一章 ミケくん!大慌て

一章 ミケくん!大慌て


1 


 ゲロくんとコビくんはとてもなかよし。いつもいっしょにあそんでいます。

 ゲロくんはカエルのこども。コビくんはキツネのこども。しゅぞくはまったくちがうけど、ふたりともがっこうでも、いつもなかよしです。


 きょうはがっこうのないにちようび。ゲロくんとコビくんはなかよくおかいものにいっています。

 りんごにバナナにパインにぶどう。おいしそうなくだものがいっぱいならんでいるくだものやさんで、たくさんくだものをかって、しんせんなおやさいがたくさんならんでいるやおやさんでは、たくさん、おやさいをかいます。

 しょうてんがいはとてもにぎわっていて、がやがやざわざわといろいろなかいわがきこえてきます。

 たくさんたくさんかったのですぐに、にひきのカゴはいっぱいになってしまいました。

「そろそろかえる?」

「そうだね」

 ゲロくんとコビくんはスキップしながらゲロくんのいえにむかいます。ふだんからずっとげんきなにひきですが、きょうはいつもよりもっとげんき。

 じつは、きょうは、ゲロくんのおとうさんのたんじょうびなんです! ゲロくんもコビくんもゲロくんのおとうさんがだいすき。めんどうみのいいゲロくんのおとうさんは、コビくんにとってももういっぴきのおとうさんのよう。だから、にひきでゲロくんのおとうさんにごちそうをサプライズプレゼントしようとしているのです!

 おとうさんがよろこぶところをそうぞうすると、ゲロくんはいてもたってもいられません。どんどん、スキップがけいかいになっていきます。

 ゲロくんのいえは、やおやさんやくだものやさんのあるしょうてんがいからすこしはなれたばしょにあるマンションです。そのマンションのにじゅうにかいに住んでいます。にじゅうにかいはとてもたかいばしょでみはらしもさいこう。ゲロくんはいやなことがあったとき、このさいこうのけしきですっきりします。

「こんにちは」

 ゲロくんはマンションのエントランスにいるかんりにんさんにおおきなこえであいさつしました。

「きょうもげんきだねぇ」

 かんりにんのコケコさんははねをわさわさとひろげて、いいました。コケコさんはこのマンションにながくつとめるとしよりのかんりにんで、ニワトリのおばあさんです。

「じつはきょうがおとうさんのたんじょうびなの!」

 ゲロくんはえがおでいいました。ゲロくんのよこで、コビくんがやさいやくだものでいっぱいのかごをあたまのうえに、たかくかかげました。

 コケコさんはそれをみて、にこりとほほえみ

「それはめでたいなぁ。せいだいにおいわいしてあげるんだよ」

 といいました。ゲロくんとコビくんはにひきでそろって、うん、とうなずいて、エレベーターホールにむかいます。

 このマンションには、にだいのエレベーターがそなえつけてあります。そのうちいちだいはちょうどいっかいにとまっていたので、にひきはそれにのりこみます。

「にじゅうにかい、であってるよね」

 コビくんはゲロくんにかくにんして、にじゅうにかい、のボタンをおしました。

 エレベーターがうえにあがっているあいだもにひきは、ゲロくんのおとうさんがよろこぶようすをそうぞうして、うきうきしてきます。

 エレベーターがにじゅうにかいにつき、とびらがひらくなり、にひきはかけだします。そして、2203ごうしつのまえで、たちどまりました。

「よし、いこう」

 ゲロくんはそういって、かぎをポケットからとりだし2203ごうしつのとびらをあけます。

「ただいまー」

 にひきはこえをそろえていいました。しかし、おとうさんのへんじはありません。

「おとうさん、ただいまー」

 ゲロくんはもういちどいいました。でも、へんじはありません。

「ゲロくんのおとうさん、おじゃましまーす」

 コビくんもいいますが、へんじはありません。

「どうしたんだろう」

 ゲロくんはちょっときんちょうしながらもおくへおくへとあるいていきます。コビくんはなにかいやなよかんをさっちしていましたが、だまってゲロくんについていきました。

 ゲロくんはリビングルームにたどりつくと、もういちど

「おとうさーん」

 とこえをだします。へんじはありません。

 コビくんはぐるりとへやのようすをみわたしました。ほうぼうのかべにはられた「HAPPY BIRTHDAY」のアルファベットなど、パーティーのためのさまざまなそうしょくがほどこされています。

「ゲロくんのおとうさーん、おじゃましまーす」

 コビくんはおおきいこえでいいました。

「うーん、どっかにがいしゅつしたのかなぁ」

 とゲロくんはいいました。

「でも、わざわざなんでがいしゅつしたんだろう、ん?」

 コビくんはもういちどへやをみわたしてみょうなものにきがつき、くびをかしげました。

「あのへや、ふだんからしまってるの?」

 リビングルームからつながる、とびらがあります。そのとびらはしまっていました。

「うん。あそこはおとうさんのしょさい、だから」

「もしかしたらそこにいるんじゃない? あけてはいっててみようよ。もしかしたらねてるのかも」

「でも、おとうさん、しょさいでさぎょうするときは、きまってかぎをしめるんだ。しかも、しょさいはなかからかぎをかけるから、そとからあけることはむり」

「うーん」

 コビくんはあごにてをあててうなります。

「でも、しんぱいだなぁ。そうだ、となりのいえのファンおじさんにあけてもらおうよ」

 コビくんはいいました。

「あけてもらうって、どうやって...」

「このとびらにいきおいよくとつげきしてとびらをこわすっていうほうほう。テレビとかでよくけいじがやってるじゃん」

「でも、なんでわざわざそんなことを」

 ゲロくんはとまどっているようすです。

「こんだけよんでもへんじがないなんてへんだよ。もしかしたら、なにかびょうきでたおれているのかもしれない。ファンおじさんはおいしゃさんだからすぐてあてできるかも」

「そんな...」

 ゲロくんのかおにさっきまでのようなあかるさはありませんでした。

 ゲロくんとコビくんはいったん、いえをでて、ドキドキしながらもとなりのファンおじさんのいえのとびらをノックします。

「コンコン、おじさんいますか」

 すこしじかんがたって、とびらがひらき、ファンおじさんのすがたがあらわれました。ファンおじさんはゾウのおいしゃさんです。

「どうしたんだい」

「おとうさんがしんぱいで、その...」

「とにかく、きてください」

 ひっしでうったえかけるにひきのすがたをみて、ファンおじさんはなにかあったのだろうとさっちしました。

「わかったわかった」

 そういって、にひきとともにゲロくんのいえにはいっていきます。

 ゲロくんのおとうさんのしょさいのまえまできてから、ゲロくんはいいました。

「おとうさんがたぶん、きゅうびょうでこのおくにたおれてるんだ」

「なんだって」

 ファンおじさんはおどろいていいました。

「はやくここをあけて」

 コビくんもひっしでうったえかけます。ファンおじさんはにひきのようすをみて、きんきゅうせいをかんじ、とびらをごういんにあけることにしました。

「じゃあにひきともさがってろ」

 にひきはいわれたとおりうしろにさがります。そして、ファンおじさんもうしろにさがっていきおいをつけてから、ちからいっぱいとびらにぶつかりました。

 さすがはゾウのかいりき、いっぱつでとびらはこわれて、ファンおじさんはそのいきおいのまましょさいにころがり、たおれました。

 ゲロくんとコビくんはしょさいにはいってすぐ、いきをのみました。

 そこにはゲロくんのおとうさんがたおれていました。そして、いきたえていることもだれもがみてすぐにわかるじょうきょうでした。

 あたまと、からだが、べつべつにになったゲロくんのおとうさんがそこにたおれていました。


2


「なかなか酷い死体だな」

 浦田ニャンが呟いた。

「首をスパッと行かれてますね」

 猫目ミケは頷く。ミケは死体から目を背けながら、現場の様子を見ている。

「とりあえず、第一発見者たちに話を聞こう」

 ニャンはそう言って、足早に現場から立ち去って行き、後に残ったミケはベランダに出て、ぼんやりと外の景色を眺めた。

「密室かぁ」

 西磐市で起こったこの事件は明らかに異常な事件であった。

 事件現場は明らかに密室。死体発見時、現場である書斎は部屋の内側から鍵がかかっていた。どうやら、元々は鍵がついていなかったのだが、幼かった被害者の息子に書類を荒らされ、それ以来鍵を取りつけたらしい。警察の捜査で、もう鍵の在処は見つかったが、被害者を殺した者に、鍵を探すような余裕はなかったと思われる。

 というのも第一発見者二匹がいつ帰宅するかは不明確だったのだ。

 そして、書斎からのもう一つの出口はベランダだが、この部屋は二十二階。当然、普通には降りられる高さではない。しかし、ベランダに繋がる窓は開いていた。だが、ベランダがあるのはその部屋のみで、他の部屋にベランダはない。なので、ベランダを介した移動もあり得ない。また、両隣の部屋のベランダとは距離があり、アクション俳優のようなアクロバティックなジャンプ移動をしても届かない。

 つまり、事件をそのまま解釈すれば、二十二階から飛び降りても生き延びられる異常な生き物による犯行となる。ただ、そんなわけはない。

 となると、どうやってこの密室を脱出したのか。これが何よりの謎である。

 また、被害者は蛙池ヒキ。地域開発に関する会社勤め。子供は一匹、妻には数年前に先立たれている。

 死体の状況から、仕事に関する作業中に襲われたのだと推測される。背後から腹を刺され、苦しみ悶えて床に倒れた後、首を切り落とされた様子だ。首の切れ具合を見る限り、斧のようなもので一発か二発で切られた様子。非力な動物ではないだろう。

 犯行時刻は十四時頃。真昼間から大層な事件をやるものだ。

「おい、何ぼーっとしてんだ。早く聞き込みすっぞ」

 ニャンに呼ばれてミケははっとした。気が付いたら、ニャンはもうリビングルームを出ている。


 猫目ミケは新米刑事だ。中央動物警察署に勤めている。この仕事には誇りを持って接してはいるが、実際のところ刑事という職になりたくて就いたわけではない。

 猫は刑事になる。そういう風に職業が決まっている。風習として定着しているのだ。いつからなのかはわからないが、遠い昔からそういうルールでやってきたのだろう。

 猫だけが刑事になる。猫以外は刑事になれない。主にこう言った種族による仕事の割り振りは公務員において行われ、例えば、役所で働くのは皆亀だと決まっていたり、消防士は皆サイであったりする。

 役所で働くのが皆亀だと決まっているのは、ミケにも納得できる。亀は長生きなので、長く働けるため、引き継ぎの手間がかからないからだろう。しかし、どうして猫は刑事なのだ。

 こういうルールのもとで仕事をやっていることもあって、ミケは刑事適正が全くない。死体を見るのは苦手だし、力も弱い。ミケの先輩のニャンは力が強く、立ち回りもよく、まさに刑事の鏡のような猫だ。そういうこともあって、ミケはもどかしく思っている。当然、この仕事が嫌なんていうことはないのだが、自分がこんな職についてやっていけるのかという葛藤は持たざるを得ない。

 ミケに葛藤を持たせている原因のもう一つは両親の存在だ。父は優秀な刑事でいつも手柄を立てていた。母はミケが産まれてからは子育てのために仕事はやめたもののそれまでは刑事として活躍していたらしい。だから、ミケはいつも両親と比べられる。そして、何か失敗するたびにお前の父さんは、やら、母さんは立派だった、と説教を受けるのだ。両親はすでに他界しているが、それが故に何だか申し訳なくなる。だから、やってられない。刑事なんてやめてしまいたい。しかし、現実はそれを許してはくれない。

 猫は刑事をするものなのだ。猫が刑事以外の職に就くと、色々な動物から叩かれる。大怪我で手足が使えなくなったり、歳をとって引退したり、母のように育児で辞める以外は基本的に辞めることは許されない。大怪我をすればいいのかもしれないが、大怪我をする勇気などミケにはない。インターネットが発達してきた今は尚更叩かれやすい。

 以上の理由により、ミケは刑事を続けるしかない。これはどうしようもないことであり、宿命なのだ。いつの間にかミケは自然とそう思うようになり、機械的に刑事の職をこなすようになってきた。


