【令和最新版】荀子を読もう!【春秋战国时代の心のノート】

織部楽雲

荀子 第一巻

【荀子 第一巻 勧学】

 「」内の文章が書き下し文。

 この後ろに続けて筆者の意訳や感想、推察を書く形式で進めます。

 

 

【荀子 第一巻 勧学(1)】

「君子曰く、学は已むべからず。青はこれを藍より取れども藍よりも青く、氷は水これを為せども水よりも寒たし」

 君子は言った。学ぶ事は続けていくべきだ。

 青色は藍から取り出すが、取り出した青色は元の藍より青い。

 氷は水から出来上がるが、その仕上がりは水より冷たい。

 

 このたとえに合わせて、君子は日々よく学んで反省すれば知恵が深まり、行動に誤りが無くなると説いた。

 日々学びを止めずに継続すれば、得た知恵はより洗練されていく。

 重ねて行けば小さな学びもやがて大きい学びとなる。

 

「生まれたる時はすなわち声を同じくせるも、長ずればすなわち俗を異にするは、教これをして然らしむるなり」

 人間は生まれた時に皆同じ産声を上げるが、成長するとそれぞれ異なった生活を送るようになる。

 これは後天的に受けた教育の影響である。

 

 荀子は後天的なしわざによって人格が形成されると様々な形で伝えるので、早速これを言いたがるのは印象深い。

 

 

【勧学(2)】

「終日にして思えども須臾の学ぶ所に如かざりき」

 丸一日自問自答しても、その結果は僅かな勉学に及ばなかった。

 

 人間誰しもが経験のある事だと思う。

 自分自身であれこれ妄想し考え抜いた結果でも、それはすでに先人が答えを出していた。

 自分自身が考えた事よりも、はるかにまとまった答えを出している事もあった。


「吾嘗て爪先立って望めども高きに上る事の博く見ゆるに如かざりき」

 私はかつて爪先立って遠くを見ようとしたのだが、これは高いところに登って遠くを見る事に及ばなかった。

 

 荀子ではこれでもかと例え話を用意して教えを伝えている。

 上記の例え話はとても分かりやすいのだが、理解するのに時間が掛かってしまう話の方が多いので頭が痛い。

 気になる方は是非とも各出版社より販売されている荀子を手に取ってもらいたい。

 

「君子も生まれつき異なるには非ず、善く物に仮るなり」

 聖人君子も、生まれつき優れていたのではない。

 他の物を借りて利用し優れていった。

 

 現代ではインターネットが存在するおかげで、内容や出来の良し悪し、信憑性の有る無しは一旦考えず、学ぶ事や調べる事が容易になった。

 有効利用できる物は上手に活用したい。

 

「君子の居るには必ず郷を択び、遊ぶには必ず士に付くは、邪僻を防ぎて中正に近づく所以なり」

 君子は必ず良い環境を選び、必ず良い先生の下で学ぶ。

 偏りなくバランスの良い徳に近づくのが理想である。

 

「物類の起こるや始まるところあり、栄辱の来るや必ず其の徳に象る」

 良い事も悪い事もその始まりには原因があるように、人が栄誉を受けたり辱めを受けたりするのは、必ず自分の徳の積み重ねに応じるのである。

 

「言えば災いを招く事有り、行えば辱を招く事有り。君子よ其の立つ所を慎まんか」

 下手に発言してしまった事が原因で災いを招いてしまったり、半端に行動してしまった事が原因で辱めを受けてしまう事がある。

 君子たるものよ、行動するその時に自分はどのような立場に居るのか、しっかり気をつけよう。

 

 

【勧学(3)】

「騏驥も一躍にしては十歩なること能わず、駑馬も十駕すれば即ちまたこれに及ぶべし」

 名馬であっても一飛びで十歩の距離を飛ぶことは出来ない。

 駄馬であっても日数をかければ、名馬が駆けていった道と同じだけの距離を歩ける。

 人にも動物にも先天的に得た才能には差があるが、荀子が語る人としての道は日々に少しずつ進み続けるものであり、誰でも歩んで行けると励ましてくれている。

 

