神様事件、その発生、経過、結末について

吉野茉莉

プロローグ

プロローグ

「お嬢さん、困りごとかな」

 誰かが私に話しかけてきた。

 私は俯きながら、首を横に振る。

 こんな時間に、こんなところに、人がいるなんて、思ってもみなかった。

 私だけの聖域のはずだった。

「でも、困っていない人は、そんな顔はしないよ」

 見えもしないのに、その人がそう言ったので、なんだか本当に見られている気になった。

「ほら、顔を上げてごらん」

 心配そうに声をかけるその人に向かって、私が顔を上げてみる。

 私よりもかなり背の高いその人は、首を少し傾げてこちらを見ていた。まるで、彼の方が困っているみたいだった。彼は、夏前の北海道にしては厚着というか、黒く長いコートを羽織っていた。少し古風で、外套、と表現した方がいいかもしれない。それに古めかしい黒い帽子を被っていた。これは何と言っただろう、そう、教科書で見たことがある。山高帽子だったか。彼はどこか古い物語から抜け出してきたような人物だった。

「そうだね、そんなところだ」

 私の思いつきを肯定するかのように彼は言った。

「君は、信心深い方かな?」

 最初、彼が唐突に言い出したことの意味がわからなかった。すぐに私たちがいる場所を思い返して、妥当な質問かもしれないと思い直す。

「そんなこと、ないと思う」

「そう」

 彼の顔立ちははっきりとしない。なんだか靄にかかったように、印象が薄い。嬉しそうな、寂しそうな、曖昧な表情をしていた。

「それで、何に困っているのかな」

「私は、別に」

「そう、それならいいのだけど」

「ちょっと、上手く行かないなって」

 悲しそうに言う彼に、思わず私は口を滑らせてしまった。

「上手く行かない。そうだね、誰だって、少し上手く行かない」

 私は、それに、うん、と頷いてしまった。

「君は、上手く行きたい?」

 またも、私は頷く。彼の声が、身体に染み渡っていくようで、否定することはできなかった。

 彼もまた、うんうんと頷いて、外套の内側に右手を入れて、何かを探している。

「それじゃあ、これを上げよう」

「これは?」

 差し出されたものを前にして、今度は私が首を傾げる。

「ちょっとしたお守りだよ」

 こんなものがお守りだなんて、と思ったが、彼が冗談を言っているようには見えなかった。

「お近づきの印に、これを上げよう」

 両手でそれを受け取る。

 満足そうに彼は笑った、ように見えた。

「使い方は、すぐにわかる」

「使い方?」

 お守りに使い方なんてあるだろうか。ただ持っているだけなのではないか。

「そう、使い方」

「あなたは、一体誰なの?」

 私の問いかけに彼は戻しかけた手を止めた。

「私は、誰なんだろう。そうだな、何と言っていいか」

 自分でも不明瞭なのか、考え込んでしまったようだ。

 そして、ふと、答えを思いついたのか、微かに笑った。

「強いて言うなら、神様、かな?」

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