5章 道③


「けほっ、はあ……信じ、られない……」


 病院の近くでようやく歩みを緩めた一叶の胸中は、大荒れだった。


(子供の首を絞めるなんて、あの人は本当に私の母親なの?)


 地面を見つめながら大股で進んでいると、


「一叶!」


 叫び声が聞こえて振り返れば、母親が前からやってくる。


「お母さん? どうやって先回りして……」


 ――パシンッ!


 乾いた音が響き、顔に衝撃を感じた。


「きゃっ!」


 地面に転がった一叶は、じんじんと熱を持って痛み出す頬を押さえる。口の中に血の味が滲んで、平手打ちされたのだと一拍遅れで気づいた。


「なんで電話に出ないのよ! メッセージも既読すらつかないってどういうことよ!」


 頬を押さえながら、信じられない気持ちで母を見上げる。


「私のこと、追いかけてきたの? 首まで絞めておいて、気にするのはそこなの……?」


「はあ? なに言ってんのよ、相変わらず頭が弱い子ね」


 弁解する気もないのかと、起き上がれないほど打ちのめされていた。


「連絡を返さないのは……お母さんが口を開けば、言うことを聞かなきゃ死ぬって言うから……」


「離れてる間に、随分と反抗的になって、生意気な……!」


 再び手を振り上げる母親の手を、横から掴んだ者がいた。


「さすがに、通報レベルっす」


「央くん……!」


「こんなことしたら、余計に娘さんが離れてくって、わからないっすか」


 母は翔太を睨みつけ、その腕を振り払う。


「うるさい!」


 踵を返すした母は、苛立ちを抑えきれない様子で「あああああっ!」と叫びながら去っていった。

 そんな母を見送りながら、一叶はどっと疲労感に襲われていた。


「魚住、平気?」


 翔太がそばに膝をつき、一叶の腕を掴んで立たせてくれる。


「う、うん」


「なんか、首絞められたとか聞こえたんだけど……って、うわ、口の端切れてるし」


 翔太が顔を顰めながら、一叶の切れた口端の近くを軽く触った。


「その、家でひと悶着あって……まさか、職場まで追いかけてくるなんて……」


「とにかく、ここじゃ手当てできないし、霊病科に行こ」


 翔太に手を引かれ、病院へ向かう。ここに翔太がいてくれて、よかった。でなければ、ひとりでは歩くことはおろか、立つことすらできなかっただろうから。




 ロッカーに寄ってから霊病科に行くと、エリクが頬の手当てをしてくれた。

 一叶は頬に氷のうを当てながら、彼に切れた口端に軟膏を塗ってもらっている。


「まったく! うちのうおちゃん姫に、なにしてくれとんじゃい」


 向き合うように座っているエリクは、むっとしながら言った。


「ふふっ、あいたたたっ」


 エリクの口調が面白くてつい笑ってしまうと、ピリッとした痛みが口端に走る。


「くちっ、口端切れてるから気をつけて!」


 慌てた様子でエリクは言い、会議用テーブルの上にある救急箱から包帯を取り出した。


「首の痣は、すぐに消えるとは思うけど……見えると気になるだろうし、包帯巻いとくね」


「うん、ありがとう」


 今度は傷に響かないように、気をつけて笑う。


「お前の母親、いつも手が出んのか?」


 エリクの後ろで腕組みをしながら、手当てを見守っていた和佐が不機嫌そうに言った。


「ううん、滅多にないよ。これまでは、私がお母さんに逆らうことが……少なかったから」


 言い方が気に食わないとか、テストの点が悪かったとか、なにかにつけてすぐキレていたけれど、手が出るのは一叶が反論したときだけだった。


「家に帰らないほうがいいんじゃない? なんなら、うちに来たっていいんだよ?」


 エリクの気遣いは嬉しいけれど、それでは実家を逃げるように出たときと変わらない。


「ありがとう。でも、いつまでも逃げてられないから」


 そっか、とエリクは首を窄める。そのとき、京紫朗が部屋に入ってきた。


「みなさん、おはようございます」


 皆が挨拶を返すと、京紫朗が訝し気に一叶を見て、そのまま近づいてきた。


「怪我をしたんですか?」


 京紫朗は氷嚢を持つ一叶の手を掴み、軽く頬から外させて、怪我の程度を観察する。


「あ、軽いものなので……」


「いえ、お母さんとのこと、早めに手を打ったほうがいいでしょう」


 なにも話していないのに、京紫朗は母だと断定した。


「ここまで来ると、あなたの身が危ない。答えを出す時が来たんです」


 彼は一叶の手を放し、続いて首に指先で触れ、どこか励ますように告げた。


「大丈夫、あなたならできます」


 京紫朗は一叶の頭に手を乗せ、そして会議用テーブルのほうに歩いていった。


「今日は、いづみちゃんの検査結果が出る日でしたね」


「それなら、もう確認しました。特に異常はないですね」


 和佐が報告する。皆、会議用テーブルの前に立ち、定位置に着いた京紫朗を見た。


「そうでしたか」


 京紫朗は皆の顔を見回す。


「今時点では霊病と断定するものがありません。とはいえ、通常ではありえないことが起こっている。水色さんと緑色くんは検査結果と一緒に、経過観察させてほしい旨を伝えてください」


「はい」


 一叶と翔太は声を揃えて答える。


「それから、赤鬼くんと黄色くんは新患をお願いします」


 京紫朗に仕事を振られた和佐とエリクも、各々返事をした。

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