国の方々が苦手なの。身体が大きくて強いから、比べられたくないのよ。だからいつも、彼らは砂漠のオアシスに陣を張っているわ」

「王宮から一番近いオアシスよ〜。ここからも一番に近いわ〜」

「行くのねナジュマ」

「わかったナジュマ〜」

 夫人達はナジュマの為にラクダの準備を始めた。たった一頭だけ備えられているそれは、ナジュマにとってはただのペットと同義だった筈である。

「馬の方でなくてよいの?」

「砂漠では砂に足を取られるわ。ラクダの方がいいのよ」

「まずは連絡兵に女が怪我をしたから医師を派遣してくれと書状を持たせるわね。絶対に無視されるからそれは構わないわ。行って戻るまでの時間稼ぎの間に、貴女はラクダに乗ってオアシスに向かいなさい。大丈夫、水場はラクダが知っているから」

「行くのはお前一人よナジュマ。お前は後宮の女であって女ではない。特別なたった一人。だからこそ見つかっても誤魔化す道はある」

「わかった」

 即座、ナジュマは女達が手渡してくれた大きなベールで身体を覆った。砂漠は正に砂だらけ、身体を隠さねば隙間という隙間に砂が入り込む。……騎士の格好のまま着替えていなくてよかった、動きやすいから乗馬も楽だ。

「ひ、姫様……」

 涙目のルゥルゥがベールをきちんと留めてくれるのに、ナジュマはしっかりと頷いた。

「大丈夫だよルゥルゥ。メーヤを看ていておくれ。絶対帰ってくるから」

 さくさくと女達は動き出した。元貴族の母が書状を認め、後宮の境にいる連絡兵に下働きの女が手渡す。今まで一人たりとて脱走者のない後宮と侮った兵士は悠々とその場を去り……、

「今よ〜!」

 パン、と尻を叩かれたラクダが砂を蹴って後宮の外に飛び出した。

「行ってきます!」

「お気を付けてぇ!」

 女達が小さな声で、それでもしっかりと手を振って見送ってくれる。ナジュマは一度だけ振り返り、猛然と砂の先に視線をやった。

(……)

 初めて訪れる後宮の外は見事に砂と太陽と青空ばかりである。ナジュマは後宮の中から見る砂の海を愛していたけれど、この砂の下に自分の母と多くの女達が眠っていることを知らないでいた。一歩一歩踏むそこに、女達の悲しみがある。

(……許さない)

 許されていい筈がない。ただでさえ物のように扱われ、たったの一夜を過ごしたら後宮に収められ忘れられているのだ。忘れた上に、死んだら迷惑だからそこで死ぬなと捨てる。これを許せる人間こそどうにかしているだろう。


 これが国土と民とを戴く王のすることだというのなら、その王の首を代えてしまえばいいのではないか。


(……王に足る者、か)

 そもそもナジュマは王などというものを知らない。遠目に王の一団とやらが来るのを見たことがあるばかり、それ以前に王がナジュマの存在をどれだけ覚えているというのやら。ナジュマは本当にあらゆる常識の枠の外にある存在なのだ。

 ナジュマは後宮の中だけでずっと生きてきた。夫人達が知る限りの知識を与えてくれたけれど、ナジュマはナジュマで身の内に別の知識も有しているものだから全てがあべこべで、故に後宮の外で普通に生きることすら満足に出来るのかわからない。

(わたしは王には足らないな。別の誰かがいいだろう)

 とはいえ、王に他の子供はいない。ならば、

「壊すか、この国」

 ぽつりと呟いた刹那、視界に何かが見えた。

「お」

 光を反射する多くの布。水を湛えるオアシスの周囲に設営されたテント群。

「あれだな!」

 ラクダはふるふると頭を振ってからプシュッと口先を鳴らし、ナジュマの言葉に応えた。

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