3-7 罪滅ぼし

 思わず足を止め、人名を見直す僕を置き去りにして父は中へ入ってしまう。

 気後れしながらも僕も後に続いた。


 人の姿は無かった。展示の準備をしているようで、床に等間隔で絵が並べられている。

 全て久保誠一郎のものだった。


「明日から来月まで、ここで彼の個展が開催されるんだ。亡くなってから初めての展示だ」


 会場を見回し、父は「やっとだな」と腕を組む。


「なんで」


 全く理解が追い付かない。頭の中でクラクションが鳴る。「これ以上は絵を見るな」という警告音だ。


「知らなかっただろう」

「……あれから、この人について調べようだなんて思えなかったから」


 僕は絵から目を背け意識して呼吸をする。車内で食べた唐揚げとお茶が胃の中で喧嘩している。


「せっかく合格祝いに買ってもらった絵だって、ろくに見られなくなったし……」

「顔が青いぞ。休ませてもらうか」

「いいよ」


 父は僕が喜ぶと思ったのだ。

 久保誠一郎の個展と聞いて、目をきらきらさせる息子を想像したのだろう。

 自意識過剰かもしれない。父はもう、僕が医者になることすら期待していない。


 父は部屋の端に置いてあった椅子を勝手に運んできて僕の前に置く。いつでもどこでも、どうしてそのように我が物顔ができるのだろう。僕は他人が所有権を持つ椅子に腰を下ろす気にはなれなかった。


 しかし視界がぐるりと回り始めたので、座る代わりに背もたれに手をついて寄り掛からせてもらう。

 吐物まみれのピアノ椅子を思い浮かべた。


「もう帰ろうよ。迷惑が掛かるから」

「子どもは親に迷惑をかけるものだ」


 ずれた回答を訂正する気力すら無くなってきた。

 しかし、一つ、どうしても言いたいことがあった。


「僕は、罪滅ぼしがしたかった」

「どういうことだ」

「僕がうっかりしていなければ、久保さんは死ななかった。……僕はずっと、罪滅ぼしがしたかったんだ。だから、だから今日、セントラルの前で……」


 久保誠一郎の葬式には参列させてもらえなかった。

 父と一緒に葬儀場まで行ったのだが、喪主である久保の妻に追い返されたのだ。式場の前で「あなたたちのせいだ」と怒鳴られた。泣き崩れる彼女の姿を忘れられるはずがない。


 彼女は奏の母親だった。

 そして、久保誠一郎は奏の父親でもあった。


 僕の発言を受け、父の顔に血が上っていくのが見て取れた。


「おまえのせいじゃないよっ!」


 父は耳元で怒鳴る。


「じ、自分のせいだって思ってるのか、今もっ……」


 父はかたく握りしめた拳をわなわなと震わせている。今にもパンチを繰り出しそうだ。

 しかし、勢いよく叩いたのは僕ではなく自分の胸元だった。

 今までにこんな父を見たことが無い。着ぐるみの正体を暴いてしまった子どものように心臓がはねる。


「おまえのせいじゃないんだよ。言ったじゃないか」


 おまえのせいじゃない。


 カウンセリングから帰る時に、確かに何度もそう言われた。しかし真に受けたことは一度も無い。

 あの事故の原因は僕にあるとわかりきっていたからだ。


「いいか、罪滅ぼしなんて考えなくていい。しなくちゃいけないのは、こっちなんだ。救えなかった命に対して……。それから……、それから」

「峯本さーん、早いですね。まだまだ来ないかと思っちゃった」


 若い男の声がして、父は仮面を付け替えるみたいに自分の顔をさっと撫でた。すると張り付けたような笑顔が表れる。


「五十嵐さん、おつかれさま」

「い、五十嵐先生……?」


 僕はあんぐりと口を開けた。

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