3


「蛙池ゲロさんですね」

 マンションの一階の自由に使用できる会議室にて、被害者の親族や、第一発見者への事情聴取が行われた。会議室ということで長机や椅子が揃っていたため、とても助かる。まず最初に部屋に入ってきたのは蛙池ゲロ。被害者の息子であり、第一発見者だ。

 彼は学生で、再来年春からの就職が決まっている。就職先は大手ゲームメーカーだそうで、プログラミングに長けているようだ。

 ヒキガエルらしい見かけで、少し腹が突き出ているが、顔には若々しさがあった。また、被害者蛙池ヒキの面影も見られる。服装は特徴もない白と黒のTシャツ。だが、この様子からも彼のプログラマーらしさは引き立っている。

「はい、蛙池ゲロです」

 彼はくぐもった声で言った。当然、彼は父の死に相当ショックを受けているだろう。そんな彼に事情聴取をするのはいささか躊躇われるが、これが我々の仕事だ。

「この度は誠に...」

 ミケがそう言おうとすると、彼はまた辛そうに顔を下げたので、ミケは口をつぐんだ。

「お父さんの死の真相を突き止めたいでしょう」

 ミケが黙ってしまったのを見てニャンが言った。いつもニャンは強気に斬りかかる。

「は、はい...」

 ゲロは弱々しい返事をする。

「お父さんは誰かに殺されたんです。そして、お父さんを殺した凶悪で許せない犯罪者はまだ生きてどこかにいるのです。もしかしたら次なる犯行に移るかもしれない。しかし、ここで少しでも情報が手に入れば、その次なる犯行を防げるかもしれない。つまり、お父さんの死が、誰かを救うのかもしれないのです。しかし、そのためには協力が不可欠、是非、我々の捜査力を信頼して、わかっている範囲で少しでもたくさん情報をください。これは、蛙池さんのためでも、蛙池さんのお父さんのためでもあり、そして、他者のためにもなるんです、さあ」

 まるで考えてきたかのような(いや、実際にこういうテンプレートが彼の中であるのかもしれないが)詰まりのない語りだった。だが、感情のこもっていないその口調はミケからすれば不愉快だった。

 そして、これを聞いた蛙池ゲロは口車に乗せられて、自分から死体発見時の様子を語り始めたのだ。警察のやり口は、宗教勧誘と何ら変わらないとミケは痛感する。

「僕は、友達のコビくんと...あ、キツネの...同級生で、結構昔から仲良しで。彼と、商店街に、薮下商店街です、あそこに行ってて。で、買おうと思ってた野菜とか果物とか調味料とかを...」

 ここまでは、やや大袈裟に詰まったり、鼻を啜ったりはしたものの、しっかり喋れていたのだが。段々、雲行きが怪しくなってきた。

「今日は...その、父の...誕生日で...僕は父のために...父は男手一つで育ててくれたんです。母は昔事故で。だから、普段は父が夕飯を作るんですけど、誕生日の日だけは...僕が作ってて。それでその材料を買って帰ったら...」

 彼はそこで黙ってしまった。必死で涙を堪えているのか口が無一文字だ。

 流石のニャンも続きを聞くのをやめた。それぐらいの倫理観はあるようだ。

 気まずい時間だった。ニャンはつまらなさそうにぺろぺろと手を舐め始めた。ミケは居心地の悪さに今すぐここを出たいと強く願いつつも堪え、ゲロが再び語り始めるのを待つ。 

 ゲロは鰭のついた手足で目元を拭うと話を再開した。

「すいません...僕らは家に帰ってすぐただいまと言ったんですが...いつもならおかえりって返事が来るのに...来なくて、それで、コビくんも違和感を覚えて...」

「ちょっといいかい」

 ニャンが口を挟んだ。ゲロは小さく頷く。

「お母さんが亡くなったというのは、どんな事故で?」

 配慮の足りていないニャンの言動に憤ったミケは口を挟もうとしたが、ニャンに睨みつけられて何も言えない。

「...交通事故です。車に轢かれたんです」

「轢き逃げですか」

「いえ...」

「成程。話は変わりますが、君たちが家を出たのはいつ頃かな?」

「家を出たというのは」

「買い物に行った時間のことだ」

「それは...十三時半ぐらいでしょうか」

 警察に通報のあった時間と死体発見時刻とに大差はないだろうから、死体発見時刻から通報された十四時半までの間、事件を起こした者は書斎にいた可能性がある。殺しに及んだのは十四時頃だが。

「コビくんはなんで君の家に?」

「ああ、それは、コビくんは幼い頃結構父さん、父に遊んでもらってて。毎年父の誕生日の日には来てくれるんです」

「成程。続けて」

 ニャンは手に持つペンをくいくいと動かして続きを語るよう促す。

「それで、父の書斎の鍵が閉まってて。それでおかしいなって...で、隣に住んでるファンさんに...お医者さんだから、もし父が倒れていたらすぐ手当してくれると...それで、強引に開けてもらって、ああ...」

「死体が倒れていたと、成程」

 ニャンは容赦なくそう言った。ミケは流石に見ていられなくなり、口を挟んだ。ニャンに遮られてはならないので、早口でゲロに向かって

「聞くことは大体聞きました。蛙池さん、ご協力頂き誠にありがとうございました」

 と告げる。ゲロはまた小さく頷くと、見ているだけで申し訳なくなるぐらいにとぼとぼと会議室を去って行った。

 ゲロが去っていき、会議室の扉が閉まったか閉まっていないかの時、ニャンが立ち上がって言った。

「おい、まだ聞くことはあるぞ。お前は何を」

「すいません。ただ、いきなり父親をあんな形で失ったのに今のような対応は流石に」

「甘い。お前はいつもそうだ。そんな優しさ、刑事の世界では通用しない。生ぬるいことがしたいならとっとと刑事などやめちまえ。もしくは、会計課などに移ればいい。ずっと計算ばかりしとけばいいさ。だが、犯罪者を捕まえるためには、時には心を鬼にしなければならない日もある、それがわからないならお前は用無しだ。とりあえず、この事件が終わったらとっととどこかに行くんだな」

 ミケは首を垂れるしかなかった。全てニャンの言う通りだ。強くなれないなら警察などするべきではない。

 普段から説教を受けることは数えきれないほどあったが、完全に諦められているようだ。

 彼の言う通り、会計課に移るべきなのかもしれない。そろそろ決断の時が来ているようだ。


 続いて部屋に入ってきたのは、蛙池ゲロの親友で、第一発見者西狐コビ。細くしなやかな肢体と、キリッとした目、すっきりとした顔立ちはどこかの有名な俳優に似ている。

「どうぞそこに掛けてください」

 ニャンは対面になる椅子にコビを誘導する。

「あ、ありがとうございます」

 コビは警察と対面という状況で、ややたじろいでいる様子だった。

 ニャンは椅子に座りながら、ミケの方を睨む。さっきみたいな邪魔はするなよ、と言いたいのだろう。

「まず、被害者...蛙池ヒキさんの性格についてなのですが」

「おじさんは、とても親切で。僕が小さい頃は結構頻繁に僕と遊んでくれて。家事とか色々、すごい頑張ってて」

 コビは出来るだけハキハキ答えようとしているようだったが、緊張が故に言葉が詰まることは多かった。ミケはついついその様子に違和感を覚えて口を挟もうとしたが、ニャンに睨まれ、つぐんだ。

「成程。では、蛙池さんの死体発見時、部屋に違和感はありましたか」

「違和感、というと...」

「例えば、部屋の様子がいつもと大きく異なっていた、蛙池さんの服装が明らかにいつもと異なっていた、などです」

「ええっと」

 コビは耳の裏あたりを掻きながら考えている。

 それにしても、動物というのはギャップばかりの生き物だとミケは思う。ここまでキリッとして、相手に威圧感を覚えさせるような見た目の彼も、中を見れば、とても気が弱くおどおどしたキツネだ。

 なかなかコビが答えを出せずにいるのでニャンはイライラして手元にあったペンをカチカチカチカチと弄り始めた。どうしてそれが、更に彼を焦らせてしまうということがわからないのだろうか。

「違和感は特になかったと思います」

 遂に彼はそう返事をした。ニャンは呆れた様子で

「本当に? 全く違和感がなかったのか?」

 と強く尋ねる。

「はい...本当に」

「本当か? 些細なことでもいいんだ。本当に些細な、細かいところでも」

「なかったです...」

「殺しが起こっているんだぞ? それで何も違和感がないなんてことはあり得ない。事件に関係ないと思われるようなことでもいいんだ、しょうもないことでもいいから、さあ」

「...わからないです、ない、なかったはず、です」

 どんどんコビの声に自信がなくなっていき、声も小さくなっていく。

 遂にニャンの方が諦めた。

「もういい」

「帰っていいですか? 宿題があるんです。期限も近くて」

「どうぞ」

 ニャンに返答する様子がなかったので、ミケは代わりに返答した。

 コビは二、三度頭を下げると逃げるように部屋を出て行った。


 最後に部屋に案内されたのは、象上ファン。近所の大きな病院で内科医をしており、その病院では結構の重役、実績もあり、患者への応対も良く評判が良い。ミケ自身も捜査中に軽い怪我をしたことがあり、その際は彼にお世話になった。

「そっちのお若い刑事。あなたのこと、何度か診察したことがありますね」

 ファン医師は部屋に入って、ミケの顔を見るなり言った。

「ええ、そうです。よく覚えておられましたね」

「まあ、そういう職業ですからな。接客業ですから」

 まあ大まかに言えば接客業ではあるのか。そういう意味では、刑事も接客業と言えるかもしれない。今こうして何匹かに接客をしている。

「お座りください」

 ニャンがイライラした様子で言った。

「ありがとうございます」

 ファン医師はヨッコラセ、と椅子に腰を下ろす。

「いくつか質問に答えていただくのですが...まず、少年たちに部屋の戸をノックされた時、あなたは何をしていましたか」

「確か、書類の整理をしていたと思います。空気が良かったので窓際で、窓も全開にして。ここ数日は体調を崩していて、やるべきことが溜まっていましてなぁ」

「成程。事件発生時何か違和感はありませんでしたか」

「特に違和感はなかったような」

 ファン医師は頭をコツコツ叩き、思い出すような仕草をしている。

「では、少年たちの様子に何か違和感は?」

「あんたら、まさか、ゲロくんとコビくんを疑ってるのか!」

「アリバイの確認が取れるまではなんとも」

 ニャンは冷淡にそう言う。

「彼らはとてもいい子だ。生まれた時からわしは彼らを知っている。優しくて元気で明るく、仲の良い。兎に角、殺しを行うような子ではない」

 ファン医師はゆっくり、そして強くそう主張した。

「一参考意見として頭の片隅に置いておきます。それで、少年たちの様子はどうでしたか」

 ニャンは全くペースを崩さない。彼の中ではあくまで、老象の戯言として受け入れられているのだろう。

「焦っている様子ではあったが。だがそれぐらいで。別に違和感はない」

「服装も?」

「当然です」

「成程。ならいいでしょう。死体発見時、部屋に何か違和感は?」

「特に、ないですが」

「本当に?」

 ニャンはペンでファン医師を指しながら念を推す。

「そもそも、蛙池さんの書斎に入ったことがないんで」

「確かにそうですね」

 ニャンはそう言って、立ち上がった。事情聴取を終えるつもりなのだろう。しかし、ミケは聴きたいことが一つあったので、手帳にメモを取る手を止めてファン医師に尋ねた。

「死体発見時、部屋の窓は開いていましたか」

「空いていました」

「成程。ありがとうございます」

「ご協力ありがとうございました」

 ニャンはそう言って頭を下げた。ファン医師は、それに返事するように頭を下げ、ミケに向かってもう一度頭を下げて部屋を出た。

 ファン医師が部屋を出て行くとすぐにニャンが

「死体発見時部屋の窓が開いていた。この事実をどう捉える?」

 と尋ねてきた。ミケはまだ考えが纏まってなかったので、椅子に座ると、考え込むように黙る。

「こういうことで結果を残さないでどうする。事情聴取も碌にできないお前に出来ることなんて頭を使うことだけだろう」

 その通りでございます、と内心呟きつつ、ミケは必死で考える。

「一つ単純な可能性があるだろう」

「え?」

「鳥類による犯行であるという可能性だ。鳥類ならこの高所からも怪我なく降り立つことができる」

 ニャンは自信ありげに、そして、そんな単純な回答をすぐに導き出せないミケを馬鹿にするように言った。

 しかし、ミケは分かっていなかったのではない。その可能性は低いと、とっくに考えているのだ。

 ミケがそう考えたのは、ファン医師の証言からだ。彼は、窓を全開にして作業をしていたと言っていた。つまり、もしこの犯行が鳥類によるものであれば、ベランダを飛び出し滑空しているところをファン医師に見掛けられかねない。

