4.星空色の絵

 リジンが広げた絵を見たロティアは、フフランが描いた夜空色のハトのことを思い出した。

 リジン・キューレの絵は、フフランの絵と同じ、夜空色一色で描かれていたのだ。しかしよく見ると、リジンの絵の夜空色のインクは、星が混じったようにキラキラと光っている。

 これは夜空色というより星空色ね、とロティアは思った。

 その星空色のインクの濃淡、線の太さの違いやかすれだけで描かれているのは、動物のからくり人形がついた巨大な時計塔の絵だ。

 細長い雫のような形の針はちょうど十二時を示し、クマとウサギとリスのからくり人形が楽しげに踊る様子が描かれている。

 塔も影もすべて同じ色で描かれているが、人形も煉瓦の一つもすべてが手を抜かずに描かれているため、奥行きはきちんと感じられた。


 今は色彩豊かな絵が流行だ。都会の美術館には、十色以上の色を使った鮮やかで目を引く作品が多く飾られている。ロティア自身も多色使いされた絵が好きだ。

 しかしリジンの絵を見ていると、多色だけが絵の魅力ではないことに気づかされた。

 むしろ色がないおかげで、見る人それぞれが自由に景色を想像できて面白いと思ったのだ。


「……すごく素敵な絵ですね」

 ロティアが絵を見つめながらじっくりとそう言うと、リジンは「そう」とだけ答えた。その声は優しい響きを含んでいる。

「本当に、消さなきゃならないんですか?」

 そう言って絵からリジン・キューレに目を移したロティアは、ギクリとした。

 眠たげだったリジン・キューレの群青色の目が、ロティアを睨みつけているのだ。これまでとは違う、目だけで人を黙らせるような凄みのある目だ。

「……依頼人の仕事にケチをつけるの、ロティア・チッツェルダイマー殿は」

「い、いえ。ごめんなさい。もう言いません」

 ロティアは慌てて目をそらし、もう一度絵を見た。

 絵の大きさは長辺が一メートルはある大きなものだ。書き込みもかなり多く、細かい。肩にとまっているフフランが「時間がかかりそうだ」とつぶやいた。

「……この絵ですと、少なくとも三時間はかかると思います」

「いくらかかってもいいから、確実に消して」

 リジン・キューレはロティアに絵を押し付けると、ギィギィと軋む階段を上って、三階のドアの向こうに消えていった。バンッと音を立ててドアが閉まると、ふたりはビクッと震え上がった。

「……怒らせちゃった」

「褒められるのが嫌いなのか、あの絵は失敗作なのか、はたまた気分屋か」

「いや、今のはわたしが悪いよ。離婚届の名前を失敗した人に『本当に取り出して良いんですか?』って聞くようなものじゃない」

 紙を強く握りしめないように気を付けながら、ロティアははーっと長いため息をついた。

 あまりに素敵な絵だったものから、つい依頼人としてではなく画家として接してしまった。

 最初からこんな失敗して、信頼を失ったらどうしよう。

 ロティアが情けなさと不甲斐なさに唇をかみしめると、フフランの温かいお尻が頭の上に乗った。

「仕事で取り返せば良いさ! うまくやれそうだろ、ロティア?」

「……絵は、これまでも何度か取り出したことがあるから、大丈夫だと思うけど」

 改めてじっくりと絵を見つめた。

 最初はロティアの魔法で取り出せるのは、紙に書かれた文字のインクだけだと思っていた。しかし、フフランと共に研究や練習をこなしていくと、ペンで使われるインクだけでなく、絵の具やペンキも取り出すことができるということがわかったのだ。

