第2話 真実

 ジュールは、子供部屋から出て薄暗い廊下を歩く。両親の寝室は無人だったため、階下にいるのだろうと階段を下ることにした。静かな暗闇に、ギシギシと鳴る音が響く階段という組み合わせは、普段なら無駄に恐ろしく感じてしまうが、今日は、何も感じなかった。

 階段を下りきり、親がいるであろうリビングに向かう。そちらからは、トビが1人でなにか叫んでいる声が聞こえてきたため、躊躇う気持ちが湧き上がったが、今更後にはひけない気持ちが勝ったため、徐にリビングへ続く扉を開いた。

 リビングにいるのはトビだけであり、母親はいないらしい。部屋には明かりが点いていて、暖炉のおかげか全体は暖かくなっていた。だが、空気感は異様で、ジュールは呆然とする。

 なぜなら、普段トビが座っているソファは何故かひっくり返っており、周りの観葉植物の鉢も倒され、床には、ビリビリに破いたのであろう新聞や雑誌の切れ端が散らばっていたからだ。他にもテーブルも倒され、その上に乗っていた花瓶や灰皿が床に転がっている。そのせいで活けてあった花はぐしゃぐしゃになり、水が広がっていた。また、灰皿にはなにも入っていなかったのが、吸殻等は見受けられなかった。

 そんな光景を見れば、今トビの機嫌が極端に悪いことくらい流石のジュールにも理解できた。それを裏付けるように、今現在のトビは苛立ちを顕にしながら倒れたソファに蹴りを入れているところであり、どう見ても今のうちに退散し、質問は後日にした方がいいだろう。できれば、部屋にいる時点でこの惨状に気づきたかったが、今たらればを言っても意味が無い。漸く我に返ったジュールは、悔しく思いながらも1歩後退りをした――その時だった。パキ、と足元から音が響いたのは。

 床の資材が悪くなっていたのか、所謂家鳴りのものかは分からないが、それによりぐりんとこちらに顔を向けたトビと目が合った。元々荒々しい目付きをしていた彼の目は更に鋭くなり、大きな足音を響かせながらこちらに向かってきた。そして、大きな音に怯え硬直するジュールの首根っこを掴み、そのまま倒れたソファーへ目掛けて投げつけた。ジュールの体はぐわんと浮かび上がり、ソファーに叩きつけられた衝撃で視界と頭が揺れ、叩きつけられた体がズキズキと痛む。

 言葉を発する前に奮われた暴力に、理解が及ばず頭を抱えるジュールの上で、トビは訳の分からないことを口にしながらソファーを蹴り飛ばし、時々ジュールの体にも突き刺さるような蹴りを入れた。ジュールは、極力呻き声を出さぬように歯を食いしばって耐えつつ、トビが何故ここまで怒っているのか少しでも理解しようと耳を傾けた。すると、最初はただの叫び声にしか聞こえなかったものが、やがて人の言葉として耳に入るようになった。


「てめぇあの女がだぁこどこいったか知らんがぁああ!」

「っ、し、知らんよ、僕……ずっと部屋におった、もん」

「ほれやったぁあいつぁどこに行ってんやぁあああ!! あんたんせいがぁあああ!!!」


 真っ赤な顔で怒り狂うトビに何度も蹴られながら、ジュールは、母の行き先を何となく想定していた。彼女は、最近仲良くしているらしい男性の元に行っているのではないかと考えたが、しかし、それを告発などできないし、そもそも今は体中に暴行を受けるせいでそういった発言も、本来聞くつもりだった質問も出来なくなっていた。

――どないしょう、どないしよ、痛い、このままじゃ……!

 ジュールは、痛みと恐怖に支配される中自然と涙がぼろぼろと零れるのを感じていた。泣き叫ぶことすらできないまま、自分はこのまま殺されるのではないかという恐れに身を震わせ、なんとか逃げ出そうと抵抗を試みる。しかし、それを察知したトビに頬を打たれそれも阻止される。理不尽に殴られ、襟首を掴まれ再度投げ飛ばされたジュールは、転倒しているテーブルの脚に背中をぶつけ、近くにあった花瓶や灰皿が己の体に接触した。混乱に喘ぐ中、ジュールはわざわざ今聞きに来なければよかったと漠然と後悔していた。

 ジュールは、怒り狂うトビを見つめる。彼の怒りはまだ収まっていない。ジュールに全てぶつけて己の妻を問い詰めるまで大人しくならないと断言しても良さそうな様子で、反射的にジュールは身震いをし、絨毯を握った。

