第三話 丹後街道・近江路を行く

最初の札所 成相寺

 トメたち五人は阿蘇海に面した道を西に向かって歩いていた。目の前の海には対岸まで伸びる細い松並木が横たわっている。あまの橋立はしだて、丹後のみならず日本を代表する景勝地のひとつだ。


「ついにここまで来たんだなあ」


 トメが感慨深げにつぶやくとすかさずフユの突っ込みが入った。


「違うぞおトメ。まだこんな所までしか来ていないんだなあ、だ」


 キミの腹痛で一日を棒に振ったものの、翌日から予定通りなりあい道を北進。小坂峠、神懸峠、与謝峠を越え二日で与謝野に到着。そして今朝、与謝野の宿を出て文殊までやって来たのだ。


「先に天橋立を歩いてみないか」


 与謝野から成相寺へは阿蘇海北東の道を進むのが一番早い。しかしどうせ歩くなら少々遠回りになっても海を突っ切る珍しい道のほうがいい。フユの意見に全員が賛成し、参詣よりも先に天橋立を訪れることになったのだ。


「お、ちょうど船が出るようだ」


 文殊と天橋立の間は渡し船が行き来している。切戸の渡しだ。天橋立を歩いて渡るにはこの船を使うしかない。もちろん船賃は必要なのだが「無銭の巡礼者ゆえ無料にしてほしい」と頼み込む。あとは船頭の胸三寸次第だ。幸いなことにマツの笑顔が功を奏したのかトメたちは無料で渡してもらえた。


「岸から見ると面白い風景だけど、こうして歩いてみるとただの松並木だな」


 船から降りて歩き始めた途端、フユが身も蓋もないことを言い出した。トメが猛然と反論する。


「そんなことないよ。右も左も海なんだもん。まるで海の上を歩いているような気分にならない?」

「もう少し道が細ければそのような気分になれるかもしれぬが、これでは海岸の松並木と大差ないでござるな」

「おソメちゃんまでそんなこと言う。せっかく来たんだからもっと楽しもうよ」

「それにしても長え道だあ。腹空いてきた。宿でもらった煎り豆、食ってもええか」

「お寺にお札を納めてからって約束したでしょ。おキミちゃん我慢して」

「松の香りが清々しくて、歩いているだけで心が洗われる気がします」

「それ、その言葉が欲しかったの。あたしの心をわかってくれるのはおマツちゃんだけだよ。松並木のことはおマツちゃんにお任せだね、マツだけに」


 お喋りをして歩いていると時間はすぐ過ぎてしまう。半刻もせぬうちに海上の松並木は終わってしまった。


「次は山道か。ますます腹減るな」


 天橋立を渡り終えて阿蘇海を回り込むように進むと成相寺への参道となる成相本坂道がある。半里ほどの登山道だがこれまでいくつもの峠を越えてきたトメたちにとってはそれほどキツイ山道ではなかった。雲水の教えを守りゆっくりのんびり歩いていく。


「なあ、さっきから気になっていたんだが時々地蔵を彫った石に出くわすだろ。あれは何だ」

「丁石でござるな。どれだけ歩いたかわかるように一丁ごとに置かれている。全部で十六あるらしい」

「ああ街道や峠道にあるあれか。こんな参道にもあるんだな」

「そげなことも知らんと巡礼に来たのか。おフユは無学じゃな」

「丁石くらい知ってる。地蔵が彫ってあるから何か意味があるのかと思っただけだ」


 トメとソメとキミの三人は旅に出る前の打ち合わせで西国巡礼について学んでいた。庄屋の蔵書を借りたり、松江城下に住むソメの兄に古書を送ってもらったりして、それなりに知識を蓄えたのだ。

 知識を蓄えたといってもキミはほとんど覚えていないし、トメも半分くらいは忘れてしまっている。ソメだけがほぼ完璧に記憶していた。さらに村の巡礼経験者から話を聞いたりもしていた。やるからには徹底的にやるのがソメのいいところだ。


「うわー、ここからの景色、凄いよ」


 ちょうど半分ほど登った所で開けた場所に出た。先ほど渡り終えた天橋立の全貌が眼下に広がっている。


(これは素晴らしい。貝原益軒先生が「其景言語ヲ絶ス」と言われたのはこの場所だったのだな)


 ソメにとって貝原益軒は心の師と呼べる存在だ。彼の著した大和本草は本草学を学ぶ者にとって必読の書である。ソメも全巻読破している。

 百年ほど前に書かれた益軒の紀行文には、成相寺へ向かう山道の途中で天橋立の絶景に感動したと書かれている。今、心の師と同じ景色を見て同じ感動を味わえた自分の幸福をソメはしみじみと噛み締めていた。


「ねえねえ、小野小町のアレ、やってみようよ」


 言うが早いか頭を下げて股の間から逆さまに海を見下ろすトメ。こんなことだけはしっかり覚えているんだなとソメはおかしくなった。


「おトメ、何やってんだ。頭が重いのか」

「おフユ殿、これは股のぞきという一種の風習のようなものでござる」


 絶世の美女として名高い小野小町が大内峠で用を足す際、足の間から見た逆さまの天橋立が大変美しく見えたという言い伝えがある。トメはそれを真似ているのだ。


「へえ、おいらもやってみよう」

「ならば拙者も」

「おらも」

「私は恥ずかしいから着物の袖から」


 マツだけは股を開かず着物の脇を開いてその間から見た。通り過ぎていく巡礼者がクスクス笑っている。小野小町の話は知っていても実際に試してみる者は滅多にいないようだ。


「なんだか妙に小さく見えるな」

「そうだね。あー面白かった」

「腹減ったな」

「そろそろ参るとするか」


 五人は再び山道を登り始めた。道のりはまだ半分残っている。これまでと同じように急がず慌てずゆっくり登っていくと、やがて赤い山門が見えてきた。古びてはいるが威厳を感じさせる門の柱には千社札がぎっしりと貼られている。トメたちは合掌して一礼し門をくぐった。しばらく歩くと鐘楼が見えてきた。


