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「よお、調子はどうだ、笹沼」


 場違いな陽気な声をあげて刑事課に踏みこんできた男を、細谷真悟ほそや しんごはちらりと見て、すぐに視線を落とした。デスクに置かれた書きかけの盗犯事件の報告書にペンを添えるが、先ほどまで頭にあったくだりがどうしても思い出せない。よけいなことに意識を奪われ、すっかり失念していた。


 音とならないように注意して、口のなかに舌打ちを響かせる。邪魔立てした闖入者に苛立つと同時に、その顔に見おぼえはあるのだが誰であったか思い出せない自分自身にも苛立った。


「佐久間警部、どうしたのですか。視察の報告は受けていませんが」


 刑事課長の笹沼和史ささぬま かずしが、席を立って応対する。言葉遣いこそ丁寧だったが、声色には隠しきれない疑念がこもっていた。


 佐久間と呼ばれた男は、ほがらかに笑いかけながら応接用のソファに腰を下ろした。出っ張った腹が少し窮屈そうだ。年齢は五十代半ばといったところ、相応に貫禄もあるが、目尻の下がった顔立ちには独特な愛嬌も備わっていた。

 対面に着座した笹沼は、刑事畑一筋の堅物課長で顔つきも固い。同年代であっても対照的な年齢の重ね方をしたことは、一目で見て取れた。


「近くまで来たついでに、少し様子を見に来た。宗田の死体があがったそうだな」

「ええ、科捜研から報告がありました。宗田康司むねた やすしで間違いないようです。もしや本部案件になるのですか?」

「いや、それは……ないだろうな。こそどろの死体一つで、本部の一課が出張ることはない。引きつづきW市の警察署に任せる」


 本部という言葉で、細谷はようやく男の正体に気づく。K県警察本部、刑事部捜査一課次席だ。

 細谷は過去に一度だけ、本部捜査一課との合同捜査に参加したことある。佐久間の顔におぼえがあったのは、そのとき見た記憶が残っていたのだろう。


「宗田とは俺が所轄にいた頃、何度か遭遇している。突然消えて不思議に思っていたが、まさか殺されていたとはな」

「推定死亡時期は、だいたい十年から十五年前といったところらしいです。おかしいのは遺体が発見された離れ家が建てられたのは二十年近く前で、それから改修改築のような手入れはないということ。遺体が出てきた以上、何かあったはずなのですが、はっきりしなくて……」

「三森家の屋敷らしいな。また厄介なところから出てきやがったもんだ。死んだ後も迷惑な野郎だ」


 笹沼はしみじみと同意の吐息をもらした。家主の三森孝作は協力的であったが、K県の黒幕フィクサーと呼ばれた大人物だけに、警察側の捜査は慎重にならざるを得ない。W警察署の署長からも、捜査員は失礼がないようにと達しがあった。


「三森が関わっているということはないよな?」

「おそらくは。もし三森孝作が絡んでいるなら、自宅に遺体を隠すような馬鹿なまねはしないでしょう。もっと安全で適切な場所に、いくらでも葬れる力がある。当時離れ家を建築した業者にも話を聞きましたが、犯罪とは無縁の優良企業でした。宗田殺しに関与しているとは思えない」


 警察が配慮しなければならない状況にくわえて、事件発生時期が古いこともあり、捜査はかなり難航していた。唯一警察にとって幸運だったのは、事件がさして市民の関心を引いていないことだ。過去の窃盗犯の死を、気にとめる暇な現代人はいなかった。


 注目度の低さは、重大事件のように無駄な重圧に悩まされる心配はないが、捜査の緊張感を持続させるのが難しくなる。刑事課長の笹沼は折を見て発破をかけていたが、それだけで都合よく捜査が進展することはない。誰も決して口にしなかったが、未解決で終わりそうな気配が刑事課に漂いはじめていた。


「笹沼も、だいぶ苦労しているようだな」


 本部の捜査一課次席だけあって、佐久間は刑事課の重い空気を鋭敏に察した。状況に応じて眉間に深い皺を刻むも、目元がたるんだ顔立ちのせいか、どことなく笑っているように見えた。


「おう、お前」と、佐久間は唐突な呼びかけに転じる。「細谷だな」


 報告書から顔を上げて、細谷はわずかにうなずいた。いきなり名指しされて驚いたが、長年顔に張りついているしかめっ面が変化することはなかった。


「話は聞いてるぞ。世間の目は厳しいが、まあ、がんばりなさい。それにしても……陰気臭い顔だな。仕事中だ、笑っていろとは言わんが、もう少し気楽に構えてもいいんじゃないか」


 よけいなお世話だ――と返したかったが、「はあ」と曖昧な返事でお茶を濁す。

 佐久間は露骨にムッとして何かを言いかけたが、途中で思い直したらしく、声を発することなく唇を結んだ。おそらくは叱責を飲み込んだのだろう。


 厳格な階級社会の警察で、下の者の無礼な態度は許されることではなかった。二八歳の巡査長が、管理職の警部に不作法があってはならない。だが、階級の枠外に飛び出した者に、警察の常識を振りかざしてもらちが明かないと判断したのだろう。細谷は警察組織において、はみだし者だった。本来は、この場にとどまっていられないグレーな存在だ。


 事情をくむ笹沼が小さな咳払いをして、それとなく仕切り直すきっかけを作った。佐久間は改めて話しだすのだが、その声には若干刺々しさが混じっていた。


「お前にも言っておくが、三森の家で死体があがった以上、不当な詮索をするバカは必ず出てくる。よけいなことは何もしゃべるんじゃないぞ。たとえ元警察官と名乗る奴があらわれても、絶対に相手にはするな」

