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「ど、どんなにため息を吐かれたって無理なものは無理!値上げなんて出来ないっ!」

「ちーがう!マスターがバカ過ぎて溜息吐いてんだよ!」

「は、はぁ!?」

「あのさぁ、こんな弱小個人経営の店が、あの世界規模でチェーン展開する店と競合だなんて、本気で思ってるワケ!?マジでそう思ってるんだとしたら、更に負債が膨らむ前に、こんな店畳めばぁ?」


 寛木君はその場から立ち上がると、遥か高みから俺の事をジッと見下ろしてきた。


「た、畳まないし!」

「っは、そういう現状維持の選択の繰り返しが、結局は閉店の憂き目を見る事に繋がるって、アンタは分かってないんだ!」


 こ、怖すぎる。

 最初の良い子で優しい寛木君は一体どこに行ってしまったのだろう。たまに懐かしくなる事があるが、もう彼は俺の手の届かない所へ行ってしまったらしい。


「こんな事なら、店ごと売りに出されて、まともな経営者に買ってもらった方がこの店も良かったろうよ」

「う゛っ」

「裏通りとは言え、駅チカで場所も悪くない。売却して、膨らんだ負債に当てた方が、社会復帰も早く出来るんじゃないのぉ?」


 インテリチャラ男モンスターからの猛攻に、俺の精神はゴリゴリと摩耗していった。同時に、ジワジワと目頭が熱くなる。

 ダメだ。こんな事でイチイチ泣いていたら、また寛木君にバカにされる。でも、どうしよう。なんか、もう止められそうにない。


「だだでさえギリギリのジリ貧状態なのに……店主がバカだと店は浮かばれないよねぇ。せっかく爺さんが残してくれた店なのに、バカな孫にぐちゃぐちゃにされて」

「っ!」


 爺ちゃんを引き合いに出された瞬間、瞳を覆っていた薄い膜が一気に分厚くなった。視界が歪み、寛木君がコーヒーを飲む姿がハッキリと見えなくなる。


「だいたいさぁ」


 どうやら、寛木君は文句を言うのに夢中で、俺が泣きそうな事に気付いていないらしい。だったら、今のうちにコッソリ涙を拭えばいい。

 そしたら、バレずに――。


--------キリ、泣きたい時は潔く泣け。お前はイチイチ我慢しようとするから、泣き止むのに時間がかかるんだ。


「……っぅ」


 爺ちゃんの声が、すぐ傍で聞こえた気がした。


「っぅぅぅ」

「え?」


 気付いた時には、ホロリと涙が頬を伝っていた。その瞬間、先ほどまでの猛攻が止み、寛木君の驚いたような声が聞こえる。


「え、えっ!?ちょっ、ウソだろ!ま、また泣いた!」

「じ、じいちゃぁ、ん……!」

「おい、なんで大人のクセにそんなにビービー泣けるんだよ!ワケわかんねぇし!」


 寛木君が慌てている。

 俺はと言えば、一回涙を流してしまったせいで、完全に涙腺の制御が俺のコントロール下から離れてしまった。こうなったら、爺ちゃんの言う通り、一旦思い切り泣くしかない。


「っひ、っふぅぅぅ」

「あ、あ……!な、なんで……ま、また。お、俺のせいかよ!でも、だって……俺は本当の事しか言ってないだろうが!」


 先ほどまで俺に向かって冷静に正論をブチかましていた寛木君の方が、今は酷く慌てふためいている。そう言えば、最初に俺が泣いた時もそうだった。


「お、俺は……悪くねぇし。間違った事、言ってな、いし」

「っぅ、っぅぅ」

「……俺は、まちがって、ない」


 そこまで言って、何も言えないまま悔しそうに俯く寛木君の姿に、妙な既視感を覚えた。


--------良い、匂い。

「っ」


 そうだった。あの日からだ。俺の店に対して「潰れないように」って、色々と意見を言ってくれるようになったのは。


--------もう、値上げするしかない。


 分かってる。寛木君は、本気でこの店の事を考えて値上げを提案してくれているという事くらい。その証拠に、シフトに入ってない日も毎日店に来てくれている。今日だってそうだ。俺がバイト代を払えないって言っても「別に、金なんてどうでもいいし」って言って。


--------アンタ、ほんとにバカだな!良いモノを「安く」提供するなんて無理に決まってんだろうが!