「あれはかずの鐘。二百年間、撞かれたことがないらしい」


 鐘を鋳造する際、溶けた銅の中へ赤子が落ちてしまった。その後、鐘を撞くと赤子の泣き声が聞こえるので鐘を撞かなくなった。ソメの説明に皆感心するばかりである。


「おソメ、おまえ村医者なんかにしておくのは勿体ないな」

「世辞は要らぬよ。それに拙者程度の者は松江の城下に行けばさして珍しくもござらぬ」


 と言いながらも褒められて嬉しくないわけがない。ソメは気分を良くして階段を上った。その先には本堂がある。


「着いたね」


 三十年ほど前に再建されたばかりの本堂は山門とは対照的に真新しく感じられた。軒下に施された見事な彫り細工。賽銭箱右上に掲げられた「真向いの龍」と呼ばれる彫り物。トメたちは本堂内部の荘厳な雰囲気に圧倒された。

 西国三十三所巡礼第二十八番札所橋立真言宗成相山成相寺。本尊は聖観世音菩薩。出雲国知井宮村を出てから十五日目。今日三月十七日、ようやく最初の札所にたどり着いた。トメたち五人の疲れは一気に吹き飛んでしまった。


「おトメ殿、納め札を」

「あっ、そうだった」


 トメは頭陀袋から札を取り出し納札箱に納めた。柱や壁にはたくさんの納め札や千社札が所狭しと貼られ、あるいは打ち付けられている。どうやってあんな場所に納めたのだろうと不思議でならない。

 無事納札を済ませた五人は本堂を出て、ようやく緊張の糸を切ることができた。


「これで最初の一歩を踏み出せたってわけか」

「そうだね。長い一歩だったなあ」

「しかしこれからの一歩は短くなるであろう。次の松尾まつのお寺までは十里ほど。二日もあれば余裕で行けるはず」

「腹減ったな」


 キミの一言で全員が自分の空腹に気付いた。さらに山を登ると旧境内があるとソメが言うのでそこで食べることにした。行ってみると確かに伽藍の跡らしきものが残っている。四百年ほど前に山崩れが起きて建物が倒壊したため現在の場所に移転したらしい。


「ここからの景色もなかなかでござるな」

「ああ。やっぱり天橋立は渡るものじゃなく見下ろすものだな」


 途中の参道から眺めた時とは一味違う絶景が眼下に広がっている。西国巡礼最北端の地でまだまだ続く旅を思いながら五人は煎り豆を食べた。


「これじゃ足りねえなあ」

「贅沢を言わないの。食べられるだけでも有難いと思わなくちゃ」


 煎り豆程度では腹の足しにもならないが、そもそも昼は食べないのが基本なのだからトメがたしなめるのは当たり前だ。これまでは途中で立ち寄った農家で井戸の水を貰うついでに何か食べさせてもらったり、道端に立つお地蔵様のお供え物を有難くいただいたり、農作業を手伝ったお礼に大根をもらったり、そんな事をして旅を続けてきた。


「おんや、ありゃあお経かな」


 粗末な昼食を終えた五人が元の境内に戻ってみると、本堂の前で一人の巡礼者が何か唱えていた。キミの言うようにお経のようにも聞こえるし何かの歌のようにも聞こえる。マツは無言でじっと耳を傾けている。ソメもまた言葉を聞き取ろうと巡礼者に神経を集中させている。


「……南無観世音、南無観世音」


 その言葉で締めくくった巡礼者は一礼して去って行った。と、突然マツが歌い始めた。


「波の音 松のひびきも成相の 風ふきわたす 天の橋立」

「ああ、これは御詠歌であったか」


 昔、花山法皇は各札所で和歌を奉納しながら西国巡礼を行った。その和歌が御詠歌として今に伝わっているのだ。札所ごとにそれぞれの御詠歌がありマツが歌ったのは成相寺の御詠歌である。岩美の温泉で歌った湯かむり唄と同じく、御詠歌も一度聞いただけで覚えてしまったらしい。


「いつ聞いてもおマツちゃんの歌声は惚れ惚れするなあ」

「へえ~、いい喉してるじゃないのさ」


 キミの称賛とほぼ同時に女の声が聞こえた。巡礼者とは思えぬ派手な道中着。丸髷に刺さった玉かんざしは桃色の光沢を放ち、足元の白足袋と草履には少しの汚れもない。一目で裕福な御内儀とわかる。


「そうでしょう。おマツちゃんの歌声は三国一だよ」


 トメは気後れすることなく答えたが、マツとキミとフユすっかり委縮してしまった。明らかに自分たちとは住む世界が違う。軽々しく口を利いていいものか、そんな危惧の念を抱かせるほどその女には風格があった。


(この者たち、ただの町人ではない)


 しかしソメは違った。ソメの心を捕らえていたのは女ではない。女の従者と思しき二人の男だ。脚絆、股引、尻からげにした小袖、頭に巻いた手拭い。旅姿の町人にしか見えぬが目付きが違う。常に周囲を警戒し相手の動きを読もうとする眼差しは、相当な手練れであることの証しだ。しかも腰に差した長すぎる道中差は間違いなく真剣。ソメの手は知らぬ間に自分の道中差の柄を握っていた。


「おまえさんたち、これから下山するんだろう。一緒に行かないかい。ちょいと話がしたいんだ」


 女の言葉を聞いてマツはキミの背後に身を隠した。これまでにないほど怯えた表情をしていた。












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