(2)
「香澄はさぁ、タツ君とかどう思う?」
昼休み、香澄は机を合わせて級友二人と弁当を広げていた。そのうち髪が短くそばかすの浮いた女子が香澄に話を振って来た。
「三井先生? どう思うって?」
彼女の言わんとするところは分かっていたが、香澄はあえてとぼけて見せる。
タツ君とは香澄らのクラスの担任である
「どう思うって、どう思うかって聞いてるのよォ。やっぱイイよねぇ、まず顔がいいし優しいし背高いし顔がいいし服のセンスいいしもう絵に描いたイケメンって感じで! しかもちゃんと独身! 超優良物件! タツ君が担任とかウチら超ラッキーじゃん。」
「うーん、どうかな。顔はいいよね。」
香澄は曖昧な笑顔を浮かべていると、その隣からもう一人の、分厚い眼鏡をかけた方が会話に入ってくる。
「買えない物件に優良も事故もないでしょ。顔がいい2回言ってるし。」
「だって実際顔がいいんだもん!」
香澄の前で姦しくはしゃぐ二人。髪の短い方が
二人は入学式のその日にできた香澄の友人だ。明るい性格の結衣と物怖じしない葵の二人から早々に声をかけられたのは、真っ当に人と接することができなくなっていた香澄にとって僥倖であったと言える。あるいは、中学に上がるタイミングで転居してきたという話の、小学校時代からの友人がいないであろう香澄を慮ったのかもしれない。すっかり口数の少なくなった香澄も彼女らとなら無理なく過ごすことができた。
「香澄的にもタツ君ナシなの? じゃなければ誰がいいのよォ。」
迫る結衣に、じゃぁと香澄は答える。
「
「うげ、モチ!?」
「なんで?」
五十過ぎででっぷりと肥えたビール腹と禿頭が特徴の、全教師の中でも最も人気のない人物を香澄が挙げたことに半ば悲鳴のような声を出す結衣。心底不思議そうに問う葵。
「でもほら、望月先生って結婚してるでしょ。」
「え!? うそ! 香澄ってばそんな感じ!? そういうのに燃えちゃう系!?」
「い、いけないわ香澄! でも嫌いじゃないわ!」
香澄の回答に一瞬テンションを上げる二人。しかし香澄がそこに続けて、
「安全でしょ。」
と言うと、一気にぐったりとしぼんで沈みこんでしまう。
「葵ィ……この子このままだと駄目だよ、枯れちゃってるよ。」
「私たちがなんとかしないと。導いてあげないといけないわ。」
からかわれてるのか、大事にされているのか、たぶんその中間のような視線を交わしながら二人の友人は肩をすくめた。
「でもウチはやっぱり、タツ君だなァ~。」
なおもこの話題に食い下がる結衣。「だめだめ。」と葵が手を振る。
「タツ君の何がダメなのよ?」
「よく考えてごらんなさいよ。タツ君は今年でもう26歳よ。私たちとの歳の差じつに2倍。ありえない年齢差だわ。」
葵がズレてもいない眼鏡をわざわざ直すしぐさをしながら言う。彼女はやや芝居がかったような話し方をする。対する結衣もオーバーアクションなところがあり、胸元に手でハートマークを作りながら言い返す。
「そんなのはー、愛があればー、1秒ほどの差にもならないんですー。」
彼女たちのする“恋バナ”は自分勝手で荒唐無稽、まず全くの現実味がなかった。香澄はそんな二人の会話を、夢の向こうの出来事のように受け流すことができた。
しかし、
「そういう話じゃないわよ。いい? 16歳未満の子どもに手を出すとね、合意だとしても強姦扱いになっちゃうのよ。」
葵の言葉がギクリと香澄に刺さる。肩を強張らせる香澄。そんな香澄の様子に気付かず、結衣と葵の会話は続く。
「え、そうなの!? 愛し合っててもレイプなの??」
「それはそうよ、だって13歳の中学生に手を出そうなんてソイツごりごりのロリコンよ。そんなのまともな恋愛なワケないじゃない。」