 値上げを提案された日に、寛木君から言われた言葉だ。良いモノを安く提供するなんて無理だって。だから値上げをしろって。


「……いい、もの」


 だとしたら、寛木君は、俺のコーヒーを「良いモノ」だって思ってくれてるって事じゃないのか。違うか?いいや、違わない。

 そう思った瞬間、俺は手の甲で勢いよく涙を拭った。


「……う゛んっ。ぐずろ、ぎ……ぐんはっ、わるぐないっよ」

「じゃ、じゃあ……なんで、泣くんだよ」


 俺は零れ落ちる涙を必死に手の甲で拭いながら、静かに息を吐いた。少し、涙の感覚が薄くなってきた。クリアになった視界の先で、寛木君が狼狽えた顔でこちらを見ている。


 あぁ、やっぱり寛木君は良い子だ。どこにも居なくなってなかった。


--------マスター。俺、ゲイなんです。気持ち悪いですよね。


 最初から、彼はずっと「嘘の吐けない」不器用な良い子だったじゃないか。


「な、な、なぎぼくろが……泣き、虫を連れて、くるから」

「は?」

「だ、だから」


 戸惑う寛木君を前に、俺は泣く度に爺ちゃんに言われていた言葉を口にしていた。


「こ、この……泣き黒子の、せい」


 そう、左目の目尻にある小さな泣き黒子を指しながら、笑おうと必死に口角を上げた。どうだろう、上手く笑えているだろうか。


「っぁ、う」


 そう思った瞬間、寛木君のこれでもかと見開かれた目が俺を見ていた。


「ぁ、っな」

「ぐ、ずろぎ、ぐん?」


 そして、何か言いたげに小さく口を開いたが、その口が何か音を発する事はなかった。そして、次の瞬間。彼が何かを言うよりも前に、クローズドの標識を掲げた筈の店の扉が、勢いよく開け放たれた。


「ますたー!ちょっとだけコーヒーくださーい!」


「え?」

「は?」


 そう言って元気に店に入ってきたのは、髪の毛を頭のてっぺんでまとめあげ、こんがりと日に焼けた田尻さんだった。


「あれぇ、どうしたんですかー」

「あっ、えっと」

「いや、これは」


 しかもよく見ればその手には、先ほどまで話題の中心になっていた、ブルームのマークの入ったプラスチックの容器が握られている。そのマークを見た瞬間、止まりかけていた涙の本流が勢いよくぶり返してきた。


「うっ、うぅっ!うっ~~~!」

「っへ、おい。また泣くのかよっ!ってか、なんで今泣いた!?」


 あぁ、田尻さんまでブルームの商品を買って!いつも俺のコーヒーの事を好きだって言ってくれていたのに。もう終わりだ!


「あーー!ゆうが君が、またますたーを泣かせたー!」

「ちっ、違うし!俺のせいじゃねぇし!」


 田尻さんは寛木君を指さしながら。合間にフローズンのドリンクをすする。暑い夏の日には、きっと酷く美味しいに違いない。俺のアイスコーヒーなんかと違って。


「っふぅぅぅっ!!」

「おいおいおい!泣くなよっ、大人だろうが!お、俺はもう何も言ってないからな!?」


 あんなのに、勝てるワケがない!


「っっひぅぅ」

「もーー、かわいそうじゃないですか!マスターは自分の事じゃなくても、他の人の事でもすぐ泣くのにっ!ゆうが君、謝って!」

「いやっ、俺じゃねぇし!俺、悪くねぇし!」

「謝ってーー!」


 ここは小学校か、はたまた保育園か。

 泣いている俺も、悲しいのかなんなのか分からないまま、俺達はしばらくその場で互いに喚きあったのであった。



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