「目も両視せざればすなわち明らかに、耳も両聴せざればすなわち聡し」

 目は二つあるが、片方ずつの目でそれぞれの物を見ようとしてもはっきり見ることは出来ない。両方の目でひとつの物を見れば、しっかり見る事が出来る。

 耳も同じく、二つあるからと言って別々の音を聞こうとしてもはっきり聞こえない。一つに集中すればはっきりと聴こえる。

 

「故に君子は一に結ぶなり」

 だから君子は一つの物事に集中する。

 君子も一夜にして道を学んだのでは無い。

 日々小さい徳を重ねていって大きい徳を得た。

 

 

【勧学(4)】

「善を為して積まんか、安んぞ聞こえざる者有らん」

 善行を積み重ねていこう。

 そのうち世間から善を実践できる人間だとバレるだろう。

 

 

【勧学(5)】

「学は没するに至りて而る後に止むべきなり。これを為すは人なり、これを舎つるは禽獣なり」

 学ぶ事とは、死を迎えてからようやく終えるものである。

 学び続けてこそ人間であり、これを捨ててしまう者は薄汚れた獣と同じである。

 

 

【勧学(6)】

「古の学者は己の為にし、今の学者は人の為にす」

 昔の学者は己を良くするために学んだが、今の学者は人に知識マウントを取るために学んでいる。

 上記は論語の憲問にも登場する言葉で孔子へのリスペクトを感じる。

 

「君子の学は以って其の身を美にし、小人の学は以って禽犢(きんとく)と成すのみ」

 君子が学ぶのは、自身の研鑽のためである。

 小人が学ぶのは、人に取り入るためである。

 

「問われざるに而も告ぐる」

「一を問われたるに而も二を告ぐる」

 何か質問したわけでもないのに教えてくる。

 一つの質問に対し、その解答だけでなく余計な事まで話す。

 これは両方とも悪いものだ。

 

 

【勧学(7)】

「学は其の人に近づくより便なるはなし」

 学問を学ぶには然るべき人を師としてアプローチするのが一番良い。

 学ぶのなら、しっかりとした先生の下でしようね。

 

 荀子は自身の取り巻く環境を良くしようとアドバイスしがちである。

 環境が人格を構築する考えに基づいている。

 

 

【勧学(8)】

「問の悪しき者には告ぐること勿れ。告の悪しき者には問うこと勿れ。説の悪しき者には聞くこと勿れ。争気ある者とはともに辯(べん)ずること勿れ」

 悪意ある質問を出してくる者には答えない。

 悪意ある答えを出してくる者には質問しない。

 よくわからん話をする者に耳を傾けるな。

 冷静にディベートする気は全くなく、相手を論破して言い負かす気で居るだけの者とは話し合うな。

 

 お互いの事をよく知らないまま議論をしても碌な事にならない。

 会話が固くなくなる程度に親しくなり、顔色に不安が無い時にこそ有意義な議論が出来る。

 

 

【勧学(9)】

 ここで初めて暴君の代名詞とされる桀と紂がでてくる。

 桀が夏の暴君。紂が殷の暴君。

 悪い君主の例として古くから登場するレジェンドである。

 

「学なる者は固より学んでこれを一とにするものなり。あるいは出てあるいは入るは涂港(とこう)の人なり。その善者の少なく不善者の多きは桀・紂・盗跖なり。これを全くしこれを尽くして然る後に学者なり」

 

 学者とはあれこれ取っ散らかって広く浅く学ぶのではなく、一つの学問を集中して学ぶのである。

 中途半端に始めたり辞めたりするのが凡人である。

 悪事ばかり働くのが桀や紂の様な暴虐なものである。

 (善なる行動と)学問を選一して尽くしてこそ学者なのだ。

 

 一つの学問を集中して学ぶという心構えを説いているのに、唐突に善者やら不善者やら言い出すのは、学問へ取り組むに際しても善き行動を忘れないで欲しいという思いを乗せているかもしれない。

 

 

【勧学篇 終わり】

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