 そして、安全のためある区域以外での鳥類の飛行は禁じられているので、ファン医師が空を飛んでいる鳥類を見かければ確実に違和感を抱くはずだ。

 ミケはこのことをニャンに伝えた。

 ニャンは自分の説がすぐさま(しかも、先程から失敗ばかりしているミケに)否定されて苛立っていた。

「しかし、真下に向かって飛んで降りればファン医師の視界に入ることもないだろう」

「いくら鳥でもそんな降り方をするのは危険です。失敗すれば昇降する前に地面に当たりお陀仏ですよ」

「では、逆に聞くが、こんな犯行、誰なら可能なんだい?」

「それは...」

 ミケは鳥類の犯行説については考えたが、それ以上は考えられていない。

「自分の意見もないのに俺の意見を否定するとはな。よく考えてみろ、鳥類は羽で羽ばたくんだから、当然腕の筋力も強いだろ。だから、首を切り落とすのも可能だ。ほら、うまく事象同士が結びついたじゃないか」

 ニャンは自信げに言う。ミケはとりあえず何も言わないでおくことにした。それだけの情報で容疑者を絞っていては誤認逮捕しかねないと言いたいのを堪えて。

「被害者と関係の深い鳥類に当たれば、自ずから真相わかるはずだ。お前は少し頭を冷やせ」

 ニャンは嘲笑して、会議室を出て行った。

 蝉がけたたましく鳴いているのが聞こえる。もう六月、梅雨が開ければ暑くなってくる。今のうちに冷たいものでも買い込んでおくか。

 ミケはぼんやりそんなことを考える。


 憂鬱な表情でマンションを出ようとすると、不意に前の方で誰かの話し声がした。ミケは職業柄そういったものには敏感でひっそりと聞き耳を立てる。

「死んでくれてせいせいしたよ」

「すげえこと言うなお前。まじかよ」

「そういやお前父親と仲悪かったな」

 複数名の会話だ。一匹のこのくぐもった声は聞き覚えがある。

「まず、あいつは俺にゲロなんて名前をつけた。汚い。ゲロだぜ? ゲロ。口から出るあの汚い物質と同じ。クソって名前をつけられたみたいなもんだ。ふざけんなよ。そんな汚い名前付けて子供が喜ぶとでも思ったのかよ。んで、なぜこんな名前にしたか聞いたら、ゲロゲロと元気に鳴く子に育ってほしいだってふざけんな。ゲロゲロと元気に吐くの間違いだろ。あの、クソキモ親父は、死んでくれてよかったわ」

 被害者蛙池ヒキの息子蛙池ゲロの声だ。特徴的なくぐもった声が特徴的な上に、会話の内容からもそう推測できた。

「もしかして、お前が殺したの」

「いや、俺はやってない。そもそも、コビ、お前とずっと居たんだから俺にアリバイがあるだろ」

「うん、まあ」

「けどよ、お前は中学生の頃名前でいじめられてたんだろ。十分すぎる動機はあるじゃねえかよ」

「だからって親は殺さない」

「そうか? 刑事に正直に打ち明けたら罪軽くなるかもよぉ」

「はぁ? やってねえつってんだろ」

「自首したら死刑にならないかもよぉ」

「何で俺が親殺すんだ。殺したら孤児になる」

「まあそりゃそうか」

 ここでこの話は終わり、ゲロら一行は何処かへ歩いて行った。

 蛙池ゲロ、被害者の息子。彼には父を殺す動機がないと思われていたがそんなことはなかった。


 事情聴取後、もう一度ミケは事件現場に立ち寄った。調べ忘れがないか一応確認をしておきたかったからだ。

 そして、その時、気になるものを見かけた。

 事件現場の死体の脇にあったタペストリーに何かが付着している。真っ青のタペストリーに、ピンク色の毛玉が付いているのだ。ピンクの毛玉なのでよく目立つ。だが、鑑識は死体の方に気が取られるあまりつい見逃したのだろう。

 ミケは胸ポケットからポリ袋とピンセットを取り出した。ピンセットで丁寧に毛玉を挟み取り、風で飛ばないようにがっちり抑えながら、ポリ袋の中に入れる。

 これは何だろう。ピンク色の毛玉であることに間違いはないのだが、何の一部だろう。少なくとも、壁のタペストリーに元々付着していたものであるわけはない。もしかしたら、事件に関係があるのかもしれないので、ミケはそれをポケットの中に入れておき、後で頼りにしている科捜研に回すことにした。


4


 アイスを買って、家に帰り、スーツを脱ぎながらテレビをつけた。ちょうどつけたチャンネルでは主婦向けのニュース番組が放映されている。

 特に興味もない話題だが、時間潰しに、と着替えながらそれを見ていると、画面に見覚えのある者の顔が映った。蛙池ヒキの生前の写真だ。

 ミケは慌てて、テレビの音量を大きくする。ここ最近は歳のせいか聴力にも衰えがあり、音量のメーターが三十に達したところでやっと鮮明に聞こえるようになる。

 ニュース自体は確認しても、既に警察が知っている情報しか出てこないのだが、メディアがどう報じるかは今後の警察側の行動にも大きく影響を与える。

「蛙池ヒキさんは、自宅の書斎で作業をしていたところを襲われたということです」

 ニュースキャスターの猿が嫌に淡々と告げる。画面の右上に「西磐市の首切りジャック」と表示されている。この事件はメディアや世間からはそうやって呼ばれているのか。

「また、死体発見時、書斎の鍵は中から閉められており、ベランダに通じる窓だけが全開になっていました。しかし、そのベランダから室内に戻る窓は書斎にあるもの一つだけで、現場を見る限りはベランダから飛び降りて脱出を図ったと推測されます。現場は二十二階であることから、飛び降りて生き残ることは困難だと言われており、警察は鳥類による犯行と見て捜査しています」

 そこで、この事件の話は終わり、国会の討論を報じるニュースに移った。

 成程。メディアも死体の状況は流石に報じないでいるようだ。そして、警察の捜査方針としては、ニャンの打ち立てた仮説ということに...。

 ミケはテレビを消して、私服に着替えると、適当に財布や時計を持って、家を出た。

 メディアが鳥類による犯行であると報じたことは実は結構辛いことである。何故なら、その推理は間違いである可能性も大いにあるからだ。このニュースを殺害者が見ていれば、警察の誤った捜査に調子に乗るだろう。うまく、騙すことができた、と。

 もし、無差別に殺しを行う殺し屋だとすれば。事件がまた起こりかねない。それを阻止しなければ、とミケは自分に責任感を持たせる。今までもこうやってやる気を起こさせてきた。今回もそうやってやる気を出すしかない。


5


「そうですか。ありがとうございます」

 ミケが頭を下げると、男はイライラした様子で強く扉を閉めた。

 これで、四階コンプリート。二十一階まではまだまだ遠い。

 エレベーターで次の階へと移動する。とりあえず、ここまでの八匹は鳥を目撃していない、あるいは、事件のあった時間、外を見ていなかったと言っている。一階と二階は公共の場で、自転車置き場や会議室が設置されている。今日、警察が利用した会議室もその一つだ。なので、一階と二階を除く、二十一階までの住民全員に鳥類の目撃情報の確認を取らなければならない。

 流石にミケだけでやることは不可能に等しいので、今回の『蛙池事件』の捜査班のメンバー数名にも手伝ってもらう。

 エレベーターを降り、今度は五階。一つの階に十部屋あるので、調べるのは手分けしても骨が折れる作業だ。

「よろしくお願いします」

 興味深い発言が聞けたのは、504号室。出てきたのは若い女性だった。

「はい?」

「警察です」

 ミケが手帳を見せると、彼女は怯えるように少し縮こまった。その様子はとても可愛らしく、ミケの胸もついキュンとしてしまう。ただあくまでこれは仕事だとミケは自分に言い聞かせ、話を進める。

「警察の方が...ああ、あの、蛙池さんのところの酷い事件のことですか」

「そうです。それについて少しお聞きしたいことが」

「でも、ここは五階ですよ。五階では...その何の情報も」

「いえ、その」

 ミケはついたじろいでしまう。それを彼女は心配そうに見つめてくる。

「今日のお昼頃、つまり十四時から十四時半ぐらいですね。その間に窓の外を見た、或いは、ベランダにいたということはありますか」

「丁度その時間帯は洗濯物を干したので、ベランダの外にいました」

 それを聞き、ミケは心の内でパチンと指を鳴らした。この時間帯に洗濯物を干す主婦は多い。つまり、目撃情報もより正確に、より得やすくなってくる。

「ベランダで何か見かけましたか?」

「何か...というと?」

「鳥類だと思われる生き物などです」

「見ていないです」

 彼女は首を振る。

「では、何か違和感を覚えたりは」

「うーん」

「何もなかったですか?」

 ニャンのように責め立てる口調にならないように意識して再度尋ねる。

「いえ、実は一つ。何か、何かが落ちていったような気がするんです」

「何か、ですか」

「しっかりと見ていなかったので覚えてはいないんですが、明るい色のものが、パッと落ちていったような気がするんです」

 明るい色の物...? 少し気になる。

「それはいつ頃ですか」

「時間は覚えてないです、すいません」

「いえ、いいんです。ご協力頂きありがとうございました」

 ミケは頭を下げた。彼女はいえいえと優しく返事をすると、扉を閉めた。

 ああ、長めに時間を使い過ぎてしまった、ミケは時計を確認して後悔する。しかし、あそこまで綺麗な子に会うとついついそうなってしまうのだ。結婚してしまいたいぐらい可愛い。まあ結婚は出来ない、彼女は犬、ミケは猫なのだから。


 そうして調査が終わったのは何時頃だろうか。流石に十八時頃に訪問するのは不躾だと考え、ミケは途中で打ち切った。まだ四分の一ぐらいは話を聞けていないが、それでも結構有益な情報を得ることができた。この事件の捜査の指揮を取るニャンに早く報告しなければと思っていたミケだが、ミケから話しかけるのではなく、相手からこの件について聞いてきた。

「何か調査していたと聞いたが」

 中央動物警察署の廊下ですれ違いざまにニャンが言った。背後に一匹、この事件を担当する別の刑事がついている。

「すいません、許可なくやって」

 この程度なら無許可でもいいだろうと、ついつい無許可でやってしまったのだ。

「それはいいから」

「余計なことしてすいません」

「余計? 捜査に余計なことなどないだろう。何かしらにはつながるはずだ。そんなことより、早く、調査の内容についてだ」

「簡潔に言うと、マンションの住民たちに事件発生時のことを尋ねていました」

「どうだった」

「幾つか興味深い点があったのでお伝えします。事件のあった部屋の真下、つまり各階の四号室の住民の一部と、503号室の住民は何か明るい色の物が落ちていくのを目撃しています」

「明るい色...?」

「赤っぽいと主張する者もいれば、白っぽいと主張した者もいます。そこは多様なんですが」

 ミケは興奮気味に伝える。

「成程。他は?」

「これで、事件を起こした者はおおよそ鳥類でないということが確認できました」

 ミケがそう伝えた時、ニャンの顔の体毛が僅かに逆立った。逆立つのも無理はない。

「その理由は?」

「まず、鳥類の目撃情報がないことです。ベランダから外を見ていたという二十名程全員が鳥は見なかったと断言しています。更に、マンション周辺に鳥の羽も落ちていませんでした」

