日向が繋ぐ

藤咲 沙久

第1話


 目が覚めたらバスに乗っていた。そう認識するまでにも、恐らくそれなりの時間を要している。曖昧な表現になるのは、夢現で頭がぐにゃぐにゃとしている間の体感など正確でないからだ。そういう時に寝ぼけたたわむれ言を抜かしては、よく妻に笑われたものだった。あの笑顔が懐かしい。

 まず、どうやら自分は寝ていたらしいと気づいた。弱り気味の膝が窮屈きゅうくつなことを察した。この揺れる椅子は随分とくたびれているな、と背中と尻が感じた。指をやわりと動かしたが、特に何にも触れなかった。それから乗客へ筒抜けの無線連絡を耳が拾った。歳のせいか寝起きのせいか、言葉は聞き取れなかった。

(そうか、バスか。バスに乗っているんだ)

 なるほどなるほどと思い、うっすら視界を開いてみる。確かに見慣れた座席シートの派手な柄と黒い持ち手が目の前にあった。窓から入る明かりは無く、車内灯が心もとなくほのかに照らしてくれるのみだ。店やビルが軒並み眠りについているのなら、よほど遅い時間なのだろう。

「いやあ、それはおかしい」

 思わず声が出たことで、すっかり意識からかすみが取り払われた。首をぐるりと回す。中程に位置する一人席に座っていた。他に客はいないようだった。

 一つ目に、なぜ俺はそんな真夜中にバスへ乗っているのか。乗車するのはいつも、年金暮らしの足しにと始めたアルバイト先と自宅の往復だ。ひたすら梱包する作業に変則は起きにくく、どれだけ長引いても十六時半には退社していた。だから暗闇を走行する景色など見たことがない。

 二つ目に、なぜ真っ暗な時間帯に市バスが動いているのか。そもそもこの辺りに深夜まで走るバスなどないはずなのだ。都会とは言いがたいものの、街からすべての明るさが失われる時間は決して早くないと聞く。その頃にはタクシーに頼るしかないと以前若い同僚が話していた。

(寝る前の、乗る前のことが思い出せない)

 ところでどうして、先ほど指に何も触れなかったのだろうと思い至る。仕事帰りであれ、そうでないであれ、必ず左手には息子が贈ってくれたハンドバッグがあるはずだった。視線を落とすが、床にも通路にも見当たらなかった。

「おや。お目覚めですかぃ、お客さん」

 肩が跳ねた。耳にさわるしゃがれた声だった。人が居たことに驚いてしまったんだなと理解が遅れてやってくる。乗客の有無を確認したことで「誰もいない」とつい思っていたが、当たり前なことに、運転手は存在するのだ。バスは今も運行しているのだから。

 向こうはこちらの様子が鏡越しにわかるようだが、俺から見ると目深まぶかに被った帽子しか映っていなかった。そうやって運転席側へ顔を向けたことでもう一つ、気づいた。──行き先の表示が消えている。画面が黒く沈黙したままだ。

 妙な緊張が走り、ほんの少し慎重に呼吸をした。もっと慎重に、運転手の背中へ話し掛けた。

「すみません。寝てしまっていたようで、このバスはどこを走っているんでしょうか」

「大丈夫ですよぉ、お客さん。きちんと安全運転なんで」

「降りる場所を過ぎたかと思うんです。このバスはどこに向かっているんでしょうか」

「大丈夫ですよぉ、お客さん。ちゃんと送り届けるんで」

「あのですね……」

「大丈夫、大丈夫。任せてくださいや」

 要領を得ない答えが返ってくる度に、にちゃにちゃとわらうしゃがれ声が不快感を煽った。胃、腸、肝臓、臓器という臓器がひとつずつ見えない手に撫でられていくような、吐き気にも似た感覚が身体に広がっていく。状況がおかしい。そう確信したものの、停まる様子のない車内で自分に何が出来るというのか。もともと頼りない脚が震えを帯びて、感じている恐怖の強さを可視化していた。

(まだ夢を見ている? ……まさか死んだのか? だが、あまりに生々しいじゃないか)

 上がってきそうな胃酸を堪える。嫌な酸っぱさが、生きた肉体がここに在ると思わせてくれた。それなのに死を連想してしまうのは年寄りの自覚があるからなのか。それとも。

「きっと奥さんもこの先で待ってますってね、ええ」

則子のりこが……妻が、何ですって?」

 ちょうど彼女のことを考えたのと同時に、運転手がにちゃりと言った。反射的に顎を高くあげたことで彼の顔が見えそうになり、慌てて目を逸らす。例え鏡越しでも見てはいけない、そういうものだと感じた。

 則子は二年前に亡くなった。俺や息子夫婦、孫に見守られながら逝ってしまった。ほんの一瞬。俺が窓の外に気を取られたその一瞬のうちのことだった。

(則子は俺の方を見ていたのに、手を握ってくれていたのに、俺は)

