第4話 所有印と妖の世界の理


 手の甲に刻まれた不可思議な紋様の印をミズキは眺める。これが所有印というものだと紅緑こうろくが昨夜、教えてくれた。人間が外を出歩くのに必要なもので、他の妖かしが手を出さないためのものなのだと。力が強い者の刻印ならば特に効果を発揮するという。


『この辺り一帯ならば、それを見せるだけである程度の妖かしは逃げますよ』


 そう言っていたので彼はなかなかに強い妖かしなのだろう。


(隠し神って言われているぐらいだし、神様とかそっち系なのかな?)


 ミズキは不思議だなぁと思いながら台所を確認していく。竃は使えそうであったので、調理をするには問題はないだろう。水瓶に水を貯めようと井戸の方へと向かう。水を汲み上げて水桶に移し、運ぶ。


 四往復ぐらいしたころだろうか、「これでいいですか」と紅緑の声がした。水桶に向いていた目を上げてミズキは「ふぇっ」と思わず声を上げる。


 紅緑の両腕は液体のような無数の触手へと変わっており、その触手が荷物を器用に持っていた。それらがどさどさと土間に置かれていく。


 米俵に野菜の詰まった箱、捌かれた鶏肉らしきものに鶏の卵。酒や味噌に醤油。その量に思わずおぉうと少し引いてしまった。



「これはいったい……」

「魍魎退治の対価ですよ」



 腕を元に戻しながら紅緑は言った。神格を得た妖かし、妖神あやしがみと呼ばれる存在に何かを頼む時は対価を支払うのが決まりとなっている。無償で力を使うなど何の特にもならないことを妖神はしないのだという。


 紅緑はその妖神であるのだが、対価にあまり興味がないので適当に鹿や猪などの血肉や、調度品だったり着物だったりを受け取っていたとのこと。



「ワタシが人間の妻を娶ったので食料を対価にと告げたら驚かれましたねぇ」



 はははと笑う紅緑にミズキは「そうなのですか」と返事をするしかない。


 とりあえず、材料を確認してみれば野菜はどれもこれもよく育っており、米もよくできている。酒や味噌、醤油も舐めてみるが大丈夫そうであった。これならば食事が作れそうだと安心する。



「ミズキは料理が作れるのかい?」

「えっと、人並みには……。母の代わりに作ってましたし」

「それなら大丈夫そうだねぇ。ワタシは作ったことがないから」

「えっと貰っていた鹿と猪は……」

「そのまま喰ろうていたよ」



 それを聞いておぉうとまた声が溢れた、此処ではそんな行為も普通なのだろうと。人間と同じように考えては駄目だなとミズキは理解する。


 気を取り直してといくつかの野菜を手に取って少し遅めの朝餉を考える。軽いものがいいなと玉子焼きと汁物とご飯でいいかと料理を決めて必要な材料を選んでいく。



「あの、包丁ってありますか?」

「刃物なら此処にあるよ」



 紅緑はそう言って側に置かれた棚から包丁を取り出して「手を切らないようにね」と渡してくる。人間に刃物を持たせて危ないとは思わないのだろうかと、ミズキは思いながらそれを受け取る。すると、察したのか彼は「それではワタシに傷一つけれませんから」と呟いた。


 ですよねと声が出そうになるのを堪えて、ミズキはまな板に野菜を置く。水瓶から水をすくい食材を洗い、包丁にも軽く流した。


 釜に米を入れようとして、ふと思う。彼も食べるのだろうかと。そこで「食べますか?」と紅緑に声をかける。興味津々と言ったふうにミズキの様子を眺めていた彼は不思議そうに首を傾げる。



「ワタシは食事を取らずとも生きていけるよ」

「それは知っているのですが、その……一人だけ食べるのは何だか申し訳ないですし……」



 一人だけ食べるのも申し訳なかったが、少しだけ寂しくて。一人の食事というのは何だが物足りないと両親を亡くしてから感じていた。


 顔にそれが現れていたのか、「どうかしましたか」と紅緑が問う。ミズキは「あの、大したことではないのですが」と続けて言った。



「その、一人だと寂しいなぁと……」



 照れを隠すように呟けば、紅緑は一瞬だけ目を見開いて考えるように腕を組んだ。



「作ってくれますか?」

「はい!」



 笑みをみせて答えるミズキに紅緑は優しげに目を細めた。

 