 ミケは怯えつつも、全てを伝えた。ニャンは怒るか、あるいは取り乱すだろうか。しかし、ミケは取り乱したりはしないと分かっている。

「だが、偶然、誰も目撃しなかったという可能性はあるのではないか?」

「確かにその可能性は否定できません。ですが、わざわざ誰かに目撃される危険性のある昼間を選んで事件を起こすでしょうか。夜に行えば良かった話」

「ただ、夜なら夜目が聞きにくいし、夜目が効く鳥ということで限定されるだろう。それを避けたのではないか」

 着実と言い返してくるが、ミケはそこまで既に推理している。

「なら朝に行えばいい話。朝は起きている者も少ないので安全でしょう?」

 これには流石にすぐには言い返せずニャンは言葉に詰まったが、何とか

「もしかしたら捕まりたかったのかもしれな」

 と言うが、ミケはつい興奮してしまいそれに被せて

「ならわざと音を立てたり、何かしらの方法でバレようとするはず。密室に思われる現場を作ったりはしないのでは」 

 とトドメを指した。

「つまり、俺が唱えた鳥類による犯行という説は否定されたってことか」

「完全否定というわけではないですが、確率はとても低いと考えられます」

 ミケは穏やかにそう言った。ニャンは額を拭って、その場で考えるように動いた後、結論を出した。

「分かった。お前の言う通りかもしれない。しかし、この事件を起こした者が鳥でないとすると、現場は密室であったということになる。解決は容易ではない。より一層励むぞ」

 そう言って、立ち去っていくニャンの背中を見つめながらミケはほっと息を吐く。

 怒ったり、取り乱したりすることはないとは分かっていたが、途中言い返された時は流石に緊張してしまった。ミケも緊張してつい勢いが出てしまった所があり、ガツンと怒られるのではと思っていたが、ニャンはそんなことはしなかった。

 それは当然だ。ニャンは確かに厳しく、事情聴取も攻撃的でミケとは反りが合わない。

 だが、そんなミケをいつも自分のそばにつけ、タッグを組んでいるのだ。今回の事件も、ニャンは捜査を取り仕切るだけあって、他にも優秀な刑事を傍に置くことは容易だし、位の高いニャンに媚びて出世しようとする刑事も多い。そんな中から、事情聴取すら容易にできず、捜査の進行の邪魔をし、ニャンの語った推理を真っ向から否定してくるような物をそばにつけた。

 ニャンはミケの才能を認めている。現場の状況を的確に見抜くことのできる洞察力、思い立ったらすぐ動ける行動力、そして優秀な刑事であった両親を持ち葛藤しつつもその背中を追う努力。

 他の刑事はミケを疎遠にしがちな中で、ニャンは進んでミケを使っている。

 だから、ニャンはミケに「父のようになれ」なんてことは言わない。


 6


 生首切断の密室事件。通称、西磐市首切りジャック。世間はこんな大きな事件を放っては置くはずがない。

 翌日、ミケが移動中の電車でTwitterを開くと、早速「西磐市首切りジャック」がトレンドになっている。

〈#西磐市首切りジャック マンション202であった事件怖すぎ〉

〈西磐の首切り事件、おれんちの近くじゃん めっちゃ警察来てる〉

〈西磐在住。救急車通って行ったけど、これもしかして生首切断のやつ?〉

〈#西磐市首切りジャック いや密室事件とかドラマかよwww〉

〈#西磐市首切りジャック 今どきこんな事件あるんだなぁ〉

〈西磐の事件。被害者の子供、俺と同小〉

 といったツイートは、昨日に投稿されたもの。今日になって投稿されたものは

〈#西磐市首切りジャック 被害者の子供が殺したらしい〉

〈#西磐市首切りジャック 警察の者です。警察は捜査を打ち切りました〉

〈#西磐市首切りジャック 蛙池氏蘇生成功! 蘇った被害者が語った真実とは!? 動画は下記のリンクから!!!〉

 などという根も葉もない出鱈目のツイートが多かった。概ね、ある程度衝撃的な事件が起こればTwitterはこのように嘘が飛び交う場となる。しかし、数日すればこの事件のことを話題にする者などいなくなる。これが、Twitterという世界だ。

 しかし、Twitterにはとんでもない情報があって、事件の捜査を大きく進展させることがあるので、ミケは頻繁に自分の担当する事件についてエゴサをする。


 目的地に電車が着いた。ミケは電車を降り、足早に改札口に向かう。

 改札口のところで、今日の事情聴取を共にする女性刑事と合流する。

「遅いですよ、猫目さん」

 ミケは早速彼女に叱責され首を垂れた。

「申し訳ない。ちょっと電車が遅延してて、それで乗り遅れて...」

 しどろもどろに言い訳を並べるが、

「電車が遅延していたら、乗り遅れることはないでしょう。しっかりしてください」

 と簡単に彼女に見破られてしまう。

 彼女、音木クロは二年目の若い女性刑事で、おっさん刑事たちの人気者、能力も高いが、色気のおかげで信頼を得ているところもある。ただ、彼女は気が強く、色気を使っているつもりなど毛頭ないのだろう。名前の通り、黒猫で、黒猫独自の独特な空気がおっさん刑事の心を捕まえているのだとミケは分析している。

「早く行きますよ」

 クロはそう言って改札を出た。 

 気の強い彼女とうまくやっていけるか不安に思いながら、宇貝駅を出て真っ先に視界に飛び込んできたのは、田んぼだった。いや、田んぼ以外が視界に飛び込んで来なかったという言い方が正しいだろう。一面田んぼで、田んぼの脇に見える民家が田んぼではない唯一の物だろうか。田んぼ、奥に森。典型的な田風景だ。

 田舎すぎてさらにミケは不安になる。

 ミケはスマートフォンをポケットから取り出す。流石に圏外なんてことはなかったが、回線は悪く、Mapアプリは使い物にならない。

 クロは用意周到で、ポケットから地図を取り出した。

 とりあえず彼女の地図を見ながら、道に迷わないように二匹は慎重に進むことにした。しかし、田んぼばかりなので迷いやすい上、迷えば一巻の終わりだ。

「中央動物警察署のミケさんとクロさんですか」

 後ろから声をかけられて振り向くと、豚の男性が立っていた。鼻元に少しだけ髭が生えている以外何の特徴もなく、小太りの腹を汗臭そうな作業服で覆っている。

「もしかして...トンさん?」

「そうですそうです。いやーこんな不便な土地までよくお越しに。道に迷うかと思って、一応駅まで来てたんですよ」

「ああ、そうですか、それは助かります」

 ミケは頭を下げる。

「今日はよろしくお願いします」

 クロも頭を下げた。

「そんな堅苦しくしないでください」

 瓜内トン。蛙池ヒキの知り合いであり、事件数日前に殴り合いの喧嘩になっていることが判明している。この事件の容疑者。宇貝市で農業を営んでいる。独身の男性。

「さあ、案内します」

 トンの誘導に従い、二匹は彼の跡をついていく。

「ここら辺はちょっと前までは結構いたんですけどねぇ。ちょっと離れたところに大規模化学農業施設が出来て、そこでは安くで品物を仕入れられるようになりました。我々が手で汗水垂らして作った農作物よりあっちの方が美味しいんですよ、憎いことに。それっきり、どんどん住民がいなくなって。今となっては過疎ギリギリ、いやもう過疎ですな」

 トンははっはっはと渇いた笑い声をあげる。

「ほら、あそこ見てください」

 トンが指を指したのは大きいタワーマンションだった。しかし、遠目で見ても古びているのがよくわかる。根本は苔が生えているのか、緑色で、上の方は茶気味の白だ」

「今は誰か?」

 クロが自分の持っている地図と照らし合わせながら尋ねる。

「もう住んでませんよ。かといって取り壊しても代わりに建てたい施設もなく、ずっと残ってるんです。この地の過疎の象徴ですな。政府が原発を建てようとしてるそうですが、私らで団結して必死で止めてるんです」

 確かに、政府が目をつけそうな、原発にはもってこいの地だ。海も近い。

「どうにか過疎を食い止めんと」

 そう言った彼の目は本気だった。疲れで弱っているその眼にも火はまだ付いているようだ。

「海水浴場にする、とか」

「それがねぇ...。あそこはなぜか知らんが年がら年中猛毒クラゲの宝庫でね。危なくてそんなこともできないんですよ」

「ああ」

 ミケは気のない返事をした。彼には申し訳ないが、過疎地の過疎化については興味がない。

「地域再開発は今重大な問題となってきていますからね」

 クロは頷く。

「あのマンションは昔はゴージャスで綺麗で、結構高級マンションだったんですけどね」

 と、トンは先ほどのマンションを見つめてしみじみ言う。

「トンさんは農家をしていらっしゃると聞いているのですが。何を育てているんです?」

 ミケは話題を変えた。しみじみ話されると気まずい。

「主に人参ですかなぁ。人参は毎年安定して、兎の方々に購入してもらえるんでね。収入が安定しやすいんですよ」

 確かに、人参を育てるのは得策のようだ。ミケがまだ学生だった頃、兎の知り合いに勧められて行った、兎が営む高級料理店のメニューは人参料理で一杯だった。普通に人参を炙っただけのものや、マヨネーズに付けて食べるものだけではなく、人参を刻んで作った米で出来た人参や、人参ハンバーグなどという想像もつかない代物が並んでいた。味も悪くないのが驚きだ。

「ただ...安定はするんですけど、やっぱ金には...。最近は都市での「高品質人参量産装置」が人気で、手に汗流して作った俺らの人参は買われないんです」

 「高品質人参量産装置」と彼が呼んだのは、「人参の里」と呼ばれるAIを利用し、商品の質を徹底管理。食物の収穫も機械が行ってくれるので、従業員は毎日二、三匹が不具合がないかを見守るだけでいい(不具合は実際一度だけ起こったことがある。しかし、これは機械の不良ではなく、収穫装置が害虫に食い荒らされたためだった)。端的に言って、最強のシステム。それが、都市では一般的に成りつつあるのだ。

 雑談しているうちに、幾つか民家が立ち並ぶ場所に出た。その立ち並ぶうちの、民家を一つ指さして、トンは言った。

「あれが、うちです。結構長く住んでますな。都会のあなたからすれば結構見窄らしい物でしょう。ただ、ここら辺ではマシな方ですよ、家に見える家があるだけね」

 彼の皮肉っぽい言い方には腹も立たず、ミケは何だか自分が惨めに感じてしまった。クロは以前地図と風景を照らし合わせている。帰りは彼女に着いて行けば駅につけそうだ。

 彼の家の前に立つと真っ先に目に留まったのは、戸の脇に張り巡らされた蜘蛛の巣だった。

「昔はちゃんと処理してたんですがね。どんだけ掃除してもすぐできるもんだから最近は放ってるんです」

 トンは戸を開けた。戸がガラガラガラと音を立てて、ところどころ引っかかりながら開く。室内は、ミケが思っていたほどは汚くなかったが、しかし、自分の祖母の家を思い出すような、良く言えば古風な、悪く言えば古臭い見た目ではあった。

「では、本題に入りましょうか」

 トンに案内されたダイニングルームと思われる場所に遠慮気味に座って、少し間を置いてから、そう切り出した。ミケの脇にクロがちょこんと座り、対面に座るトンは、どうぞ、と目で合図した。

 ダイニングルームはこの家の外装ほど汚くはなかったが、刑事が来るから多少片付けをしたのだろうと思われる後もあった。ダイニングルームとリビングルームは同じ部屋に位置しており、リビングルームには小さな机とテレビが置かれており、数冊本や雑誌が床に散らばっている他は何もなかった。