 どうして最期まで見つめてやれなかったのか、そう胸に強く刻まれた後悔が、最愛の人の死は現実だといつも突き付けてくるのだ。

 そんな則子が俺を待つとしたら、そこは。

「俺は……やはり死んだんですか。死後の世界へ運ばれているのですか」

「んひっ、死後の世界! へへへぇお客さん、面白いことを仰る。そう、そう、きっとそうですよぉ、もう寂しくないですねぇ」

 運転手は可笑しいのを我慢できないというように肩をぶるぶると揺らした。息遣いが下品さを増していく。こんな声音に妻を思い出させられるなど寒気がする。これは、人間じゃない。人間のかたちをした、何か他の生き物。それ以外にこの異質な存在を説明する術がなかった。

 もしも、自覚も出来ないほどあっさりと自分が死を遂げていたとしてだ。立派でこそないが、恥じるような人生ではなかった。閻魔えんま様に呼ばれるような生き方はしてこなかったつもりだ。しかしバスはますます暗闇へ向かい、運転手はまるで地獄の遣いのようである。

(それだけ俺は、あの日のことを罪深く感じているということなのか。俺自身が暗がりへ落ちたがっているのか)

 安っぽい言葉だが、則子は優しい女であった。良い妻、良い母でいてくれた。病も治療も辛かったろうに、心配かけまいと最期まで笑顔を絶やさなかった。それなのに俺はあの一瞬──どうして、目を離したんだったろうか?

「……この先に、妻が? 妻が居ると言いましたか……?」

 不意に違和感を覚えて、つい運転手に聞き返してしまった。揺れ続ける肩が肯定を返してくる。言葉を交わす恐怖はあった。ただ、どれだけ恐れに打ちのめされそうであっても、この疑問だけは無視することが出来ない。

 こんな暗くて、奇妙で、不可解で、気味の悪さしかないような場所の向こうに則子がいる? そんなもの、冗談じゃない。あれほど他人を思い遣り丁寧に生きた人は、温かな日向ひなたに迎えられなければいけないはずだ。

「妻は」

 喉が震動した。音を発したからだけでなく、おびえのためだけでなく、ぐっと込めた気持ちが震えとなって伝わったようであった。ただ、同時にバスもガタンと強く跳ねた。

「則子は、こんなところには居ません。居るはずがない。例え俺が地獄へ連れて行かれるのだとしても……決して!」

「じ、ご、く! んひふふへぁ、地獄! えはぁ、地獄だといいですねえぇ!」

「ひ……っ」

 運転手──得体の知れないソレが、引きつりながら嗤い出す。悪寒が体中を駆けて止まらなかった。背後にいるのに唾液が飛んできそうだと、頭の隅の冷静な部分が思った。

 死がどのように迎えを寄越すのか知るよしもない。しかしこれが死だとしても、こんな怪異に連れ去られるなど耐えられるものでなかった。どうにか逃げようと考えるが停車の気配はなく、また己の脚もガタガタと怖じ気づいたままだ。奮わせる勇気は先程、妻の名誉を守るのに使い果たしてしまった。

(ああ、情けない。動けない。夢のように覚めてくれれば……)


 ──おじいさん、おじいさん!


 ふと、誰かに呼ばれている気がした。柔らかな声だ。寝ぼける俺を笑う、則子の声に似ているように思えた。不思議なことに、どうやら前の座席に付けられた持ち手から聞こえている。物の怪がすぐ傍で興奮に身をよじっている今、物が喋っても恐いどころか、もはや安心感すら得られた。

 こっちへ、こっちへ。早く早く。そう急かすみたいに呼び掛けが続く。そうっと顔を寄せてみると、声はさらに強まった。

(……そうだ。目が覚めたらここだった。逆に、もう一度、意識を……っ)

 さすがに寝るなど出来ない、ならば他の方法で、温かな声の最も近くへ。俺は深く息を吸い込むと、しならせるつもりで、曲がりかけの背骨をぐんと伸ばした。反動をつけるためだった。

「真っ当な死でないのなら……いくわけには、いかない。これ以上、則子へ申し訳の立たないことは、出来ない……!」

 確信はなかった。より悪い結果となる可能性もあった。その時、半ば勢いで腹を括った俺の様子に気付いたらしく、運転席から引っくり返った悲鳴が飛んできた。それが余計に俺の背を押した。

「あへっ?! 何、しようとしてるんで、お客さん?? それはよくない、よくないですよぉ、せっかくの得物なのに、お客、お客さああああああアあああああアァああんッ!!!!!!」

 鈍く大きな音と共に響いた断末魔。神経を逆撫でする気色悪さを耳に残して、意識は再び沈んでいった。




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