(10)

 翌日から様子がおかしくなったと言うなら、それは三井の方だった。目は虚ろで何事にもびくびくと怯え、見るからに焦燥していた。身だしなみも悪く、髪が整っていなかったり、プレスのかかってないシャツやスーツを着てくるようになった。

「三井先生、なんと言うか……ずいぶんお疲れのご様子ですが。ちゃんとお休みになられてますか。」

「疲れ……? い、いつも通りです、何も変わっていないじゃないですか。普通にやれてますよ私は。」

 望月が心配して声をかけても、猜疑心ばかりが先立つ。

「(なんだ? 俺の様子がどうだって言うんだ? 何か知ってるのか……?)」

 時間が経つにつれて己のしでかしたことの重大さに慄く。

「(き、気付かれてるはずない……大丈夫だ、あれだけ念を押したし……)」

 あの夜、徹底して繰り返した脅迫を信じて身体を震わせる。

「(本当に大丈夫か? 二回目なんだぞ。初めての時だってちゃんと告訴できたんだ。まして二回目なら躊躇なんかしないんじゃないか? ……でも最初のは動画は撮ってなかったはずだ。これをバラまかれるって話なら全然状況が違うだろ……いや、でも……)」

 思考は堂々巡りするばかりだ。

 この時にも、あの角の先、あの壁の一枚向こうに令状を携えた警官が来ているのではないか。それは今か、今ではないなら明日か。一秒先の未来を考えては気が気でない。登下校は交番の前を避けた道を使うようになった。

 三井の変容は生徒の間でも騒々そうぞうと噂になった。目に隈ができ、眼差しからは優しさと爽やかさが消え、生徒たちをギョロギョロと睨むようになった。それでいて視線が合いそうになると目を逸らした。

 朝のHRまで少しという時間。結衣と葵の話題はやはり三井に関してだ。そのあまりの豹変ぶりに結衣は首をかしげる。

「タツ君どうしちゃったんだろうね……なんていうか、格好良くないどころかちょっとキモいよ……。」

「ウツとか、そういうの? 教師の人手不足とか過重勤務とかよく聞くよね。」

「香澄、クラス委員でしょ。職員室なんか変な感じとかある?」

 と、職員室へ出入りする機会の多い香澄に話題を振るが、静かに首を振る。

「……知らない。」

 やがて教室に三井がやってくる。生徒たちは各々の席について、日直が起立と礼の号令をかける。普段通りの朝のルーティン。ただ今朝は様子が違った。

 三井のほかに学年主任の望月と、見慣れない生徒が一人入って来た。誰だ? 一瞬クラスがざわつくが、すぐに察しがつく。転校生ではない。小林悠真だ。不登校の、顔も知らないクラスメイトがついにやって来たのだ。

 小林の容姿を見て好意的な第一印象を得る者はいないだろう。だらしなく太っており、上背も高いため巨漢の威圧感がある。伸びた髪を雑に後ろでくくり、清潔感は全く感じられない。何よりその鋭い眼光があまりに敵対的すぎる。クラスを見回すその目は今にも襲い掛かってこんばかりだ。

 望月が小林に自己紹介を促す。

「……小林悠真。」

 喋ったのはそれだけだった。望月は「仲良くしてやってくれ」と付け加えたが、それは難しいだろうとクラスの誰もが思った。

 クラスに困惑の空気が流れる中、香澄はぼんやりとした目で小林を眺めていた。ふと、小林の鷹のような目がギラリと香澄を凝視した。ような気がした。

 かくして香澄のクラスは多くの問題を一手に抱えこむ形になった。トラウマを抱えているであろう性被害者。暴力沙汰を起こしてもおかしくない不登校児。そして何よりも、それらを監督するべき担任の異常だ。

 職員室へ戻る道すがら望月は三井に言う。

「小林のことは、私の方で全て引き受けます。三井先生は、他の生徒のことに専念して下さい。」

 しかし三井の返答はやはり不可解だ。

「ほ、他の? せ、専念って、だ、誰にですか?」

「誰……ということはないですよ。クラスの生徒みんなです。」

 望月は頭を叩きながら答える。なんという状態だ。ついこの間まで献身的で優秀な教師だったのに。一体全体どうしてしまったのだ。

 小林が復帰するには、よりにもよって最悪のタイミングだ。小林家に足しげく通いついに小林から登校する約束をとりつけたまでは良かったが、それは「じゃぁ明日から」という急な話だった。三井や他の教師に相談する間もなかった。明らかに今の三井には荷が重い。しかし、小林が何を思ったのかは分からないが、この機を逃せば再び引きこもってしまうかもしれない。望月に選択肢はなかった。

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