第10話 元カノ

 夕方の時間になって、姫乃と二人で俺のバイト先に向かうことになった。


 駅に向かう途中の交差点、鈴生りの通行人が青信号になるのを待っていた。

 赤から青になった瞬間、一台の車が猛スピードで、目の前を横切って行った。

 ほとんど信号無視に近かったのかも知れない。


「あぶねえなあ」


 通行人が口々にそう呟きながら、車道へと足を進めた。

 そんな中、


「どうした、姫乃?」

「う、うん……」


 姫乃がその場に立ち止まって動かない。


「姫乃?」

「……大丈夫。何でもない」


 その場で三、四回深い呼吸を繰り返してから、姫乃は右足を前に、次にゆっくり左足を進めた。


「もしかして、今の車が怖かったのか?」

「……少し」

「ま、確かに、さっきのは危なかったけどな。手、引いてやろうか?」

「いいわよ、別に。ばか」


 少し落ち着いたのか、姫乃は拗ねた顔をしながら、スタスタと前の方へ歩いて行った。


 週末の夕方ということで、多くの乗降客や、駅ビルでショッピングや食事を楽しむ人々で賑わう中、目指す電車のホームを目指した。


「あー、あのラーメン屋、美味そうだなあ」

「あなたのバイトのために急いでんでしょ? さ、行くわよ」


 いろんな誘惑がある中、姫乃に叱咤激励されながら、通路を進んで行く。

 改札を抜けて階段を昇り、電車が来るのを待って。


 到着した電車の中もホームもすごい人だかりだ。

 若干酔いそうになりながら、何とか車内へと滑りこんだ。


 電車が揺れて鼻先に姫乃の髪の毛が近づくと、甘い香りが流れ込んでくる。

 それはそれで心地よいのだが、あっちこっちから人にぶつかられて、居心地はよくない。

 早く着くかないかと祈っていると、すぐ目の前で姫乃が俺を見上げて、


「こうやって見ると、陣って結構大きいのね」

「そうかな。175センチだから、普通くらいと思うけど」

「よく見ると、結構肉づきもいいよね」


 そう言って、俺の胸もとを、指でつんつんとつついてくる。


「おい、くすぐったいんだけど」

「やっぱ筋肉質だね。こんな筋肉あったら、私ももっと踊れたのかなあ」

「あんまオススメはしないけどね。こんなのあったら、全然女の子っぽくないし」

「あら、アスリートの女の人だったら、こんな感じで綺麗な人、いっぱいるわよ?」

「まあそうだけどさ、俺は今の姫乃が推しだから、あんま変わって欲しくはないけどな」

「ふーん……」


 なんだか満更でも無さげな、意地悪っぽい笑みを浮かべて、こっちを見返してくる。


 電車を降りて、また次の電車へ。

 バイト先へと続く道を歩みながら、


「今日って、サッカーの試合、あったっけ?」

「うん。アウェーだから遠くでだけど、多分テレビ中継はされると思うよ」


 洋食屋Tanyはスポーツチャンネルに加入していて、大抵の試合は、観ることができるのだ。

 サッカーが無い時や、他のスポーツで大会とかをやっていると、それらの映像が流されることもある。

 そこの常連さん達も、番組と美食と酒を目当てに、夜な夜な集まる。


 店のドアを開けると、おかみさんが何人かを接客中だった。


「あら、陣君に姫乃さん、いらっしゃい」

「どうも、おつかれっす」

「こんばんはあ!」


 姫乃をカウンター席に座らせ、俺は早速着替えて厨房へ。

 マスターがスポーツ新聞に目をやりながら、「今日勝てば上位だよなあ」と嘯いていた。


「陣君、エビフライお願い!」

「はい!」


 恐らく姫乃が注文したものだろう。

 有頭の大きなエビ2匹に衣を付けて、油の中へ投じる。

 その間に皿に野菜やポテトを盛り付けて、いい加減を見計らって油から出して皿の上へ。

 最後に、特製タルタルソースを、たっぷりと添える。


 自ら皿を持ってカウンターへ出ると、姫乃がジュースを片手に、目を輝かせながら待っていた。

 おかみさんが、ライスとスープをすっと差し出し。


「はい、おまちどお」

「ありがとう。頂きまあす!」


 早速、海老を真ん中から切り分けて、かぶりつく姫乃。

 何とも幸せそうに食べるものだと嬉しく見とれていると、厨房からマスターの声が。


「陣君、まかない食はチャーハンでいいか?」

「あ、はい。ありがとうございます!」

「えっ!? ここ、チャーハンもあるの?」


 姫乃が眉をぴくりとさせて、こちらに視線を送ってくる。


「えっと、メニューにはないんだけど、マスターが作ってくれるまかないチャーハンが、絶品なんだよ」

「ふうん……」


 何かを訴えてくる眼差しを受けて、


「良かったら、食べてみる?」

「うん!」


 その日の具材によって多少色合いは違うが、肉や野菜の切れ端がたっぷり入った小金色のチャーハンが、皿に山盛りで出来上がった。

 それをマスターから受け取って、


「はい、どうぞ」

「わーい、いただきまあす! わっ、めっちゃ美味しい!!」


 出来立て熱々のチャーハンを口に運んだ姫乃が、満面の笑みを浮かべる。

 俺はカウンター越しにスプーンを伸ばして、ご相伴に預かる。


 そんなやり取りをしていると、店先のドアが開いて、お客が入ってきた。

 若い女の子だ。


 一人か、めずらしいな。


 仕事帰りとかの女性のお一人様はよく見かけるけれど、姫乃と同い年くらいの女の子一人は、そんなに見かけない。

 大抵彼氏とか、家族連れで来ることが多いからだ。


 その子が姫乃から1つ席を空けて道路寄りに腰掛けてから、俺は違和感に気づいた。


「いらっしゃいませ」


 おかみさんが和やかに応じる。


「あの、クリームコロッケ、ありますか? あと、ウーロン茶で」

「はい、ございますよ。クリームコロッケ一つ!」

「はい……」


 おかみさんのオーダーを聞いて厨房へ向かおうとすると、鈴が鳴るような声がした。


「陣、久しぶりね……」


 腰まであるサラサラの黒髪が、色白で清楚な顔立ちによく似合う。

 長い睫毛に口角が上がった赤い唇、見ていると吸い込まれそうになる大きな瞳孔をもった二重の両目が、優しい光を湛えている。

 青色を基調にしたワンピースと肩から掛けられた小物がよく合っていて、センスの良さを感じさせる。


 どこから見ても、激レアな清楚系美少女。


 その子が、俺の名前を呼んだのだ。


「……ああ、そうだな」


 俺は振り返らずにそのまま厨房に向かい、調理を始めた。


 出来上がった皿を片手にカウンターへ出ると、その子は静かにほほ笑んでいて、姫乃はきょとんとして、箸を咥えながら、目線を俺と彼女との間で泳がせていた。


「おまちどお」


 彼女の前に皿と置くと、目を瞑って香りを嗅いでから、タルタルと一緒にひとかけを口に入れた。


「相変わらず美味しい……」


 ライスと交互に口に運びながら、幸せそうな表情を浮かべ。


「変わってないね、陣」

「……お前もな、麗華」


 相手は客なので平静を装いながら応じたが、内心では無茶苦茶動揺していた。


 彼女は、一年ほど前に付き合っていた元カノだったのだ。




  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る