瀝青を割る②
ヒカリエの高層階は空き部屋が多い。というのも、全階に通電しているわけではないこのビルで暮らすには、必然的に強靭な足腰を持つものでなければまともに生活などできないからだ。上にあがるには階段を使う。エレベーターは使われず、数十年前に止まった。ある意味で、陸の孤島とも呼べるかもしれない。高層ビルという空に近い場所で暮らすのは、山で暮らすのと大差ない。暮らしているのはエルフばかりという噂だった。
「あらやだ。若いのに息切らしちゃって」
エミリーは冗談のつもりだったのか、そういってから微笑した。
ユキは若い。自慢の健脚は自然化した新宿や渋谷で生きる若者のなかでもとりわけ軽快な部類に数えられる。それでも三十階を超える高層階は骨身に応えた。新宿の実家も高層階だが、せいぜい十数階だし、それに電気が通っていて、エレベーターも健在だった。
まだ、心臓がばくばくと音を立てて鼓動している音が聞こえる。エミリーには、この肉体の苦しみはないのだろうか。人間離れしたエルフには、疲れなどないに等しいのかもしれない。
「……エミリーさんほどじゃないですよ」
ユキは皮肉のつもりでいった。いくらか自嘲もこもっていたかもしれない。声はがらんとした空間によく響いた。殺風景な玄関だった。
「エミリー。さんはいらないわ。あと、敬語もね。以前もいったでしょう」
「……わかった。エミリー」
「お茶いれるわね。さあ、入って」
「うん。お邪魔します」
部屋に入った。全体をぐるり見渡すと、巨大化した観葉植物がいくつも並んでいた。外よりもジャングルみたいだ。森、というよりジャングル。外で育つ樹々はクヌギやクスノキ、イチョウなんかが多く、元々街路樹として植えられていたハナミズキやプラタナスなど珍しくない。桜なんかは人が好んで増やす。この部屋はそれとは違う。ユキが一度も見たことのない種類の植物ばかりだ。自然と不自然が同居している。新宿で見る刺々しい野生剥き出しの自然とは異なり、どこか人工的で、かつ、洗練され、整然とした部屋はどこか人間的な熱に欠ける。居心地がいいような悪いような、よくわからない。
——ここはどこなのだろう?
玄関以外にこれといって仕切りはなく、広い空間にテーブルやソファ、ベッドなどが置かれている。今ではそれらがどこからどのように搬入されたのかもわからない。ずっと昔は、電気も通っていただろう。搬入用のエレベーターでも動いていたのかもしれない。清潔だ。掃除は行き届いていて、実家や近くに住む友人たちの家よりもずっと綺麗だ。
キッチンの壁から不自然に伸びる塩ビ管の先端に、金属でできた水道の蛇口がついている。金属とパイプの境目からぽたぽたと水が垂れていたが、エミリーは垂れる水を気にする素振りも見せず、茶葉を缶から取り出して、淡々と準備をすすめた。
どうやって水を供給しているのだろう。トイレはどうしているのだ。お風呂は。ガスが通っているのだろうか。そういえば照明も光っていた。電気は通っていないはずじゃなかったのか。薪でも用意しているのだろうか。ユキの疑問は絶えなかった。
意外にも、エミリーが使っているのは電気ポットだった。
「電気って通ってるんだね」
ユキは尋ねた。
低層階は弱々しい電灯しかなかったが、二十五階からは急激に明るくなったことを思い出した。高層階にはどこからか給電されているのか。
エミリーはなにか含むような笑みを見せてから、窓を指差した。うっすらと色のついたカーテンウォールがある。壁面緑化は施されていなかった。
「なにあれ?」
「ペロブスカイト太陽電池っていってね、若い人たちは知らないのかしら?」
若い人といわれ、なんとなくユキはいい気がしなかった。エミリーが若い人というときには、いくらか蔑みや嘲りが含まれているような気がする。少なくともユキはそう感じた。
「私がおばあちゃんのころ、まあ今もおばあちゃんなんだけどね……私にまだ孫とかがいた頃っていったほうがいいかしら、高層ビルの壁面での太陽光発電が義務化されたのよ。その名残ね。有機素材で高効率の発電力を備えた、薄くて曲げられる新素材だっていってね、大変な騒ぎだったんだから。まあ、その政策もたったの二年で終わっちゃったけどね。翌年にレーザー核融合の効率が飛躍的に改善して、世間を席巻したんですもの。超高効率の。人類がはじめて太陽を作ったってわけ」
「ふーん」
ユキの生まれるずっと前の、知らない過去の話。ガラス張りの銀座線の中に閉じ込められた過去と同じ時代なのだろうか。あるいは、もっと昔の話だろうか。どっちにしろユキが目にすることのできないはずの神話のような、御伽噺のような、フィクションのような、遠い世界のおはなし。その太陽が今でも動き続けているから、今日も無地に山手線が走っているのだ。
「はい、お紅茶」
「ありがとう」
窓辺のソファに並んで座った。眺望を確保するためか、その大きな窓にはペロブスカイトは貼られていなかった。
渋谷だけじゃない、東側に面した大きな窓からは東京の大部分が見通せる。もちろん、スカイツリーや東京タワーも。東京タワーの展望台付近までは、どうやら蔦が伸びていることがわかる。今では誰も近付くことすらなくなった東京のシンボルですら、自然の力でやがて倒壊するのだろう。あるいは、その日も近いかもしれない。
最初に樹々に埋まったのは代々木だった。当然だ。新宿御苑と代々木公園、明治神宮の持つ自然の力は驚異的な勢いで都会を飲み込んでいった。
人の手で管理されていた頃には考えられない速度で樹々はその生息域を広げ、たった数十年で代々木を飲み、またその数十年後には樹々が大きく成長していた。劣化したビルが崩れると、その上にまた樹々が生え、根や落ち葉で全体を覆った。
代々木のついでのように新宿が樹々で覆われると、やがて緩やかな自然の波は原宿から渋谷に向かって南下をはじめた。
高層階から見るとその状況がよくわかる。明治神宮、代々木公園、新宿御苑、神宮外苑、赤坂離宮、青山霊園。ビルの屋上緑化や壁面緑化が急速に進んだ二千年代の影響だけだとは考えられないほど、視界のほとんどは豊かな緑で埋められていた。これこそユキの知るリアルな世界だった。なにも不自然なことはない自然だった。
「よくもまあこんなにも育ったものだよね」
見も知らぬ渋谷を思いながら、感慨に耽ってみる。いや、なにも感じない。
「ほんとにそう。渋谷の街は昼夜人々で溢れてたんだからね」
エミリーはカップを持って立ち上がると、窓際から真下の宮益坂を見下ろし、目を細めた。外の光が瞳に差し込んで、エメラルドのような濃い緑色の光が溢れていた。宝石のように冷たい輝きに、思わず手を伸ばしてしまいそうになる。
ユキも立ち上がった。街を見下ろすふりをして、こっそり瞳をまじまじと覗き込んだ。外の空の青、街の緑、もともとの瞳の色の青緑、どれが本物の光なのだろうか。あらゆる色が綾なして、いずれは白に消えてしまうのではないかと不安になるような、そんな色だ。彼女の瞳はいつでも、たっぷりと涙をたたえていたが、その銀色のしずくは、こぼれそうでこぼれないまま、ずっと遠くを見ていた。彼女が見ているその場所からはきっと、絶えず水が湧き立ち、涙をたたえるのに十分なほどの悲しみが満ちている。
「……残された方はたまったもんじゃないっての」
小声で悪態をつく。自然に対するささやかな反抗だ。
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