「あなたは、蛙池ヒキ氏が殺されたということはいつ知りましたか」

「電話ですな」

「それは警察からの」

「まあそうです。ここら辺は電波もまともに届かないことが多いから、何度か着信に出ることができなかったかもしれませんが、そこはお許しください」

「では、蛙池ヒキ氏が殺される理由に心当たりは」

「十分ありますよ。あなたにも、あるんじゃないです? あいつは商売柄多少敵を作ってたし。あの、タバコいいですか?」

「それは...」

 だめ、とクロは言おうとしたのだろうが、ミケはそれを遮った。

「いえいえ、全然吸っていただいて構いません」

「ありがとうございます。ヘヴィーでね」

 彼はタバコをふかした。

「蛙池さんの敵があなたであったりは?」

「そんな」

 彼はやや狼狽えている様子だ。しかし、この程度の狼狽えなら、まだ判断できない。

「では、蛙池さんとの間に何かしらの大きなトラブルを抱えていたりは?」

「まあ」

 彼は曖昧に答える。

「では、蛙池ヒキさんと争ったことは?」

「それは」

 言葉が詰まった。普通の刑事ならそこで一気に責めかけて行くのだが、ミケはそんな乱暴なことができない。口を挟みたげなクロを制して、ひたすら彼の言葉の続きを待つ。

「少し前に...一回だけ」

 彼はぼそっとそう言った。

「それについて詳しく教えてください」

「詳しくって言われてもよぉ...」

「お願いします」

「その、ここら宇貝市の今後の発展について、投資とか何とか話し合ってたんだが...あいつが適当なことを言うから...」

「適当なこと?」

「膨大な金のかかる地域再開発プログラムを立てて、俺に印を押させたんだけど...あいつらは一切の支援もしてくれないようで。俺は、支援がないなら諦めるって言ったのに、もう印を押してしまったんでって言うんだ。新手の詐欺じゃねえか。あいつの魂胆はわかっている。地域再開発のプログラムで、どんどん俺らの金を無くしていき、どんどん住民がいなくなるように仕向け、最後はここら辺一体に原発を作るんだろ。当然そんなこと認めるわけにはいかねぇし、どうすれば今の印を無効にできるかって聞いたら、うちの社長の印がいるって言い出してよ。そこまではできるだけ冷静にしていた俺もふざけんなって言って殴ったんだ...」

 金銭トラブル、そして原発に関する企業住民間か。それを怨恨に、事件を起こした...十分あり得る。

「因みに、今はこのプログラムに関する話はどうなっているのですか」

「明後日、社長に取り入るつもりです。金を貸すか、俺の印を取消にするか。どうにかはしてもらわねばこちらも納得できん」

 トンは鋭い口調で捲し立てる。

「成程、概略は把握しました。ところで、話は変わるんですが、事件発生当日十四時ごろは何をされていましたか」

「何もせず、自宅にいました」

 アリバイはなし。動機、アリバイ、両方において条件が整っている。しかし、もし彼が事件を起こしたとすれば、どうやって、二十二階から降りたのか。

「わかりました。ありがとうございます」

 ミケは礼をして、トン氏の家を出た。


7


 クロは別に調査しなければいけない件があったので、宇貝駅にて彼女と別れた。真面目な彼女と別れて、ミケは一気に肩の力が抜け脱力した。


 そして、帰り道、電車の路線図の真横に表示されている夕方の時事ニュースにて、この事件のことが報じられていた。

「首切り事件捜査に進展」

 ミケはそのニュースを見て、もっとはっきり見るために思わず腰を浮かせた。進展? そういえば、今日はずっと宇貝市にいて、メールなども確認していないので捜査に進展があってもわからない。

「二十三日昼頃、蛙池ヒキさんが首を切断されて自室に倒れているのが見つかった事件で、現場が密室であったこともあって捜査は難航していた中、容疑者と思われる男が逮捕されました。逮捕されたのは犬内ドク、ヒキさんの勤める会社の社長でヒキさんとの間に金銭トラブルがあったとのことですが、ドク氏は容疑を否認しており警察の更なる捜査が注目されます」

 犬内...けんうち、あるいは、けんない、とでも読むのだろうか。ドクという名前からは性別はどちらとも言えないが、彼、あるいは彼女、がこんな突然逮捕されたのはどういうことなのだろう。

 ミケはお尻を浮かせ、スマートフォンをポケットから取り出し、新着メールを確認する。

 確かに一件、ニャンからメールが来ており、内容も、今ニュースで報じられたものと大方同じだった。ミケは、確認遅れてすいません了解です、とだけ返事を打ち込み、Twitterを開き、エゴサを始める。

 早速このニュースは、夕方のニュースで報じられたようで話題になっていた。「#西磐市首切りジャック」は相変わらずトレンド入り、「犬内ドク」でも結構な数の投稿がされている。

〈#西磐市首切りジャック 捕まった!!! よかった!!!〉

〈西磐の事件捕まるの早いな。もっと迷宮入りすると思ってたわ〉

〈西磐の事件即解決!? 日本の警察は流石だな〉

〈#西磐市首切りジャック あ、近所のおじさんだwww〉

〈西磐事件解決! 感謝!〉

 どんどん流し読みするうちに

〈犬内さんの友達です。犬内さんはこんなことするような方ではありません〉

 というメッセージで始まる、制限字数いっぱいに書かれたツイートが目に止まった。ミケは気になってそのツイートを読んでみる。

〈犬内さんの友達です。犬内さんはこんなことするような方ではありません。私は彼に何度も助けられました。私がお金がなくて困っている時、彼は助けてくれました。お金を貸してくれた上に、私が就職する手伝いまでしてくれました。とても優しい方で、虫一匹殺しません。私は署名運動をしようと思います。それでどうにかなるかはわかりませんが、恩を返したいです〉

 本当にこのツイートの投稿主が犬内の友達ならば、これはとても有用な情報になる。しかし、当然SNSというのはフェイクで溢れかえっているもの。彼のこのツイートが本当であるとは限らない。騒ぎに便乗して、大衆からの注目を集めようとしている者の可能性も大いにあるのだ。

 とりあえず、ミケは投稿主のアカウントを確認した。アカウントのユーザーアイコンは彼が家から撮った風景だろうか、雪が積もる公園の写真だ。とても風情があり、白景色と、やや禿げた赤い鉄パイプの柵が相まっていい味を出している。

〈ズーの日常垢〉

 日常垢。垢とはアカウントのこと。日常アカウントとは、日常であった出来事を写真や動画と共に投稿するようなアカウントのこと。

 続いてプロフィールに目を通す。

〈シマウマの会社員です。疲れを紛らわすために投稿しています。よかったら見て行ってください〉

 そして、過去の投稿を確認。

 ミケが見ていく限り、「バズり」狙いの嘘の投稿などは一切見られなかった。いいねの数は一つの投稿あたり一、二個。一個もないものもある。リプライが返ってきているツイートもほとんどない。リツイートもほとんどされていない。

〈犬内さんの友達です。犬内さんはこんなことするような方ではありません...〉で始まるあの投稿のみ、いいねが1.3Kつまり、千三百。リプライの数も百を超える。またリツイートも結構な量。そのせいで、彼のフォロワーも千を超えているようだ。

 しかし、もう少し事実確認をしたいので、この投稿へのリプライも確認する。

〈署名でどうにかなるものなのか?〉

〈バズり狙い乙〉

〈お金貰っただけで判断するのか。じゃあ俺もお前に金やるわ〉

 批判リプライのようなものも見られたが、多くは

〈犬内さんは上司です。とてもいい方です〉

〈というか、現場の密室突破方法も警察わかってて逮捕してるんだろうな?〉

〈雑逮捕乙〉

〈署名運動をするなら手伝います。無実なのに捕まるのを見てはいられません〉

〈いい方(感動)。警察クソやん〉

 という誤逮捕であると決めつけて警察を批判する投稿や、犬内を庇う投稿が占めていた。近いうちに〈ズーの日常垢〉の中の者に話を聞くのが良さそうだ。もしかしたら何かとても有用な情報を持っているかもしれない。被害者を恨んでいた者の情報だけでなく、密室での殺害がどのようにしてやり遂げられたのかに関する超重要情報までも。

 そんなことを考えながらミケがエゴサを続けているともう一つ気になるツイートが視界に飛び込んできた。

〈#西磐市首切りジャック 重要な情報を掴んでしまったかも〉

 これが事実であるかはわからない。しかし、これもまた有益な情報である可能性が高い。だが、釣りであるようにも見える文面で、怪しいのもあり、先ほど同様にアカウントを確認する。

〈猿岩エン 『西磐がいっぱい』の司会〉

 猿岩エン? キャスター? 聞き覚えがある。『西磐がいっぱい』は確か、西磐市のローカル地元取材番組だ。地域密着型の取材番組だが、西磐市が都会であったこともあって、結構な人気を博している。学校取材、企業取材、娯楽施設取材を行うというもので、結構面白く、暇な時にミケも見ることがある。そうだ、猿岩エン。あの、抑揚をつけた喋り方が特徴的なキャスター。ミケが生まれた頃から、『西磐がいっぱい』では司会を務めている彼だ。

 そんな彼の情報なら信用できる。彼にも折を見て署まで来てもらうか、いやこちらから出向いてもいいか。

 その後もエゴサを続けたが、これ以上は何も情報になるツイートは見つからなかった。電車は、宇貝市を出て、西磐市に入っており、ミケの降りる駅までもあと数駅ではあったが、ミケは疲労と今後への一抹の不安のせいで、眠ってしまった。 ぼんやり、閉じようとしている瞼と瞼の間に腕時計が見える。十八時過ぎか...。署には二十時に着くように言われてるから余裕はあるな、そう考えてしまったのはミケの呑気なところだろう。

 

8


 ニャンからこっぴどく叱られた後、ミケはあくびを噛み殺しながら、犬内の取り調べの様子を見にいく。眠気には猫は勝てないものだ。

 昨晩、ミケは寝過ごしてしまい、終着の武宮駅に着いたところで目を覚ました。その時点で時刻は十九時半を回っており、ミケは慌てて電車で道を遡り、中央動物警察署に辿り着いた頃には二十時半になっていた。

 ニャンとクロが呆れ顔でミケを迎えてくれた。

「本当に。何食ったらこんなことになるんだ。まさか酒なんて入ってないだろうな」

「昨晩は鯵を食べました」

 と、またついついいらないことを答えてしまい、この返答もニャンを苛立たせてしまう。最早、どうしようもない。

「もっとしっかりしてくださいよ」

 クロにダメ出しされる。

「反省はしてるんだな」

「以後気をつけます」

「では、お前には罰として」

 ニャンは取調室のすぐ近くまで着くと両手を腰に当てて言った。廊下の掃除とか、書類の整理とか、そういった雑用を押し付けられるんだろうな、と思っていたミケだったが、ニャンが押し付けた仕事はそれらよりも遥かにしんどいものだった。

「犬内の取り調べ。お前がやれ」

「それは流石に...」

 自分には到底できる話ではない、そう続けようとしたが、ニャンはイライラしたまま立ち去ってしまった。

 ミケはどうしようどうしようどうにかして逃れられないか、と考えながらサボることができないのは自分が一番わかっており、溜息をついた。

 容疑者ではあるものの、自分は犬内逮捕には殆ど絡んでいないため、彼の性格はいまいちわからない。唯一、〈ズーの日常垢〉の投稿が当てになるが、それしか当てになるものはない。

「よろしく」

 ミケが作って重々しい声色で取調室に入ると真っ先に犬内が勢いよく無実を主張してくる。

「私はやっていません、本当です。金銭トラブルは確かにありました。金の貸し借りで少し揉めたこともあります。しかし、殺しなんて私にはできません、本当です」

「とりあえず黙って座るんだ」

 ミケは興奮のあまり立ち上がり、ミケに縋り付いて話す彼を椅子に座らせた。ミケは深呼吸してから、椅子に座る。

「まず、六月十日十四時ごろ、あなたは何をされていましたか」

 つい敬語になってしまう。

「えっと...十日と言われても」

「事件があった日です」

「その日なら、家でテレビを見ていました」

 アリバイはない、ミケは脳内にメモする。後ろから、筆記役の別の刑事がパソコンに書き記している音が聞こえる。

「では、金銭トラブルに関しては認めますか」

「認めます。金銭では揉めていました。いかんせん、会社の社長と社員の関係で、しかもそんな大きい会社でもないので。なので給料やお金の使い方で何度か」

「では、ヒキさんを殺した容疑者として思い当たる者はいますか」

「...すいません、いません」

 彼はどんどん自分を不利にしていく。ミケは流石に心配になり、ついつい

「今の情報だけ見ればあなたが殺したということになります。他に何かあなたは自分の無罪を主張できるものがありますか。何でもいいです。どんな些細なことでも何でもいい。このままではあなたは有罪となり、刑を受けることになります。無罪を主張するなら、無実を裏付けることが必要です。兎に角、何かを出さなければ、あなたは...」

