風と帆。

@Sora_mari

第1話 海とタオル。

 寒い。

 口から漏れ出た息が白く天に消えていった。手も顔も何もかも冷え切って体の感覚がよく分からなくなる。今日は雪予報。今期最大の寒波。雪はまだ降ってはいないけれど、それでも寒いものは寒い。


 震える体を少しでも温めるためにギュッと体育座りを更に縮こませる。


 寒いなら暖かい所に行けばいい、それがわかっているのに体が動かない。ただ、ぼーっと黒い海を眺めることしか出来ない。


 これから、どうしよう。


 帰る場所はもうない。ギリギリで繋ぎ止めていたものを容赦なく目の前で踏み潰されたような気分だ。今までの自分が笑えるほど哀れで価値のない人間だったなんて知りたくなかった。


 思い返せば私はずっとひとりぼっちだった。父親は物心ついた時からいない。


 母親は昼寝て夜に街に繰り出している人間で、私と関わる時間なんてなかった。昼間寝てる時に起こそうものならその辺に転がるお酒の缶を投げつけられる幼少期だった。


 それでも私は母親が好きだった。


 機嫌がいい時は私を抱きしめてくれたから。数える程しかないけれど、その瞬間が何よりも大好きだった。


 だから私は頑張ったのに。


 友だちの遊びも部活の誘いも断って家事をした。出来のいい娘であるように学年で常に1位になるように頑張った。

 お金が無いから、と言われて高校に行けなくても私は文句1つ言わずに卒業してから必死に働いた。


 働いて、働いて、母親に恩返しをしようと思った。もう一度、私に笑いかけて欲しかった。


 ついにお金が溜まった今日。私は母親が欲しがっていた高いネックレスをカバンに入れ、玄関をあけた。

 母親の喜ぶ顔を想像して、開けたドアの向こうには見知らぬ男物の靴があった。


 リビングからは楽しそうな母親の声。

 恐る恐るリビングへと続くドアを開ける。


 すると、そこには下着姿で知らない男とキスをする、母親の姿があった。

 首には私が買ってきたのと同じネックレス。机の上にはラッピングの空箱があった。


「お母さん…?」


 私はただ、息を潜めることも出来ず立ち尽くすことしかできなかった。


「えっ、お前子供いんの!?」


 驚いた声を上げたのは濃い顔立ちのそこそこガタイのいい男。年は母より少し下くらいだろうか。


 男の視線とともに母親の方を見ようとしたその時、顔に強い衝撃が走った。カランカランと軽い音を立てて、私の顔から空き缶が落ちていった。


「知らないわよ!泥棒よ、泥棒!!」


 母親は怯えたように男の腕にすがりついていた。けれどその目はこちらを強く睨んでいた。


「なんだと!?」


 母親の言葉を信じて男が立ち上がる、臨戦態勢だ。


 男の殺意の籠った目と汚いものを見るかのような母親の目に、私は弾けたようにその場から逃げ出した。


 それからのことはよく覚えていない。


 逃げて、逃げて逃げて逃げて。


 いつの間にか電車に乗って、私は終点で降りた。


 それがこの海だった。


 終点。海。その2つから連想されるのは。


「なんだよ、ここで死ねってことかよ…。」


 苛立ちと悲しさが入り交じる。

 もしも、私が物語の人物なら。

 この世界に見放されたこの状況でとる行動は。


 私は意を決しておもむろに立ち上がった。そのままの勢いで海に進んで歩いていく。


 途中で靴と靴下を脱ぎ捨てて、涙が流れるより先に行こうとズンズンと進んだ。


 あっという間に黒い海は足の先になった。

 少し触れた足先が冷え上がる。それでも勢いで海へ進んでいく。


 足の裏、くるぶし、ふくらはぎ、膝。次々と海に飲み込まれていく。


「きゃっ…!」


 ふと、足元の砂が沈んで足を取られた。そのまま私はバランスを崩して水面に尻もちをついた。


 突然の衝撃で私は我に返る。体温を奪っていく、冷たい海。腰まで迫る、水面。

 そして、先程まで頭を支配していた死への衝動。


「もう、いやだ…。」


 とうとう、私の目から涙がこぼれていった。


「死にたくない、こんな惨めに終わりたくないよぉ…。」


 子供のような泣きじゃくった自分の声が波の音に消えていく。

 もうどうしたらいいのか訳が分からなくて、海に座ったまま泣きじゃくる。


 泣いて泣いて、濡れている感覚がわからなくなってきた頃、ふと頭の上から柔らかいものがふわっと覆いかぶさった。

 驚いてその正体を触ってみるとそれが白いタオルだということがわかる。


「大丈夫?」


 そしてタオルから出た視界の先には無愛想な金髪の男の人がいた。

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