「何色も色が使われてる絵は、一色一色を剥がす感じだったけど、この絵は一色だけだから、文字をなぞって取り出すときに近い感じかな」

「なるほど。この細かさは骨が折れるな。でもロティアならやれるってオイラは知ってるぜ」

「……信頼を失ったなら、仕事で取り返すしかないもんね。よしっ、リジンさんに喜んでいただけるようにがんばるぞ!」

「その意気だ! 応援してるぞ!」






 仕事部屋に用意された三つの椅子のうち、一番具合が良いのは、一枚板でできたような愛想のない椅子だった。少々固いが、姿勢がピンとして楽だった。

 椅子が決まると、ロティアはさっそく仕事にとりかかった。

 右の手元にインク瓶を置いて、絵の左上から順に線をなぞり始める。すると、杖がつまずくようにはねた。

「あれっ? なんか、杖の滑りが悪い?」

 ロティアはすぐに杖の先を見た。いつも通り、ヤスリできれいに磨いてある杖に変わりはない。

 そこでロティアは、絵のインクを指でなぞってみた。すると、ふつうのインクでは感じられない、ザリザリとした触感がほんのり感じられた。

「どうした、ロティア?」

「特別なインクを使って描かれた絵みたいで、いつもよりなぞるのが難しいの。ちょっと抵抗感があって、滑りが悪い感じ」

「なるほど。見た目じゃわかんなかったな」

「うん。紙を再利用されたいってことだから、ムキになって強くなぞって破かないように注意しないとね」

 文字は筆記体で書かれていることが多いため、一本の長い線のように取り出せるが、絵となると部品ごとに取り出す必要がある。文字よりも複雑に絡み合う線、しかも慣れないインクをなぞるのは難しく、手がプルプルと震えた。

 時計塔の他にも、空に浮かぶ雲や日光を現す線が引かれている。それも一つ一つ丁寧になぞり、瓶の中に入れていく。

 普段使わない筋肉と神経を使っているのか、すぐに疲れてしまい、息をつかなければならなかった。

 ロティアの疲れに敏感に気が付くフフランは、時々ロティアの頬を羽根の先でなでて、休むように言った。

「ロティアー、キッチンに行って、水の一杯でももらってこないかー?」

「うーん、あとここだけ」

 そんな会話を四度も繰り返すと、とうとうしびれを切らしたフフランが、ロティアの髪をくちばしで挟んでグイーッと引っ張った。それに合わせて、ロティアの顔がグイーッと持ち上がる。