「うわー、それは……い、いっぺんに気持ち悪くなっちゃったなァ。ロリコンだったのかタツ君……」
「いや、仮にわたしらに手を出したら、の場合の話であって。なんでアンタさっきからタツ君が自分に手を出してくる前提で……あれ、香澄、大丈夫?」
そこで葵が香澄の様子に気付く。うつむいて箸も止まって、口を押えている。しかしそれも一瞬のことで、すぐに顔を上げ首を振る。
「ううん、別に。ちょっとむせちゃって。」
オチがついたようなついてないような他愛もない話の間に、香澄はそっと二人に気づかれないようまだ空になっていない弁当箱を閉じる。お手洗いに、と二人に断って席を立つと、不自然でない程度に、しかし可能な限り早足にトイレへと急ぐ。だんだんと早くなる歩調。最後にはほとんど駆け足になりながら個室に飛びこみ便座を抱えるように覗きこむと、そこで閾値を超えた。
「オヴェッッ! オ、ェ、ゲッ!」
香澄の悲痛な呻き声とともに、吐しゃ物が便器の中へ飛び散っていく。食道から喉と鼻を通過する胃液が粘膜を焼き、
「ゥグ、ゥ、ォ、オッ……」
その中身を全て吐き出してなお胃袋は痙攣を続け、香澄は背を震わせながら排水口を睨み続けた。
夢想じみた色恋の話なら他愛もなく聞けた。だが、“強姦” “小児性愛”という具体的な言葉を見知った顔と関連づけられた瞬間、途端にそれらは現実味を帯びて香澄の脳裏に差しこまれ、あの日、夏の公園で痛みとともに上下する視界いっぱいの男の体がフラッシュバックした。
ようやく呼吸が落ち着いてくる。レバーをひねって吐しゃ物を洗い流し、何食わぬ顔で個室を出る。まだ臭いが気になる。喉の奥がチリチリと痛い。洗面台の水道から両手に水をすくい、口を漱ぐ。
ふと鏡に目が行く。髪が乱れ、虚ろな目をした自分がいる。そのみじめな姿に、自分は未だ何一つ癒されていないと実感するとともにチカチカと目の奥で極彩色の火花が散っているのも感じた。その光はより深く覗きこもうとすると、スッと暗がりへ逃げてしまった。
席に戻る。友人二人の話題はすっかり移り変わり、今はなんとかという動画配信者が面白いとかどうだかという話をしていた。二人のことは尊敬しているし感謝している。彼女たちのおかげで、香澄は真っ当な学校生活が送れている。だがどうしても、香澄には彼女たちのことが灰色にしか見えていなかった。彼女たちが盛り上がる話題、好む趣味、彼女たち自身、何もかもが退屈で無刺激なグレーに染まっていた。
二人だけの話ではない。今の香澄にはこの世のあらゆるものが灰色にしか見えない。読書をしても、スポーツに興じても、何をしても刺激というものを感じることができなかった。何故か、原因は分かっている。
強姦されながら心を満たした圧倒的な苦痛は、それこそ何物も勝らぬほど刺激的だったのだ。男が体を出入りする痛み、内側から汚される恐怖。見え隠れする性感は、快楽ではなく嫌悪と結びつけられていく。その全てが綯い交ぜになる様子は、ヘドロに浮く油が毒々しい虹色を描くように煌びやかだった。
それに比べれば、どんな幸福も達成感も、本来人間が鮮やかで華やかな光を見出すはずの何事も、まるで柔らかいだけで味のしない布きれを嚙み切れないまま口に含んでいるようだった。
「さっきの話だけど、」
友人たちの話が一段落ついたところで香澄が言う。
「やっぱり三井先生はやめた方がいいよ。」
「なんで?」と結衣。
「ロリコンだから。」
「ロリコンだからかァ~。」
「だからアンタ達ねぇ!」
灰色の友人たちがこちらを見てほほ笑む。あぁ、なんてつまらないんだろう。自分を犯した男を想いながらトイレで嘔吐していた時は、あんなにも世界がギラギラと輝いていたというのに。
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