 そんなジュールを見下しながら、舌打ちをしたトビは苛立った様子で口を開く。


「……なんだお前、なんか文句あるのかぁ」

「……ない、です」

「ならなんでほいな目で俺のこと見やがる。つーか、なんで俺のところに来たんやあ!? 普段やったら寝てる時間やろぉ?!」


 相変わらず怒鳴りながらの言い方であるが、やっとそこに疑問を抱いたのだろう。一瞬、理由を打ち明けるかどうか迷ったが、何を言っても結局は殴られるのだ。それならば正直に言って殴られた方がマシだと考えたジュールは、体を起こして床に座り、恐る恐る打ち明けた。


「……あ、あの、お父……プロスペールさんに送った手紙が、返ってこんから、その、なんか、知らんかなって……思って……」

「はぁ!?」

「っ……ご、ごめんなさ――」


 大きな声にびくりと肩を震わせたジュールが、反射的に謝罪を口にしたその時だった。トビが、ジュールにとってとんでもないことを口にする。


「あぁ、あー……プロスペールとかいうやつからの手紙か、それだったらもうとっくに捨てたで」

「……えっ」


 予想はしていたが、当たってほしくなかったことが的中してしまった。いつの間に捨てられたのだろうと困惑し青ざめるジュールの様子も意に介さず、トビは言葉を続ける。


「もう離婚したってのに、いつまで経ってもうちの息子にちょっかい出してきやがってあの男! 中身見たら一緒に暮らそうだの迎えに行くだの書いたってほんっと腹立たしいことこの上あらへん。やで、めんどうやからてめぇに見つからんように隠してから暖炉にくべてやったわ」

「……なんで、ほんなことを」

「なんでって、言わんでも分かるやろ! うちの息子を誘拐するつもりのやつなんて、突き放して当然やろうが!」

「ゆう、かい……?」


 トビの乱暴な言葉を聞きながら、ジュールはわなわなわと体を震わせ、ぎゅうと握り拳に力を込めた。トビの言い分はジュールには納得し難い話であった。ちょっかいを出してくるなんて言われても、ジュールにとってはプロスペールが『父親』なのだし、そもそも自分から連絡をしているのだ。『プロスペールに連絡をするな』と言われるならともかく、プロスペールを悪く言われるのは非常に不愉快だ。しかも、誘拐だなんて、そんな、人聞きの悪い。プロスペールは悪人ではない。悪人は寧ろ、人を一方的に罵り子供を殴る、目の前の相手だ。

 そう思うと、途端にジュールの中に形容しがたい憎悪の感情が巻き起こった。いや、これは突然ではないだろう。今までもずっと彼に対する怒りの感情を押し込めた鍋は、竈で火にかけられてずっと煮込まれいたのだ。それを、己の理性でなんとか火加減を調整していただけにすぎない。しかし、それが今、調整できずにいる。吹きこぼれそうなほど限界値まで湧き上がっている。

 ジュールは考える。自分は、何故、己が父親と思えない人を『お父さん』なんて呼ばなくてはいけないのか。何故母親は離婚と結婚を繰り返すのか。何故、自分とリュカはプロスペールについていけなかったのか。何故、自分がプロスペールと交流を持とうとするのを阻むのか。考えても何も分からない。そしてジュールは、自分の気持ちに対する調整を諦め、そのまま爆発させることにした。

――もう、いいや。こいつはお父さんじゃないんだから、こいつをなぐってしまってもいいだろう。

 己の中に今まで感じたことの無い程の憎悪や怒りが溢れるのを感じながら、ジュールは、目を釣り上げ鬼の様な形相でトビを睨む。そして、自分を奮い立たせるために大きな声を上げて相手に突っ込んだ。


「ぅああああアアあああアアアッ!!!」

「あ?」


 ジュールはそのままトビに体当たりをするようにぶつかり、相手に拳を振るう。しかし、所詮は子供の力だ。最初はトビを動揺させ僅かながらダメージを与えていたが、やがてそれは彼を苛立たせるだけになる。


「おい」

「うぁあああ! このやろぉ!」

「チッ……なにがこの野郎やクソガキ!」


 その声と共に、眉間に深くシワを刻み口を大きく開けたトビは、太い足でジュールの体を勢いよく蹴り飛ばした。続けて床に転がったジュールに のしかかり首に手を添える。


「てめぇ調子乗んのもえぇ加減にせぇあああアアア!!!!」

「ひっ……あ……!」


 先程のジュールの勢いはあっという間に打ち消され、ぎゅう、と己の首が締め上げられ息が苦しくなる。目の前に顔を赤くして怒鳴り声を上げるトビがいて、段々と声が遠くなっていくうな気がした。恐怖に怯えながらなんとか抵抗を試みるが、息苦しい中ではトビの手を振りほどこうにも満足に自分の体が動かせない。

――どないしよう、どないしよ、このままじゃ、また、このままじゃ、ほんまに、ほんまに……っ、……――あ……!