 と必死になって捲し立ててしまった。ミケがそれを伝えている間、頭の中には電車で見た〈ズーの日常垢〉のツイートしかなかった。それに縋り、ある種の賭けをするような気持ちだった。

 しかし、彼は首を振った。

「わかりません。このままでは私が不利になることはわかっています。でも、無理なんです。何もないんです」

「些細な、本当に小さなことでも、何もないんですか」

「はい」

 彼は諦めたように言った。だが、その様子がミケに、彼は殺していないという妙な確信を更に抱かせる。

 ミケは最初は彼に伝えないでおこうと考えていた〈ズーの日常垢〉のツイートのことを彼に伝えることにした。彼はもしかしたら、もう自分の無罪を証明する方法はない、と諦めているのかもしれない。彼のぺたんと元気無く垂れた耳や、放心状態にあるのか虚ろに見える目はもう活力を失っている。警察の厳しい取り調べを受ければ、すぐに罪を認めてしまうだろう。だが、ここで自分の友達が助けようとしてくれていると分かれば、彼は希望を持ち直してくれるかもしれない。彼が粘っている間に真相を見破れば。誤認逮捕を避けられる。罪を被るべきでないものが罪を被るような理不尽なことは避けられる。

 ミケはそう考えつつ、どこかに偽善的な思いはあった。しかし、偽善が誰かを救うなら別にいいではないか。 

 ミケは「〈ズーの日常垢〉というアカウントを知っていますね? 彼は今、あなたを救うために署名活動を行なっているそうです」と切り出そうと口を開いた。それをわざと妨害するようなタイミングで

「おい、猫目。ちょっとこっち来い」

 ドン、と力強く取り調べ室の重い扉が開けられた。嫌な金属音少しと耳を塞ぎたくなる大きな音が響く。

 ミケは思わずみっともなく肩をすくめた。

「何ですか」

「とりあえずこっち来い」

 振り返ると、ニャンが鬼ような形相で立っている。毛も逆立ち、全身から発せられる怒りはミケの目にもよくわかった。

 ミケは犬内に弱々しく礼をして、すごすごと取り調べ室を出た。ミケが部屋を出るとすぐ、ニャンは、ミケを挟み殺してしまうのではという勢いで扉を閉めた。ミケはそれを見て更に恐怖に襲われる。

「何やってるんだ」

「え」

「なぜ犬内を庇っている」

「いや、庇ってなど...」

「では、なんで些細なことでも思い出せと」

「それは...誤認逮捕を避けたいからです」

 ミケが正直に気持ちを吐露すると、ニャンは薄く笑って

「何を言ってるんだ。誤認逮捕などあるはずないだろう。ここまで証拠も揃っていて誤認逮捕? そんなこと俺の経験上は一切ないぞ」

 と否定する。ミケは否定されたのも癪なので

「ですが、実はTwitterにて情報があって」

「お前はまだそんなSNSでエゴサしているのか。それで何か事件の重大証拠でも見つかると思っているのか。SNSとは所詮、自分がいかに目立つことができるかだけを考えているような連中ばかりだ。事実だけのツイートなど見つけるのが至難の業、時間と労力を必要以上に食う。俺の経験上あんなものは信頼ならない。お前もわかっているだろう。お前は才能はあるのかもしれない。事実頭は俺なんかよりよくキレるし、俺なんかより冷静だ。だが、お前は正直すぎる。手間を惜しまず、泥臭く、そんなことは刑事に必要ない。取り調べでキツくあたるのが可哀想? 刑事は兎に角嘘でも真でも誰かを捕まえなければならない仕事なんだ。お前はこの仕事をした数年で一個もそれを学ばなかったのか。刑事は生活がかかってるんだ。お前は独り身でも、俺は違うし、この事件を捜査する他の刑事も違うものがいる。刑事ってのは集団戦だ。皆、手柄を立てて上に上がりたいんだ。金のためにな。だから、勝手なことされると全員に迷惑がかかるんだ」

 ニャンは怒っていた。そして、多少取り乱していた。しかし、言っていることは間違いではない。刑事の仕事は「事件を起こした者」を捕まえること。捕まえる対象は誰であろうと構わない。誰かしらを逮捕して、世間を安心させる。それがこの仕事なのだ。

「で、Twitterがどうした」

 取り合って貰えないのだろうと肩を落としていたミケだったが、ニャンは話の通じない上司ではなかった。

「えっと」

「情報は多いに越したことはない」

「では。Twitterにて二つの違和感のあるツイートがあったんです。片方は犬内さんの無罪を主張し、署名活動を行おうとしている者で。もう片方はこの事件に関する重大な情報を持っているというツイートで」

「署名活動? うーん。署名活動などをされると警察の権威に関わる。我々が、しかも中央警察が間違えているなどと言う署名活動をされては、警察の信頼が落ち、国の安全性が揺らぎかねない。来週にでも呼んで、署名活動を中止するように交渉しよう」

「もう片方はどう思われますか」

「重大な情報を握っている? デマに決まってる。バズり目当ての輩だ」

「実は投稿主が...猿岩エンなんです」

「猿岩エン?」

 ニャンは眉を顰めた。やはりここら辺では有名なキャスターだ。

「そうです。嘘をつくとは思えないでしょう?」

「ああ...それは、そうだ。なら、両者とも来週中に呼んで話を聞くことにしよう。重要な情報の中身次第では捜査に新たな進展を、いやこの密室の謎を解明できるかもしれない」

 ニャンはそう言って足早に歩き去って行った。

 彼はミケをやはり理解している、ミケはそう思い、改めてニャンに感謝するのだった。

 

 一旦取り調べは中断することになった。とはいえもう十時を過ぎており、外は真っ暗。昔は猫も夜行性だったが、今となっては猫は完全に昼型。昔夜行性だったことは学校で習ったものの、やはりピンとこない。他にも、進化の過程で二足歩行になっただとかピンとこないことばかりである。しかし、昔の猫と今の猫が変わらない点は当然見た目だ。

 ミケは帰宅して眠ることにした。来週には、〈ズーの日常垢〉と猿岩キャスターを呼ぶことになる。そうなってくると、今より忙しくなってくるのは必然だ。ミケはその時のことを考えて、不安と高揚感に包まれながら、清々しい眠りの世界に入って行った。


9


 月曜日。新たな一週間が始まるのだが、ミケからすればそれはただ明るい未来があるだけのことではなかった。

 体を起こしたくても、中々眠気が付き纏ってきて、ミケは寝転がりながら髭をいじる。髭をいじっていると催眠術にかかったかのようにまた眠たくなってしまう。

 仕方なく、重たい体に鞭打って起き上がると、枕元に置いていたスマートフォンに通知が来ている。

『〈ズーの日常垢〉さんからメッセージが来ています』

『〈猿内エン 西磐がいっぱいのキャスター〉さんがメッセージが来ています』

 昨晩のうちに送っておいたTwitterのダイレクトメッセージにて返事が返ってきている。早めに送っておいてよかった。

 まず、〈ズーの日常垢〉の方から確認する。その頃にはミケの重たかった体も目が覚めつつあった。

〈警察の関係者の方にこのツイートを見てもらえるとは...! 私は犬内さんに殺害など行うことはできないと思っています。今すぐお話をしに参りたいんですが、職業柄中々平日に休むことができなくて。木曜日は仕事がないので、今週木曜日に伺ってよろしいでしょうか〉

 という内容だった。中々休めない仕事というと、公務員か何かをやっているのだろう。

 ミケはもう完全に目が覚めて、すぐに返信をする。

〈よろしくお願いします。では、水曜日の八時ごろに、中央動物警察署に来ていただけると助かります〉

 中央動物警察署は首都圏でも特に際立って目立つ縦にも横にも長く、大きな建物なので流石に場所はわかるだろう。

 そして、今度は猿内エンとのTwitterのダイレクトメッセージを確認する。

〈出来るだけ早くお伺いしたいのですが、キャスターというのは中々忙しくて...。DMで要点をお伝えしても良いのですが、内容が内容なので直接会ってお話ししたいです。今週の木曜日の午後一時、二時ごろは空いているので、そこでお会いする形で宜しいでしょうか〉

 すぐに返事を返す。

〈了解です。午後一時以降に来てください。中央動物警察署にてお待ちしております〉

 一通りやりとりが終わり、ミケは一息ついた。また一息つくと眠気が襲って来る。今日は事件現場の再確認などを行おうと思っていたのだが、まあ午後からだし、寝てしまってもいいか。そのまま寝てしまっても、一日ぐらい仕事を忘れて休んでも良いのではないか、ミケは甘い誘惑に駆られてそのまま眠ってしまおうとしたのだが、けたたましい着信音で強制的に目を覚まさせられる。

 ミケは慌ててスマートフォンを再び握り、応答する。

「おいミケ起きろ」

 電話をかけてきたのはニャンだった。剣幕は相変わらずだが、別に今は怒っているわけではなさそうだ。

「はーい、起きてます」

「例のTwitterのとは連絡がとれたのか」

「はい、問題ないです。猿内さんは水曜日に、〈ズーの日常垢〉さんは木曜日に来られるそうです」

「よし。では、お前はこっちまで来てくれ」

「えぇ。現場に行くのは午後からですが」

 ミケは怠そうに言う。

「現場を見に行く前に、ついでに寄りたい場所ができたんだ」

「寄りたい場所?」

 怠そうに続けるミケの目を覚ますためかニャンは大声で

「蛙池ゲロの通う学校に、だ。では、西磐第二学校で会おう」

 と言い、電話を切った。電話が切れる、ポロロォンという音は確かに耳に入ったのだがミケは固まったままだった。

「あああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ」

 睡眠時間を邪魔されることはミケにとってはとても最も不快なことなのだ。


「来たか」

 西磐第二学校の校門に着くと、ニャンが一匹で立っていた。オーバーコートを羽織って、両足重心でがっしりと立つその様子は第三者から見ても、警察の者だとすぐわかる。

「何かあったんですか」

 走ってきたのでミケはぜえぜえと息を切らしていた。

「蛙池ゲロと西狐コビにもう一度話を聞く」

「しかし、なんで。そして、どうしてそんなに急いでるんです?」

「返答次第では即警察に引っ張っていくかもしれない」

「え」

 ミケが眠っている間にそんなに事件が進展していたのだろうか。

「よく考えてみるんだ、密室という大きな謎と、被害者が恨みを買っていたことのせいで、考え忘れていたことがあるだろう。第一発見者が殺した。ミステリー小説では定番のことだろう」

 そう言われ、ミケの脳裏にパッと浮かんだのは、事件当日の事情聴取後のゲロの声だった。ゲロは名前をコンプレックスに感じていて、それを原因のいじめを受けたこともある。これは十分な殺害に至る動機だ。

「でも、二匹は買い物に」

「だが、買い物をしていたという確かな根拠はないだろう。すぐに買うものだけ買って、どちらか、あるいは両方が引き返して、ヒキ氏を殺したのかもしれない。そして、今回の密室も、身内による犯行だとすれば、理解できる部分があるだろう」

「被害者の子供なら鍵の在処を知っていたかもしれない...」

 ミケは呟く。これは完全に盲点だった。何処かで、第一発見者が殺したというケースはあり得ないと否定してしまっていた。

「行くぞ」

 ミケはニャンについて学校に入っていく。校庭で体育の授業を受けていた数名の生徒...パンダと狐と、狼だろうか、がこちらを不思議そうに見ている。ミケはついつい小さく会釈をしてしまいながら、事件の捜査の進展を感じ、心高鳴る。