「いい加減休もう、ロティア! もう一時間以上経ったぞ!」

「……えっ、一時間?」

 壁にかけられた銀色の時計を見ると、確かにこの部屋に入った時から短い針が数字一つ分動いている。ロティアの体感と仕事の進み具合では、まだ二十分程度だ。

「ご、ごめん、フフラン。のど乾いたよね」

 ロティアが杖を置いて立ち上がると、フフランはロティアの顔の高さで宙に停滞した。

「オイラのことは良いんだよ。ほら、行くぞう」

「うー、ごめんね、めんどうかけて」

 フフランはロティアのワンピースの袖をくちばしで掴み、グイグイとドアの方に引っ張っていく。ロティアもそれに合わせて歩き出した。




 一階のキッチンは、白い磁器と銀食器がきれいに整頓して食器棚に収納され、鍋やフライパンはすべて壁にかけてあった。

 水道には手押しポンプが二つあり、一つからは冷たい水が、もう一つからは温かい水が出てきた。

 三口コンロに、オーブン、旧式の魔法動力冷蔵庫もあり、キッチンとしては快適な空間だ。食事をするためのテーブルとイスもある。

 ロティアはマグカップを一つと、浅い皿を一つ借りて、それぞれにたっぷり水を入れると、椅子に腰をおろして、水を飲んだ。

 冷たくて柔らかい水が体の中を駆け巡ると、ロティアは自分が疲れていることにようやく気がついた。

 コップを置いてググッと伸びをする。肩の骨がパキパキと鳴った。

「ふふっ、おばあちゃんみたい」

「それだけがんばってるってことだろう」

 フフランは「えらいな」と言って、ロティアの頭にバランスを取ってとまった。

 体を反らしたことで、壁にかけられた時計が目に飛び込んてきた。銀色の針は、午後の三時の少し前を示している。

「うーん。想像よりも時間がかかってるなあ。夕食までに帰るのは、難しいかな」

「今が三時だから、あと二時間かけて絵を取り出したら、五時だろう。それで、ここから局までは四時間かかるから……」

 フフランは皿の水を飲みながら頭をひねった。

「早くて九時ってことかあ。うー、寮母さんからバレて、お母様が怒るかな……」

 ロティアはグイッと水を飲み干すと、もう一杯注いでグッと飲んだ。

「悩んでる時間がもったいないね! ササッと終わらせよう!」

「そうだな! がんばれ、ロティア!」


 部屋に戻ると、ロティアはすぐに椅子に座って、作業台の上に置いて行った紙の左半分がまっさらに消えている絵を見た。

 時計塔も空も煉瓦道もからくりも、きれいに半分が無くなっている。よくぞここまでやったな、と誇らしい気持ちになる。

 しかし同時に、何か、モヤモヤした気持ちが込み上げてきた。達成感を太陽に例えるならば、それを覆ってしまう雲のような気持ちだ。

 ロティアは絵を手に取って、ジッと見つめた。

「……白色って、きれいなものだって思ってたけど」

「けど?」とフフラン。

「……さっきまであったものが無くなってできた白色は、さみしいね」

 せっかく素敵な絵だったのに。

 ロティアが肩を落とすと、肩の上に柔らかい温かみが乗った。フフランだ。

「確かに、消すのがもったいないくらい良い絵だったな」

「……うん」

 ロティアはいつもより少しだけ重たく感じる杖を持って、絵をなぞり始めた。






 紙からインクの線が一つもなくなると、ロティアは「はあっ!」と大きく息を吐きだして、バッと顔を上げた。

「終わりだな、ロティア!」

「……はあ、うん。お、終わったね」

 フフランは上からまっさらになった紙をじっくりと見て、「完璧だっ」と満足げに言った。

 ロティアは固い背もたれに背を預け、時計を見た。時刻は夜の六時。想像していたよりは時間がかかってしまった。

 ロティアは動けばきしみそうな体を何とか動かし、椅子から立ち上がった。

「……よしっ、これで良いか見せに行こう」

 まっさらになった紙を持って部屋を出て瞬間、ロティアは「あっ!」と声を上げた。隣を飛んでいたフフランは少し先まで飛んでいき、クルッと旋回して戻って来る。

「どうした、ロティア?」

「どうやってリジンさんを呼べばいいんだろう。三階は行っちゃダメなんだよね」

「あ、そうか。階段下から叫んでみるか?」

 その時、リジン・キューレが階段から降りてきた。

「終わった?」

「あ、はい。思ったより時間がかかって、すみませんでした」

 ロティアはリジン・キューレに駆け寄り、まっさらの紙を差し出した。

 紙を受け取ったリジン・キューレは、口をきゅっと結んで紙をじっくりと見た。その目はどこか悲し気に見え、ロティアは心が痛んだ。

 やっぱり消したくなかったんじゃないだろうか、と思わずにはいられなかった。

「……助かったよ、ありがとう」

「い、いえ。今後も、このような出来上がりになると思います。あ、わたしの魔法は、インクを取り出すだけじゃなく、なぞることで、紙のペン先の食い込みも多少修復することができるんです」

「知ってる。だから、君に依頼したんだ」

 ロティアは「そうですか……」とつぶやいた。

「お疲れさま。今日はこれで帰ってもらってかまわないよ」

「わかりました。明日改めて、荷物を持って来ます」

「うん。……ところで、そのハトは夜目が利くの?」

 想像もしていなかった質問に、ロティアとフフランは「へっ?」と間の抜けた声を上げた。

「この辺りは街灯が少ないから」

 そう言うと、リジン・キューレは、壁にあつらえられたカンテラを取り外し、火を大きく調節してからロティアに差し出した。

「明日返してくれれば良いよ」

「え、あ、お借りして良いんですか?」

 リジン・キューレは何も答えずにロティアにカンテラを押し付けると、脇に紙を挟んで一階に降りて行った。


 ロティアとフフランが仕事部屋にカバンとコートを取りに戻ると、窓の外はまだ明るかった。

「七月の六時なんて、カンテラが必要になるほど暗くないのにね」

 銀色の枠の中におさめられた火は赤々と燃えている。

「まあ、向こうに着くころには真っ暗だろうから、借りておくか」

「そうだね。明日忘れずに持ってこないと」


 部屋を出ると、リジン・キューレは律儀に玄関のドアを開けて待っていた。

「お待たせして、すみませんでした。それでは、また明日」

「明日、できるだけ早い汽車で来てもらえる? すぐに仕事を頼むことになるかもしれないから」

「わかりました」

 ロティアが「さようなら」と言って手を振ると、リジン・キューレは右手をひらっと降ってドアを閉めた。カチャンと鍵が閉まる音がする。

「……なんだか、よくわからない人だったね、リジン・キューレさん」

「そうだな。あんな顔するなら、絵を取っておけば良いのにな」

「うんー……」

 ロティアはさっき一瞬感じた達成感が、今では針の穴ほど小さくなっていることに気がついた。

 依頼人にあんな顔をされる仕事など、ロティアのしたかった仕事ではない。

 しかし依頼人の望みは叶えている。仕事として間違っているわけではない。

「こういう仕事にも、慣れなきゃいけないのかな」

「嫌だと思っては良いと思うぞ。それがロティアの良さだからな」

 フフランはロティアの肩にとまって、ほほに丸い頭を摺り寄せてきた。ロティアが落ち込んでいると必ずしてくれる励ましだ。フフランの優しい温もりを感じると、ロティアは少し笑って、「ありがとう、フフラン」と答えた。

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