19


◇◆◇


 九月一日。

 学生たちが長い夏休みを経て、再び学校へと戻っていくその日。


「だ、大丈夫かな」


 喫茶金平亭も、一つの大きな区切りを迎えようとしていた。


「大丈夫だって。全メニューは価格改定後の値段表記に変えてあるから。漏れはない」

「いや、そうじゃなくって」


 そう、寛木君がメニュー表をパラパラとめくりながら何てことない顔で言う。金平亭は本日より、全商品余すところなく値上げを行うのである。


「ねぇ、この期に及んでまだ四の五の言ってんの?」

「そ、そうだけどさぁ、大丈夫かな。クレームとかこないかな?」

「さぁ、くるかもね」

「う゛っ」


 寛木君の涼し気な横顔が憎らしい。俺は手元にあるメニューをパラパラとめくると、その価格表記に小さく溜息を吐いた。そのどれもが、元の値段より三割近くも上がってしまっている。ついでに言えば、フードメニューも大幅に減らした。在庫の維持管理のコストがかかるから、と寛木君の提案だ。


「お客さんに……なんて言われるかな」

「マスター、俺達は詐欺師かなんかなの?犯罪でも犯してる?」

「っそ、そんな事は……ないけど」


 寛木君の口から放たれた「詐欺師」という強い言葉に、俺は勢いよく首を振った。


「二週間前から店内には価格変更の案内はしてたし、そもそも元が安すぎたんだって何度も言ってるよねぇ?納得してくれたんじゃなかったの」

「う、うん。納得はしてる。わかってるよ」


 そう、分かっている。この値上げは正当なモノだ。何も悪い事なんてしていない。そうしなければ、店の存続にかかわるのだから。


「で、も……」


 でも、何故だろう。たった数十円~百円程度の値上げにも関わらず、俺ときたらともかく罪悪感でいっぱいだった。それこそ、まるで詐欺師か何かにでもなったような気分だ。


「あぁっ、もう。グズグズうるせぇな!?いい加減にしろっつーの!」

「っ!」

「ったく。バカなアンタの為に、開店前にもう一回だけ説明してあげるけどさぁ!この値上げはっ」


 眉間に皺を寄せてこちらを見下ろす寛木君の姿に、俺はとっさに身構えた。下腹部に力を込め、何を言われてもいいように奥歯を噛む。情けない事に、この流れで俺は何度も寛木君に泣かされている。でも、今は下手に涙腺を決壊させるワケにはいかない。


 なにせ、喫茶金平亭は間もなく営業を開始するのだから。


「……」

「……」


 しかし、何故だろう。説明してやるよ!と勢いよく言い募っていたはずの寛木君は、眉間に皺を寄せたまま、黙ってこちらを見下ろしている。


「寛木君?」


 たまらず俺が寛木君に声をかけると、憮然とした表情を浮かべていた彼がボソリと呟くような声で言った。


「……泣かないでよね」

「うっ」


 ガッツリ俺の思考が読まれている。


「なっ、泣かないし」

「っは、どうだか。その泣き黒子が、またあんたに涙を連れてくるかもじゃん?」


 完全に揶揄うような口調で放たれた言葉に、俺はとっさに寛木君から目を逸らした。なんという事だ。学生である彼に、説教をされるばかりか、泣く心配までされているなんて。こんな情けない事あるか!


「ほんとに、泣かないし」

「へぇ」


 顔に熱が集中するのを止められない。値上げを決意したあの日から、寛木君は何かにつけて俺の泣き黒子をイジってくるようになった。見た目によらず、寛木君は小学生男子と殆ど変わらない。

 すると、突然俺の目元に温かいモノが触れた。あれ。なんだ、コレ。


「え、え?なに?」

「コレ、隠したら泣かないかなって」


 どこか無邪気な小学生のような事を口にする寛木君。そんな彼の右手が、現在進行形でソッと俺の目元へと触れていた。


「いや、そんな雷が鳴った時のおへそみたいな扱いされても困るんだけど」

「念のタメ」

「いや、泣かないし。大丈夫だし」

「言っとくけどさ。もしかしたら、今回の値上げで来なくなる人もいるかもしれない」


 うわ、本当にこの状態で話すんだ。

 冗談なのか本気なのか。寛木君は俺の目元の黒子を指先で隠しながら、つらつらと話し始めた。目元があったかい。


「でも、それはそれでいい。なぜなら……えっと、そうだな」


 俺を見下ろしながら、途切れ途切れに言葉を紡ぐ彼の姿は、決して俺をバカにしてなどいなかった。ただ、懸命に言葉を選んでいる。多分、俺が泣かないように。


「そう……客が店を選ぶように、店側も客を選んでいい。これは、前も言ったよね。覚えてる?」

「うん」


 寛木君からの問いに、コクリと頷く。もちろん覚えている。なにせ、飲食店というのは客に選んでもらってナンボだと思っていたトコロに、「値段で客を選別しろ」なんて言われたのだ。そんな衝撃的な事、忘れるワケがない。


 そしてこの時の俺は、既に寛木君に泣き黒子を触られている事への違和感が、まったくといっていい程なくなっていた。


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