「蛙池ゲロさんにお話しがあるのですが」

 職員室にて、パソコンと向かい合って唸っている教頭と思われる教師にそう言うと、ゾウの教頭はギロリとこちらを睨み返した。

「どなたですか」

 明らかに仕事を邪魔されて不愉快に思っているようだ。だが、それをニャンは睨み返して

「警察のものです」

 ニャンとミケは揃って警察手帳を見せた。教頭は、突然、その巨体に似合わない弱腰になり

「うちの生徒に何か...ああ、もしかして、蛙池さんの」

 とボソボソ言う。

「そうです」

「すぐに案内します」

 教頭は緊張した面持ちで言った。ミケとニャンは後を続く。

 廊下も階段も特に乱れた様子はなかった。廊下から教室の様子を覗いたが、授業崩壊しているということはなく、一部の生徒は授業を聞いておらず、眠っていたりはするが、まあ普通の学校といったところだろう。

 「10組」に着くと教頭は教室の戸をノックして、入り、担任教師と少し会話を交わした後、蛙池ゲロを連れて廊下に戻ってきた。

 蛙池ゲロの様子は以前と変わらずだった。少し出た腹、カエルらしいギョロ目。服装は相変わらずのエンジニア味の溢れる、黒と何かの英単語。IT系の業界用語なのだろうか。

「ゲロくん、少しお話を聞いていいかな」

 ミケは相手を怖がらせないように、優しく言った。ゲロは授業に退屈していたのかぼんやりした様子で頷く。


 学校の面談室を一部屋借りて、事情聴取が行われた。教頭は、生徒の秘密を守るためにも、面談室の外で待機させる。

「嫌な事を思い出させてしまいますが...お父さんの件で」

 ミケはできるだけできるだけ、相手を興奮させないように、落ち着いて言う。

 ニャンはそんなミケをもどかしそうに見ている。彼のスタイルには当然合わないだろう。

「大丈夫です。どうかされたんですか」

「コビくんとずっと一緒に買い物をしていたのかい」

 ニャンがそう尋ねるとすぐにゲロはぎろりと目を光らせて

「まさかコビくんを疑うんですか」

 と強い口調で言ってくるので、ミケはついたじろいでしまう。しかし、ニャンは退かずに

「詰まるところ、二匹のアリバイがはっきりしていないんですよ」

 と詰める。

「家を出てから帰宅するまでの道中は一緒にいましたよ。けど、商店街の方ではねぇ。情報がないですから。当然ずっと一緒にいたってことはないですし。互いにわからないですよ」

 ゲロはやや雑に答え、それがさらにニャンを刺激する。彼の刑事としてのプライドに火がつくのだろう。

「もっとしっかり答えてもらおう。君たちはまず、どこまで一緒にいた? どこで解散した? 君はどの店を回った? 商店街なんてデパートほど広くはないんだ。答えられるだろ」

「ええっと...」

 ゲロは流石にニャンに恐れてか、強気に出るのをやめた。

「別れたのは商店街の入り口です。そこで行きたい場所に行こってなって。で、その後は、俺は...順番はわからないです」

「順番は後ででいい。とりあえずどこに行ったか言うんだ」

「あ、はい...それは、まず、えっと、最初は漫画でも買いに、本屋に行きました。梟書店です。後は、適当に好きなアニメキャラのガチャ回して...。他は...。文房具屋もちょっと寄った後、コビと合流して、果物屋とか八百屋とかに。結構たくさん買いました。たくさん買い過ぎる分には、十分なんで」

 それで話は終わりなのだろう、ゲロは黙った。ニャンは顎に手を当てて何やら考えている様子で、ミケは今彼が話した内容を粗方手帳にメモする。

「では、再集合するまでは、相互のアリバイはないんだな」

「まあ、はい。あ、でも、店の方とかが見てると思います。でも、店の方と会話してないから...あ、防犯カメラにも写っているはずなので」

 ゲロはニャンが疑い深い目で見ていたので慌てて付け足した。

「わかった。では、教室に戻っていい」

「ご協力ありがとうございます」

 ミケはゲロに微笑んだ。彼を容疑者から外したわけではないが、少なくとも子供に過度の緊張を与え続けるのは気が引けるからだ。

 ゲロはミケの顔を見て、少し緊張がほぐれたのか、落ち着いた表情で教室へと戻っていった。

「教頭先生」

 ニャンが呼び面談室の外で待っていた教頭が中に入ってくる。

「他の生徒にも話を聞きますか」

「西狐コビくんにも話を聞きたいんですが」

「えっと、それは」

 教頭は生徒の名前を全員覚えているはずもなく首を傾げる。

「蛙池ゲロくんと同じ学年の生徒のはずです。呼んできてください」

「わかりました」

 ミケが説明すると教頭は頷き、足早に立ち去っていった。

「本屋とガチャガチャと果物屋と八百屋だ。では、アリバイを確認しておいてくれ」

 早速ニャンは、ミケの手帳を見ながら電話で別の刑事に連絡をしている。

「蛙池ゲロがやった思いますか」

 ミケはニャンに尋ねる。

「多分違うと思うがな。まだ子供だしな。何ともいえない。子供の犯罪というのも起こってきてはいる。子供だから違うなんていう理屈は通用しない時代だ。とはいえ、相手は子供、過度な不安は与えてはいけないに決まっている。しかし、もし捜査結果アリバイが偽りだとわかれば捕まえなければならないかもしれない」

 それが刑事の務めだ、ニャンはそう言おうとしているのだろう。しかし、その刑事の務めが誤認逮捕を招き、罪を受けるべきでない者を逮捕させることがある。

 ミケはそんなことを考えながら、ぼんやり面談室の入り口を見つめていた。すると、そこに見覚えのある狐の青年が姿を現した。

「西狐コビです」

 変わらず清潔感漂う丁寧に整えられた毛並みと、謙虚で誠実であることを感じさせる瞳は以前あった時と変わりがなかった。綺麗な顔立ちをしている。

「どうぞそちらに」

 ミケは席へ誘導する。

「今日聞きたいのは死体発見前、えっと、つまり、商店街に出発してから、商店街から帰ってくるまでの行動、を教えて欲しいのですが」

「商店街でどこを訪れたかってことですか」

「そういうことだ。どこでゲロくんと別れたかも教えて欲しい」

「まず、商店街まではゲロと一緒でした。その後、僕はずっと商店街にあったカフェ...ウラシマカフェで時間を潰していました」

 彼は詰まることなくすらすらと答えた。しかし、それは特におかしなことではない。行った場所はカフェだけなので、すらすら言えるのも普通だ。

 その後についての彼の供述は、ゲロの時と同じで、合流して果物屋や八百屋を回ったという。


「縞田さんから連絡が来た。どうやら、ゲロ、コビ両者共にアリバイに嘘はなく、西狐コビはずっとウラシマカフェに、蛙池ゲロは彼の供述通りの場所に移動していた。防犯カメラに表示された時間帯からも、彼が途中でこっそりと抜け出して、父親を殺したというのもなさそう、だそうだ」

 縞田というのは先程、アリバイの確認を依頼した刑事である。

「少なくとも、二匹は容疑者から取り除いてよさそうですね」

 ミケはハンドルに手を掛けながら言った。

 ミケとニャンを乗せた車は予定通り事件現場を再確認するためにマンション202に向かっている。

「まあ、一応。だが、あの密室を作り出すような者を俺らは追ってるんだ。油断はできない、大勢の共犯の可能性も捨ててはいけない」

「あそこの部屋をもう一回見返して何か証拠が出てくればいいんですが」

 ミケは溜息をつく。今回の事件の真相は全く見当もつかず、ミケも諦めつつあった。

「出てくると思うんだがな」

 助手席でニャンはスマートフォンをいじっている。ミケが横目に見たところ、彼は嫁と連絡を取っていたらしい。上司のプライベートを詮索するのは何か気が引けるのでミケは目を逸らす。

「ああああ。バトラーズ負けてんのかぁ。今季最下位はもう確定なのか」

 と今度はスマートフォンで野球速報を見始める。

「打線がもっと打てばなぁ。無敵の投手陣もこれじゃあ台無しだ。打線自体のアベレージは高いのに、得点圏に弱いからなぁ」

「得点圏打率って大事ですね」

 ミケは雑な相槌を打つ。

「本当に滅多滅多に負けるな、今季のバトラーズは」

「滅多滅多と言えば、蛙池ヒキ氏の死体も滅多滅多でしたよね」

 不意にそのことを思い出し、ミケは呟く。

「それがどうした」

「いや、なんで首を切断したのかなっと」

「ん?」

「わざわざ首を切断する必要はあったんでしょうか」

「よっぽど蛙池氏を恨んでいたのだろう」

「いつ子供達が帰ってくるかわからない状況で、なぜ首を斬るという余計な動作をしたのか気になりません? その首を切るという時間は明らかにロスタイムでしょう。このロスタイムを生んでまで首を切った理由はない気がするんです」

「それは...確実に殺したかったんじゃないか? もし生きていたら困るだろ」

 ニャンは面倒くさそうに答える。

「別に身体中を滅多刺しに、あるいは心臓のあたりを突きまくるでもいいのに。何故首を斬ったんでしょう」

「そこを気にしてもどうにもならないだろう。今の最大の謎は密室だ」

「そうですかね」

 これ以上言ってもニャンの機嫌を損ねるだけなのでミケは黙った。しかし、まだ内心は気にしまう気持ちを捨てきれない。

「よし、着いたぞ」

 ミケがそのことについてずっと考えていると、マンション202に辿り着いた。集中力が散漫な中でよく事故にならなかったと後でミケは震えた。

「刑事さん、お待ちしておりました」

 管理員室の前を通りかかると、管理員のニワトリ、丹羽コケコが出迎えてくれた。

「丹羽さん、現場は言っていた通りそのままにしておいてくれましたか」

「当然です。現場には一切手を触れずにしていますよ。案内します」

 彼はそう言うと、管理員室から出てきた。

「ありがとうございます」

 ミケとニャンは頭を下げ、彼についていく。


 案内された部屋は、約一週間前、事件当時と変わりがなかった。事件のあった書斎の床には未だ血が付いたままになっている。

「特に違和感はないなぁ」

 ミケは書斎の周りをぶらぶらと歩きながら言った。ニャンも部屋隅々まで、屈んだり、背伸びしたりして見ているが、特に何も見つかっていないようだ。ただただ、嫌に生々しい血痕が二匹をあんうつにさせるだけだ。

「何かを使って、密室を作ったんだ。その何かは絶対にここにあるはずだ」

「そうかなぁ。何か物を使ってどうにかなるのか...。超高いところから落ちても死なない動物が殺したとか、そういうミステリー的に言えば、お作法違反な者によって作られたのかもしれませんよ」

 鳥などの飛ぶことのできる動物が、飛んで逃げた可能性が否定された以上、考えられるのは高いところから落ちても死なない異常な動物だとしか考えられない。しかし、ミケには今の所見当はついていない。

「何か密室のヒント...」

 ぶつぶつ言いながら、ニャンは端から端までゆっくりゆっくり部屋中をくまなく調べる。

 ミケは室内には何も仕掛けがないように思えて、ベランダに出てみる。そういえば、事件当日は事情聴取などが忙しくて、全くここには出ていなかった。

 正面にはマンション。しかし、そのマンションはサーカスの芸のように渡れるほど近くにはない。国道を一本間に挟んでいる。

 そして、下は...当然落ちたら無事では済まないだろう。数十メートルはある。そして、ベランダには書斎からしか繋がっておらず、間取り上は壁を挟んで隣の部屋に位置するリビングルームの窓からもベランダには行けない。窓から出て、大ジャンプすれば(例えばサルやチンパンジーなら)窓からベランダに移動することも可能だが。

 いや、よく考えてみれば窓とベランダ間の移動ができたとしても謎は残る。少年たちが家に帰った時、ここ2203号室自体の鍵は閉まっていたのだ。つまり、書斎という第一の密室を脱出できても、第二の密室が立ちはだかる。ベランダに設置されている火災時に使用する防火梯子を利用した? いや、しかし、防火梯子は下の階のベランダに繋がっている。誰かに見られるリスクがあるし、見られなかったとしても一階までの間には誰かに見られてしまうだろう。では、やはり事件を起こした者は飛び降りたのか? パラシュートのような物を使えば無事でいられるかもしれないが対空時間が長いせいで誰かにバレてしまう可能性が高くなる。しかし、パラシュートを使わず飛び降りて無事でいられるなんて...或いは。