 数分前までの怒りは、焦りと恐怖に塗り替えられる。しかしそんななかでも、ジュールは必死に頭を働かせた。そして、ひとつの閃きを得て、必死に手を動かす。を実行する事に対する躊躇いはなかった。このまま大人しくしていれば死んでしまう。プロスペールに会えなくなる。それに抗うためにジュールは手を動かした。己の意識があるうちに、何としても、この男に一矢酬いる為に。

 そして、苦闘の末ジュールは見つけた。現状を打破する術を。それをしっかりと手で掴んだジュールは、どうなっても知ったことかと言わんばかりの心持ちで、得物を勢いよく振り下ろした。

 その直後、ガッと鈍い音が響く。ジュールが勢いよく振り下ろしたそれは、テーブルから床に転げ落ち、運良く割れずにいた花瓶だった。それは、トビの頭に接触した衝撃で割れ、中に少々残っていた水をぶちまける。


「って、めぇえ……! なに、しやがる……!」

「っ、カハッ、ハァッゴホ、ケホッ……! っ、あ、あぁあ……!」


 子供の力とはいえ、威力は相応にあったのだろう。花瓶で殴られた箇所からは血が流れ、トビはふらつきながらジュールを睨む。一方で、漸く解放されたジュールは、ゴホゴホと咳をしながら距離を置き、割れた花瓶の破片を手にしてそれを相手に投げつけた。ジュールが投げた大きな破片は、トビの顎辺りに直撃し、体の大きな彼をふらつかせ転倒させるに至った。

 ズシン、ゴトッ、と鈍く大きな音が響いた後、トビは何やら床の上で呻く。一応意識はあるようだが起き上がることが出来ないようで、これは、ジュールにとってはまたとない好機であった。彼は、震えた手で床に転がる重い灰皿を手に掴むと、震える足でゆっくりと数歩前に進んだ。


「あぁ、あ、アァ、あ……」


 悲鳴とも呻き声とも言えない掠れた声を零しながらトビの横で足を止めたジュールは、虚ろながらも厳しい眼差しの彼と目が合った。その時、反射的に肩を跳ねさせたジュールだったが、呼吸と体勢を整えると、大声と共に手にしていた灰皿を両手で勢いよく振り下ろした。ゴッと嫌な音と短い悲鳴が聞こえたが、それでもジュールは灰皿を振り下ろすことをやめなかった。自分が今何をしているかは考えたくなかった。それを考えてはいけない気がした。頭にあることは、とにかくこの男が起き上がって来ないように、もう辛い思いをしなくないという懇願だった。恐怖を打ち消すために声を上げ、無意識に涙を流しながら、今までの恨みを込めて、これ以上この男によって苦しい思いをすることがないように願い……いや、そんなことを考えていたかは定かでは無いが、とにかく、幼いジュールは、己の気が済むまで無心で男を殴り続けていた。


 数分後。我に返ったジュールは、激しく息を切らしながら徐に灰皿を木質の床にそっと置いた。動き続けていたからか、それとも暖炉により部屋が温められていたか汗だくであり、衣服が体にじっとりとへばりつき異様に気持ちが悪かった。

 そして、床に座り込むジュールの目線の先では、頭から血を流し、目を見開き絶命しているトビの姿があった。短い茶髪は乱れ、服は所々を飛び散った赤色に染められ、どう見ても生存しているようには見えなかった。

