冬の灯火

惣山沙樹

01

 繰り返し夢に見るのは、兄と面倒を見たあの猫で、弱っていく身体を抱き締め俺はすすり泣く。今なら他にやり方があったんじゃないかと思うのだが、二人ともまだ小学生だったし、毎日空地を訪れてはソーセージを差し出すことしか考えつかなかったのだ。

 死んだのを確認して兄と埋めた。あの空地には数年後に一軒家が建った。兄ももう、猫のことなど覚えていないのかもしれなかった。

 俺と違って、優秀な成績で高校を出て、名の通った大学を出た兄は、大きな企業に就職した。それで実家を出て行ったのだが、五年が経ち病気で戻ってきた。元々細かった兄はさらに痩せていて、父も母もとにかく食べさせようとしたが、食事にはほとんど手をつけなかった。


「おはようゆうくん。おにぎりだけでもいいから食べなよ」


 俺は食事を乗せたトレイを持って兄の部屋の扉を開けた。兄はベッドの上にいて、背中を向けていた。肩まで伸びた黒髪が見えた。


「お腹、すいてない……」

「食べなきゃ薬も飲めないでしょ。一口だけでもかじって」


 少々強引だが、俺は一旦トレイをテーブルの上に置き、兄を仰向けにさせた。兄は濁った目で俺のことを睨んできた。


「やめてよてつ

「昼夜逆転してるし。ちゃんと夜に寝ないとダメだって医者からも言われたんじゃなかった?」

「わかった、わかったよ」


 兄はのっそりと上半身を起こした。僕はおにぎりを持って行って手渡した。兄は本当に一口しか食べなかった。薬も持ってきていたので、お茶と一緒に飲ませた。今日は土曜日で、俺の仕事は休みだった。


「佑くん、最近お風呂入ってる?」

「しんどい……」

「冬とはいえ汗はかくでしょ。俺が流してあげるから。さっ、立って」


 兄の腕を掴み、引っ張った。観念したのか、兄はベッドから出てきてくれた。脱衣所で兄を脱がせた。僕も脱いだ。兄の身体は骨が浮き出ていて、このままでは本当に死んでしまう。あの猫のように。


「ふぅ……お湯になったかな」


 俺は兄にシャワーをかけた。兄はだらりと両腕をおろして座ったままだった。まずはシャンプーから。髪はぐちゃぐちゃに絡まっていて、解くのに苦労した。ボディーソープをつけて、優しく全身につけた。最後は顔。他人のヒゲを剃るのは難しかったが、なんとか肌を傷つけずに済んだ。


「流すよ」

「うん……」


 兄は終始されるがままだった。俺の手を引いて草むらを駆けていた、あの頃の兄はもうどこにもいない。就職なんてもうしなくていいから、とにかく生きていてほしかった。


「出て、佑くん」


 バスタオルで兄を拭いた。俺と兄の身長は同じくらいだ。けれど、げっそりしている分兄は小さく見えた。厚手のスウェットを着せて、兄の部屋に戻った。兄はベッドに座って呟いた。


「タバコ……」

「はいはい。それは吸うんだね」


 兄に一本渡して火をつけてやり、俺も兄の隣で吸った。兄はだんまりだ。深く煙を吸い込む音だけが聞こえていた。灰皿に吸い殻を押し付けて、兄は横になった。


「佑くん、寝るの? もう少し起きていようよ。夜寝られなくなるよ」

「風呂入って、疲れた……」


 俺はため息をついた。実家に帰ってきてから、ずっとこの調子だ。両親は、兄には大きな期待をかけていたから、退職したという知らせを受けた時は悲しんでいた。俺だって、あの賢くて強かった兄がこんな風になってしまったのはショックだった。会社で何があったのかは知らない。聞かない方がいいと思ったのだ。

 しばらくして、寝息が聞こえてきた。俺は兄の白い頬をそっと触った。ガキの頃は、二人で毎日プールに行って日焼けしていたのに。もうあの頃には戻れない。新しい形を作っていく必要があった。

 俺はリビングに行った。両親はニュースを見ていた。母が尋ねてきた。


「佑、どうしてる?」

「寝ちゃった。多分夜中起きてたんだと思う」

「哲にも苦労かけるね」

「……家族だし。できるだけのことはするよ」


 実家にはいたくなかった。俺は最低限の荷物をダウンジャケットのポケットに詰め込み、あてもなく近所を歩いた。郊外の住宅地だ。駅前まで行かないと店はない。けれど、そちらの方には行く気がしなくて、遊具のない小さな公園にきた。自動販売機で缶コーヒーを買って、ベンチに座って飲んだ。

 もう半年。いや、やっと半年か。ボロボロの兄が帰ってきてから。俺も両親も病気については本で勉強した。ネットで調べることもした。長い戦いになるとはわかっていたのだが、いざその渦中にいるというのは、疲れるものだ。

 コーヒーを飲み干し、缶を灰皿代わりにしてタバコを吸った。乾ききった冷たい風が俺の顔に吹き付けた。暖かい季節になれば、兄も良くなるだろうか。けれども、冬はまだ長い。それまでに衰弱されてはたまらない。やっぱり話をしよう。そう決意して立ち上がった。

 帰宅すると、母が焼きそばを作っていた。父と一緒にそれを食べた。兄の分も用意された。


「俺が持って行くよ」


 トレイに少しだけ盛られた焼きそばを乗せ、兄の部屋に行った。兄はまだ、眠っていた。

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