 突然、ミケの頭の中に妙なトリックが思い浮かんだ。そして、これしか納得できる答えもないような気がした。

「わかったかもしれない」

 ミケは独り言のように呟く。まったく証拠という証拠が見つからず、諦めかけていたニャンが首を傾ける。

「何がわかったんだ」

「この事件を起こした者が用いたトリックです。どうやってこの密室を完成させたのか」

「何か仕掛けがあったのだろう」

「いや違います。この部屋に仕掛けはありません。いや、どこを探しても仕掛けはないかも」

 ミケは断言する。

「どういうことだ」

 ぼんやりとしたミケの説明にニャンはまったくついていけない。

「つまり、この事件は共犯がいるんです」

「え?」

 依然ピンと来ない様子のニャンに興奮気味に食いついてミケは続ける。

「ヒキさんを殺した者はその後、飛び降りて死亡。そして、その共犯者がその死体をすぐに片付けた。こうすれば密室が確かに完成するんです」


10


「詳しく説明してくれ。お前の言ってる意味は理解できるが、証拠も何もないだろう」

 帰りの車でニャンが助手席でタバコをふかしながら言った。ミケはタバコの煙が嫌いで、車の中で吸わないでください、という思いを込めて嫌そうに助手席の窓を開けた。

「証拠はないです」

「そうかぁ」

「証拠はないですが、こうとしか考えられません。だって、この密室は二重密室なんです。書斎の鍵だけでなく、2203号室自体に鍵がかかっていたということがある。だから、この二重密室を脱出する方法は書斎のベランダから降りることしかないんです。ですが、ゆっくり落下したなら誰かに目撃されている可能性が高い。目撃がないということは、つまり、一気に落下していったということ。そう考えたら、Aが飛び降り、そして死に、その死体をBが回収した、こうとしか考えられません」

「なら、2203号室から落下した際に落ちるであろう場所に血痕が付いている可能性が高いから、そこを調べさせれば証拠となるだろう」

「自分の命をも顧みないようなやつですよ? ブルーシートを敷くなり、計算はしているでしょう。もし、ブルーシートを敷いていなかったとしても、掃除業者のふりをするなどして、念入りに清掃されている可能性が高いです」

「なら、確かに証拠はない」

 ニャンはがっかりした様子でまたタバコをふかす。ミケは溜息を吐く。

「いえ。猿内エンが握った情報が証拠になるかもしれません」

 それに賭けるしかない、ミケはいい推理が浮かんだにも関わらず、周到で、計画的で、死をも顧みない何者かによって、その推理を証明する方法がほとんどなく、何者かの正体を特定することができないことを悔しく思い、ハンドルをより強く握りしめた。そんなミケの様子に気付いたのか、ニャンは

「大丈夫だ、猿内の情報でお前の推理は確かなものになるはずだ」

 と慰めるように言った。ミケは純粋にその慰めを嬉しく思いつつも、一筋縄ではいかない事件だけに、どこか大きな不安も抱かざるを得なかった。


 11 


 結局めぼしい情報は手に入らないまま、翌日の火曜日は終わった。

 水曜早朝から、どうにか自分たちの手で「共犯説」を立証させたいとニャンが燃え、二匹は朝から〈マンション202〉で情報収集をしていた。しかし、そうすぐ情報など手に入るはずはなかった。

「うん? 瓜内...? ああ、瓜内トン。ああ」

 ニャンのスマートフォンに一件の通知が入った。送信主のトンとは確か...あの容疑者の一匹の農民の豚の男性だったか、とミケが思い出していると、ニャンは、

「何か事件に関して思い当たることがあるだと。ちょっと行ってくる。お前は休みながら適当に続けておいてくれ」

 適当に続けろと言われても、とミケは不満を漏らしたが、ニャンはそんな言葉に耳を貸さず、事件の捜査のために駆けて行ってしまった。


「刑事さん突然のお呼び出しすいません」

 ニャンがトンの家の戸をノックすると、彼はすぐに出てきた。見窄らしい格好で、つい先程まで畑仕事をしていたのか、ズボンが土で汚れている。

「いえいえ。こちらも捜査が苦戦しており、情報は多い方が助かるんで」

「まあこんなところで立ち話するのも。さあさ、どうぞお上がりください」

 ありがとうございます、と形式的に頭を下げて、ミケは家の中に入っていく。前回彼の元へ行ったのはミケで、ニャンは初めて彼と会ったのにも関わらず、気さくに話しかけてくる彼は、いい風に言えば親しみやすいおじさんで、悪いふうに言えば不気味な存在だった。しかし、忘れてはいけない、今は彼も容疑者だ。とりあえずは悪い風に見るべきだろう、ニャンは自分に言い聞かせる。

「さあさ、座ってください」

 ダイニングルームに通されて、ニャンは椅子に腰掛けた。彼も椅子に座る。

「では、お話聞かせてもらいましょう」

 ニャンがそう切り出すと、彼は

「そんな仰々しくしないでくださいよ。何か食べますか?」

 と愉快に話しかけてくる。

「いえ、そんな。遠慮しておきます」

 普段なら、こちらは仕事ですふざけないでもらえますか、と強く当たることもある事情聴取の際の酒の勧誘だが、彼から出るオーラのせいか強く注意することはできなかった。

「事件の捜査でご苦労されてるんでしょう。前来られた若い刑事さんもそんな様子でした」

「いや、まあ、苦労はしてますが」

 ニャンは後頭部を掻く。

「でも、誰か捕まえたんではなかったのですか。誰だっけ、犬内、なんとか、みたいな」

「確かに捕まえましたけど。ああ、いや、まああれは容疑者で別に、彼だと断定したわけじゃないんですがね」

「じゃあ、まだ容疑者探ってるんですか」

「まあ、近いうちに逮捕できそう、というのが実際のところなんですがね」

「近いうちに逮捕?」

「ええ。情報提供者が二匹いましてね。片方は今日の午後にうちの警察署に来てくれる手筈なんですよ。しかも、その二匹のうちの片方は大物でね」

「そりゃ誰なんですか」

「猿内エンなんです」

「え! あの、キャスターの!? そりゃあ、びっくりですな。でも、猿内さんなら嘘つかなさそうだし、頼りになりますな」 

 彼は楽しそうに満面の笑顔で喋っている。これが、瓜内トン、か。ニャンは頭の中にトンの性格をメモする。

「で、その情報というのをそろそろ教えてください」

 ニャンがそう切り出すと、彼はそうだったそうだったと笑いながら

「今捕まってる犬内のことなんですがね。あいつ、昔、蛙池さんと酔った勢いで大喧嘩して一歩間違えればどちらが死んでたんですよ。何が発端だったかは知らないですけれど、何かに怒った犬内が酒の勢いか、包丁で蛙池さんを襲ったんですよ。結構な剣幕だったそうで、その場にいた数名が必死で取り押さえたとか。まあ仕方ないですな、蛙池さんのような者は地元を愛する者の反感を買ってしまうもんだ。で、その時、蛙池さんも自分の身を守るために抵抗したそうで。それで結構もつれて、お互い怪我をしたとか。止めに入った数名も包丁で腕に軽傷を負ったりしたらしいですよ」

 と伝えた。笑いながらそう言われたせいで、逆にニャンにとってはその事実が重く受け止められた。ここにきて、犬内を不利にする情報が入ったということもどこか現実味を帯びており、ニャンはこの情報が重大な情報だと咄嗟に感じた。

「それは警察に通報したりしたんですか」

「いや、通報は行われなかったらしいです。まあ、普段は温厚な犬内が怒ったから、結構癪に触ることをされたんでしょう。周囲の同情というやつだと思います」

「それはいつのことですか」

「うーん、いつとかは覚えちゃいないです。兎に角いつしか。俺の知り合いが教えてくれたんですよ」


 結局これ以上の情報が集まらず、また、今日は〈ズーの日常垢〉なる者が犬内を擁護する話をしにくるので、それを聞くためにも早めに切り上げた。


 12


「どうでしたか」

 署にニャンが戻ってきて、入り口に姿を現すなり、待ち構えていたミケは瓜内トンのことについて尋ねた。

「結構な情報だ。どうやら、過去に犬内と蛙池は大喧嘩をしている。しかも、〈ズーの日常垢〉によれば虫一匹殺せないはずの犬内は、包丁で蛙池さんを襲ったらしい。これは、犬内さんにも話を聞かなければな」

「今七時半ですから、あと少しで来るはずです」

 ミケは時計を確認した。

「それまで俺は犬内に話を聞いてくる。猫目、お前は、どうする?」

「ここで待ちます」

 Twitterでそもそも〈ズーの日常垢〉に話しかけたのも自分であるから、自分が応対はしなければならない、という妙な責任感をミケは抱いた。


 しかし、ミケは言ってすぐ後悔する。暇すぎるのだ。夜の警察署前で何も考えずに呆然と立つ、これほど面白くないことはない。

 入り口に立っている、ボディーガードのようにいかつい体をした、二匹の警察官に雑談でも振ろうかと思ったが、真剣に仕事をしている彼らの邪魔をするのはミケには躊躇われた。

 それにしてもこの警察官二匹はよく無言で立っていられる。もう異常なほど暇で、足の疲れるこんな仕事をできるのはある意味才能だ。

 ミケには暇で仕方ない。なので、結局ミケは顔を撫でたり、尻尾で遊んだりしながら〈ズーの日常垢のの到着を待つ。

 そして、午後七時五十分ごろに、見慣れない車両が警察署の駐車場に現れた。先に連絡して、指定していた位置に車を止めたので、その車に乗っているのが〈ズーの日常垢〉だとすぐにわかった。

 両脇に立つ警察官は少し不思議そうに眉を動かしたが、ミケが、軽く説明をすると、すぐに納得してくれた。

 車から降りてきたのは三十代ぐらいのシマウマの女性だった。勝手に相手は男性だとミケは思っていたので、少し面食らう、服装も派手ではなく、シマウマなのでシマシマしているので、夜の暗さと合わさって見えずらい。

「こんばんわ」

 ミケは彼女を迎えるべく、彼女の方を歩いていく。

「こんばんわ。こんな夜にわざわざすいません」

 ミケが近づいていくと段々相手の姿がはっきり見えるようになってきた。

 その時、ふと、視界の隅に黒くて大きいオーバーコートを着て、顔に覆面を被った...動物の種類は何かわからないが、誰かがいるのに気が付いた。そして、何かを手に持っている。手に持つものも暗さのせいで見にくいが、様子は確実に怪しい。

 突然、その「何者か」が走り始めた。こちらに向かって全速力で走ってくる。

 ミケはその様子から何とも言えない嫌な予感を感じ取り、受け身の構えを取った。そして、どんどん「何者か」が近づいてきて、ついにその「何者か」が手に持つ物が見えた。

 ナイフ。刃にはどっぷりと血がついている。赤黒いナイフ。この血はいつついたのだろうか。だが、妙に生々しい。

 冷静さを必死で保って分析しながら、「何者か」の狙いは〈ズーの日常垢〉、彼女を殺すことだとミケは即座にわかった。止めなければ、ミケはそれを止めようと動こうとしたが、体は動かない。緊張。恐怖。怖気。「何者か」が発するその殺意にミケは負けてしまった。

 後から、血の付いた刃物を持っている「何者か」に気がつき、後ろから慌てて掛けてくる二匹の警察官の乱れた足音が聞こえる。

「危ない!」

 緊張で動けないミケが何とか声を発した時には〈ズーの日常垢〉、初めて会ったその情報提供者の首にナイフが突き刺さり、貫通していた。ミケは目を見開いた。

 慌てて彼女を抱き抱えようとしたが、相手はシマウマで背が高く、受け止めてきれなかった。ミケの両手をすり抜けて、彼女の体がそのまま地面に倒れていく。その横を「何者か」は走り去っていく。警察官二匹はそれを追っていくが、「何者か」の素早い動きと、驚きのせいで鈍足になる警察官のせいで「何者か」は捕まらない気が、ミケにはした。

 ミケの視界に自分の腕時計が映った。午後七時五十五分。三件目の事件発生。

 

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