           ***



 皿に盛られた玉子焼きに野菜汁、ご飯をのせたお膳を囲炉裏の方へと持っていく。火のついた炭がパチパチと鳴っていた。


 紅緑は出来上がった料理を興味深げに眺めている。そんな大したものではないのだけれどと、思いながらミズキは彼の前に腰を下ろした。


 食事に口をつけながらミズキは頭を悩ませる。目の前で料理を面白げに見つめながら食べている彼の妻になってしまったのだ。


 花嫁として贈られたけれど殺されると思っていた。妻にしてくれと言ったのは自分だがまさか本当にそうなるとは考えもしなかった。


(本当に妻になるとは思わなかっただよなぁ……)


 妖かしの妻とは何をすればいいのだろうか。ここで彼の側にいるだけでいいものなのだろうか、それぐらいしか思いつかない。



「あの、この世界ってどういった場所なんでしょうか?」



 一旦、考えるのをやめてミズキはこの世界のことを聞くことにした。紅緑は「そうややこしくもないですよ」と答えた。


 人間がこの世界に入れば元の世界には戻ることはできない。所有印を持たない人間が出歩けば、妖かしに捕まり喰われるか奴隷にされるかの二択。ただし、力の強くない妖かしの刻印ではたまに襲われることもある。



「作りは人間の世界と変わりませんよ。ただ、何を考えているか分からない妖かしや、魑魅魍魎ちみもうりょうに物ノ怪が蔓延っているというだけで。先ほども言ったけれど、ある程度は成長するが基本的に老いることがない。それでも飢えや殺されれば死にますがね」


 稀に人間もいるけれど所有印持ちであり、殆どは奴隷だと教えてくれた。刻印があったとしても、言葉通じぬ獣や妖かし、魑魅魍魎、物ノ怪には通用しないので一人で外を出歩くのは危険であると注意される。



「だから、一人で外には出てはいけないよ」

「わ、わかりました……」



 じっと見つめられては頷くしかない。ミズキの返事に紅緑は心配げではあったが、それ以上は言わずにご飯を口に運ぶ。


 ミズキは人間の世界とは似ているようでそうでもないのだなと思った。自分たちの世界には当然のように妖かしが出歩いてはいないし、喰われる心配もないのだ。


 ただ、それを除けば食材は人間が食べるものと同じであるし、着る物も変わらなかった。勝手に行動さえしなければ危険な目には合わないというわけではないにしろ、すぐに死ぬということは少なくともない。


 そう解釈してミズキは自分のような人間もいるのだろうかと疑問を抱く。



「人間を妻にするのって珍しいのですか?」

「珍しいといえばそうだねぇ。でも、天狗や鬼は人間を嫁に娶ることが多いよ」



 天狗や鬼は人間を妻にすることが多いのだという。特に天狗の殆どは男だ。尼天狗のような例外もあるが、男所帯である種族というのは必然的に女を探さねばならない。そうなると人間や女の妖かしになるのだという。



「妖かしは人間の世界に行けるのですよね?」

「力がある程度ないと人の世には行けないよ。天狗も鬼も力はあるから」



 妖狐も力はあるし、一部の猫又や化け狸も行けなくはない。人間の世界に住み着いたり、そこで妖かしとして生まれてしまうものも少なくはないだという。



「人間は力がないからね。元の世界には戻れないのだよ」

「紅緑様が連れていけば戻れるのですか?」

「所有印というのはね、この地に縛る呪詛のようなもの。おまえはもう刻印を持っているから無理だよ」



 どうやら、刻印がある以上は紅緑の力を持ってしても戻ることはできないらしい。「できたとしても返す気はないよ」とバッサリと言われてしまった。


 帰りたいわけではなかった。ちょっとした興味だったのだが、こうもバッサリと言われると何ともいえない気持ちになる。



「あと、村は」

「あれはやっておいたさ。暫くは大丈夫だろうね」



 それを聞き、ミズキは安堵する。そんな彼女に「アナタを花嫁に出した村のことなどよく心配できますね」と、紅緑に言われてしまう。生贄と同じでしょうと。


 その通りなのだが、村で育ってきた身としては恩というのが少なからずある。此処までしたのだから、どうにかしてもらわないと割りに合わないという思いも少しばかりあるのだが。



「まぁ、ミズキは心配しなくともいいよ」

「ありがとうございます」



 頭を下げて紅緑を見ると彼は箸で掴んだ玉子焼きを眺めては口に入れていた。


 紅緑はミズキの作った料理を口にしてほうと小さく息を溢す。それが何んだが不思議であるのと同時に少しだけ不安になる、彼の口にあったのだろうかと。何か言うでもなく箸をすすめるのでどうなのかいまいち分からない。



「あの……お口に合いましたか?」



 恐る恐る聞いてみる。紅緑はあぁと質問の意味を理解したのか、野菜汁を一口飲むと微笑んだ。



「美味しいよ」



 それは優しく朗らかで。綺麗な顔立ちによく映えていてミズキは思わず見惚れてしまった。




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