 そのさまを見て、ジュールは、ゆっくりと自分の犯した過ちを理解し、唐突にえずき、嘔吐した。


「う゛っ、ぉえ、え゛っ、ぉえええええ……!」


 床に手をついてびちゃびちゃと吐き出してから、頭を抱えて蹲る。か細い悲鳴を上げて、ごめんなさいと何度も何度も口にして、いつの間にか祈るように手を重ねていた。


「ごめんなさい、ごめんなさい、シエル様神様シエル様神様、ごめんなさい、ぼくは、ぼくは、なんてことを……!」


 ガタガタと震えながら、ジュールは胸の内で己を責めた。確かに自分は今トビに暴力を振るわれ死ぬかもしれない状況になっていた。しかし、ここまで殴る必要はあったのか? もう少し適切なやり方があったのではないか? いや、それでも、命の危機が迫っていたのだから話は変わるのでは……頭の中でぐるぐると考えていると、自然と涙が溢れ出す。そして無意識に己の宗教の神に赦しを乞うていた。普段そこまで熱心に祈っていないのに、教会も真面目に通っていないのに、都合が良すぎるとは思った。それでも、神に許しを乞うことしか出来ず、ただただ震え涙を流した。

 その時、ジュールの意識を覚醒させるとある声が耳に届く。


「…………なにしとるん」

「……えっ、あ、リュカ……!?」


 幼い声にハッとなったジュールが目を向けた先には、寝巻きに身を包み少々寝ぼけた様子で立つ弟、リュカがいた。彼はゆっくりとした口調で言葉を紡ぐと、ジュールや、倒れ込むトビ、そして荒れに荒れた部屋と赤色が付着した床などを見てから、ぽつりと呟いた。


「…………ジュールが、ころしたん?」

「え、あ、ぅん……」

「……そうなんや、ころしたんやな、ついに」

「…………う、ん……」


 ジュールは、リュカの言葉にぎこちなく返答をしながら、彼の異様な態度に強烈な違和感を覚えていた。

 弟は、先月誕生日を迎えたばかりの5歳である。それなのに、この惨状を前にして固まったり泣いたりといった行為を一切しないことに驚いたが、それに加え『人の死』を理解し、分かった上でその結果を軽視しているようなその言動に、いたく驚いた。

 彼が、ショッキングな光景に驚いたり硬直したり泣いたりするなら分かる。もしくは、トビがどうなっているかよく分からなくて困惑したり、寝ていると判断し起こそうとするなら、それもまぁ分かる。なのに、今目の前の弟は、トビとジュールの間に何があったのか全て理解した上で、平然と振舞っているようで、やたら恐ろしかった。

 リュカは、床に飛び散った吐瀉物と、転がる灰皿を眺めてから、冷めた顔つきで平然と口を開く。


「……このあと、どうするん?」

「……え?」

「……やから、このあと。おまわりさんのところいくの? それとも、ここにおるん?」

「お、おまわりさんのところにいくで、もちろん」

「……ふーん、そうなんや」


 淡々としつつもゆったりとした話し方の彼の言葉が、普段より流暢に聞こえる。普段の彼は『うん』と『ちゃう』と自分の名前しか言わない程度には寡黙で拙い話し方だったというのに、どこで、こんな語彙と滑らかな話し方を覚えてきたのか。

 バクバクとうるさい心臓の音を聞きながら、ジュールは、口や喉の渇きを感じつつ、ぎこちなくリュカに言葉をかけた。


「……そういや、リュカ、起きとったん?」

「…………とちゅうで、おきた。なんか、よぞいうるさいから。……それで、みにきたら……ジュールが、トビのことをなぐっとったで、あーあっておもって、みてた」

「そ、う、なんや……」


 あの光景を見られていたことをジュールは驚嘆したが、それよりもあの光景を見ていたのに逃げなかったリュカに疑問を覚えた。だが、きっと怖くて逃げ出せなかっただけなのだろうと、そう思っておくことにした。リュカの様子からは、とても、そんなふうに見えないが……流石に、全く動揺していないとは思えないからだ。

 色々なことを考えて立ち尽くすジュールと、見物するように部屋を歩くリュカ。2人の間にはとにかく沈黙が流れるが、それを破ったのは他でもないジュールだった。彼が、ハッとして当初考えていたことを口にしたからだ。


「そうや、おまわりさん、おまわりさんのところ、行かな……ごめんなさい、しやんと……」


 内心、行きたくないという気持ちはあった。しかし、自分は悪いことをしたのだから、ちゃんと伝えに行って謝らないといけない。この家に電話機はないのだから、外に行って近くの交番に行かないといけない。少し離れた場所にいるリュカが、どこか不思議そうな顔をしたが、それは気にせずに、重い体を立ち上げたその時――玄関から、母親の声が聞こえた。

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