「何も言いませんよ。俺は事件の担当じゃないから、話せるようなネタもない」


 無用な注意にうんざりして、細谷は席を立った。書きかけの報告書からは、目をそらして。


「課長、盗犯のあった時計屋の聞き取りに行ってきます」

「ああ、わかった。気をつけてな」


 電話でも確認できる作業なので、気をつけるような要因はない。ただ面倒だから刑事課を離れたいだけだった。

 それをわかっていながら、笹沼はあっさりと応じてくれた。笹沼も内心佐久間を面倒に思っているのだろう。


「あいつ、本当に大丈夫か?」という佐久間の不安を背中に受けながら、刑事課部屋を足早に脱する。

 廊下に出たところで、出会い頭に女性職員とぶつかりそうなった。細谷はとっさに体をそらし、よろけながら接触をさけた。


「あ、ごめんなさ――」一瞬の硬直、女性職員は顔を伏せた。「すみません、でした」声は尻すぼみに小さくなる。

 見ない顔だ。真新しい制服を着込んでいるので、本年度採用の新人なのだろう。


 その新人さえも、細谷に狼狽している。K県警察内で、細谷の内情が知れ渡っている証拠だ。腹の底に苛立ちが噴きあがった。細谷は目をそむけ、素知らぬふりで足を踏みだした。


 いつまで、警察に居つづけるのだろうか――と、あの事件から何度も繰り返してきた自問自答が脳裏をよぎった。

 細谷は、普通の男だった。これといった夢も希望もなく元警察官の叔父に勧められるまま警察学校に入学して、平凡な成績で卒業、K県警察官として採用された。交番勤務を可もなく不可もなくこなし、出世しようという気概もなく、ただ毎日を漫然とすごしていた。


 事件が起きたのは、警察官となって六年目、細谷二五歳のときだ。

 交番勤務中に傷害事件発生と通報があり、後輩警官の小椋陽太おぐら ようたを連れて出動した細谷は、刃物を持って暴れる男と対峙。身の危険を感じた細谷は無力化するために発砲し、結果として殺害してしまう。


 この事件はすぐさまマスコミに取り上げられ、一部の識者から痛烈に批判された。警察庁は決まり文句の「発砲は適切な判断であった」と擁護する発表をしたが、それはあくまで表向きのアナウンス、警察内部での細谷の立場はきわめて難しい状況にあった。

 正当防衛であり、警察官職務執行法に照らして問題なしと判定がくだされても、悪印象はくつがえらない。細谷は観念して辞表を提出する。


 しかし、スマホで撮影されていた発砲場面がネットで拡散されたことによって旗色が変わる。狂暴な暴漢の対処に、発砲はやむを得なかったという意見が多数寄せられたのだ。相手が薬物中毒者であったことも少なからず関係しているだろう。


 世間の風潮を感じ取った警察庁は、時を置かず細谷の辞表を受理することは尻尾切りと見なされて警察批判に発展しかねないと危惧し、ひとまず退職を慰留して一年間の休職措置をとった。

 そうして、細谷は一年後に復職。相変わらず腫れ物扱いであったが、警視庁の意向で退職は認められず、K県警察は困り果てる。宙ぶらりんの細谷の処遇に苦慮し、決断できずにいたとき、引き取り先として手をあげたのがW警察署の刑事課長だった笹沼だ。


 笹沼に拾われた形となった細谷は、以降刑事課の刑事として二年間勤めている。署内で疎外されていても、刑事課に配属されてすぐに辞表を提出していたので、あまり気にはならなかった。文句は辞めさせない警察庁に言ってくれ、こっちはいつ辞めてもいいんだ――という心持ちが、やさぐれた精神を支えてくれたのかもしれない。


 はみだし者の生き方に疑問を持つこともあるが、いまは目の前の仕事をこなしていくなかった。たとえ白い目で見られても、まだ細谷は警察官なのだから。


「あつ……」


 警察署の裏口から外に出ると、痛いほどに鋭い日射しが降りかかってきた。一歩踏み出すだけで、背中に汗がにじみ出すのを感じる。細谷は息苦しいネクタイを緩めながら、恨めしそうに頭上の太陽をにらんだ。

 まだ初夏に入ったばかりだというのに、町はすっかり夏色に染めあげられていた。今年も、暑くなりそうだ。細谷はうんざりして、ため息をもらす。


 ポケットをまさぐってキーを探しながら、署と隣接した駐車場に入る。所属警察官用の駐車スペースに、愛車の軽自動車が停めてあった。従兄にただ同然で譲ってもらった古い車で、時折調子が悪くなることもあるが、安月給の警察官にこれ以上は望めない。

 リモコンキーのボタンを押して開錠、ドアにふれたとき――ふいに声をかけられた。


「やあ、ちょっといいか」


 いったいどこに潜んでいたのか、突然あらわれた男にギョッとする。まだ老人と呼ぶには幾分早そうな年代に見えるが、頭髪はほとんど黒から白に置き換わっていた。


「あんた、ここの警察官だよな。いや、ただの警察官じゃないな……」


 意味深な発言のあと、男はニヤニヤと笑った。値踏みするような視線が顔から足下に落ち、満足したのか鼻の穴がふくらむ。


「知ってるぞ、確か細谷とか言ったか。発砲事件の警官だ」

「誰だ、おっさん」

「おっと、警戒しないでくれ。別にお前さんのことでどうこうしようってわけじゃない、ちょっと話が聞きたいだけだ。怪しいもんじゃない」


 ふと脳裏に佐久間の言葉がよみがえった。まったくの無関係な話と思っていたが、それは現実となって細谷の前にあらわれた。


「安心しろ、俺は元警官だ。三森の屋敷で宗田の死体が出たそうだな、くわしいことが知りたい」

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