愚者は咲かない花を視る

未来屋 環

前篇

 ――そう、私達は、それぞれ違う世界の入口に立っている。



 『愚者ぐしゃは咲かない花をる』



 彼は、自分自身のことを『愚者』と呼んだ。


「初めにあなた方に言っておく。私は実に非生産的な人間だ。先人が生み出してきた作品を読み解くばかりで、私自身が何かを生み出すことはない。これまでそうやって生き永らえてきてなお、一方的な消費を続け現在に至っている――それを『愚者』と呼ばずして、何と呼ぼうか」


 初回の講義で、開口一番放たれた言葉。

 大学受験生活を終え、ようやく始まる新生活に目を輝かせていた同級生達は一様に戸惑い、教室には僅かながら不穏な喧騒が満ちる。

 その様子に眉一つ動かさず、彼は続けた。


「私からあなた方に助言ができるとすれば、この最後のモラトリアムを終えた暁には、社会に出て世の役に立ちなさいという至極当然のことだ。それはあなた方の義務である。私は愚者だが、あなた方に必要な知識の幾らかは授けることができるだろう」


 淡々と綴られる言葉は、何かの台詞のように宙を滑っていく。

 そのかんに、眼鏡の奥に佇む温度の低い瞳が、ふと私を捉えた。

 目を逸らすこともできず無言で見つめ返したのは、私の中に眠る意地のような何かであったろう。そのまま何秒経過したのかはわからないが、先に白旗を揚げたのは彼の方だった。

 彼は私から視線を外した後、そのおごそかに響く声で、こうのたまった。


「――生み出す者になりなさい。私の言いたいことはそれだけだ」


 ***


未咲みさき、来週のコンパどうする?」


 学食で声をかけられ、振り返ると同じサークルのメンバーがいた。

 大学は高校までと違ってクラスがないので、部活やサークルなど何かしらのコミュニティに入らなければ色々と不便がある――そう聞いていたので、私はあまり実害のなさそうな文化系サークルに入っていた。


「ごめん、私その日バイトあるから」


 そう答えて困ったような笑みを返すと、彼らは残念そうに去って行く。私は胸を撫で下ろし、昼食を再開した。


 実際、そのサークルはそこまで出欠にうるさくもなく、度々行われるイベントに参加しなくても文句を言われないのは利点だった。お蔭さまで入学から既に半年以上が経過しているにも関わらず、私は数える程しかサークルに顔を出していない。

 しかし、「仲良くなる為にお互い名前で呼ぼう」というよくわからない風習の所為せいで、私は同じサークルに入った以外に何の接点もない人々から、呼び捨てで名前を呼ばれる羽目になった。

 それは少なからず私の本意ではなかったが、歳を重ねるにつれてそういった事象は増えていくだろうと、心のどこかで諦めてもいた。


 ――何故なら、私がこの大学にいることも、私の本意ではなかったからだ。



 午後は彼の講義だった。

 初回こそ面食らったとはいえ、その後は淡々と文学に関する解説が行われた。試験も奇をてらったものでもなく、単位が取りやすいということで多くの学生が彼の講義を履修していた。


 私は教室の後ろの方の席で、全体を見下ろすように座っている。彼からは最も距離が遠いここは、私の定位置だ。

 あの初回の講義以来、私と彼の視線が交錯したことはない。私はずっと彼を見つめているが、彼がこちらを見ることがないのだ。それが何だか面白くなく、私は無遠慮に彼の観察を始めた。


 特に染めていないであろう黒髪には少しずつ白が混じり、相応の年齢を感じさせる。何の変哲もない白いワイシャツの上に重ねられた臙脂えんじ色のベストが、冬に近付き始めた季節に抗うようにその色を際立たせていた。鼻筋が通った涼しげな顔に、フレームの細い眼鏡が鎮座している。その奥には、あの日私を射抜いた瞳が在った。


 ――私は何故ここにいるのだろう。


 絵を描くのが好きだった。ずっとずっと、絵を描いて生きていきたかった。

 美大に進みたいという私に、両親は良い顔をしなかった。趣味なら良いが、絵で生計を立てられる程人生は甘くない――私はその正論に立ち向かう術を持っていなかった。それでも、受験だけでもさせて欲しいと頼み込んだ。


 結果は見ての通りだ。美術予備校に通わずに合格できる程、私は天才ではなかった。


 両親から勧められ、抑えで受験していたこの大学に入学したものの、ずっと自分の居場所がここではない気がしている。あんなに好きだったはずの絵からも拒絶されたように思えて、美大受験が終わってからは一切描いていない。

 絵が私を愛してくれなかったとしても、私が絵を愛していればそれで良かったのに。

 描かなくてもこうやって生きていられる私は、きっと本当の意味で絵を愛していなかったのだろう。


 あの日、冷静なはずの彼の眼差しにいぶされるような思いをいだいた。

 彼は自身が『愚者』だと宣うが――こんな中途半端な私こそ、『愚者』ではないのか。


「――大丈夫ですか」


 耳元でかけられた声にはっと顔を上げる。

 そこには、あの日以来私を視界に捉える彼の瞳があった。

 周囲を見回すと、教室には他に誰も残っていない。いつの間にか講義は終わっていたようだ。


「すみません、すぐに出ます」


 視線を彼から逸らして机の上のものを鞄に詰め込んだ。彼は何も言わず傍に立っている。頭を下げて足早に教室を出た。

 廊下を歩きながら先程の彼の瞳を思い出す。そこにはやはり温度が感じられなかった。



 建物を出たところで、「未咲」と声をかけられる。

 前方から同じサークルの先輩が近付いてきた。入学当初に参加したコンパで飲酒を強要してきた男だ。その時は他の先輩達が守ってくれて事なきを得たが、嫌な思い出がよみがえる。

「未咲、来週のコンパ来ないんだって? たまには来なよ、皆待ってるし」

 にやにやと笑いながら舐め回すような視線を向けられ、私は嫌悪感を隠すことができなかった。引き攣った表情に気付いたのか、男は更に距離を詰めてくる。


「そんな嫌そうな顔しないでよ、傷付くじゃん」

「……別に嫌そうな顔なんて――」

「えっ嫌じゃないの?」


 男はその表情を喜びに染めた。私の心は更に憂鬱に曇る。

 物事を都合良く曲解して、何とおめでたいのだろう――私には男が言語の通じない物の怪に見えた。


「じゃあさ、これから俺と酒を飲む練習しようよ。この前良いバー見付けてさ――」

「――未成年者に飲酒を強要するのは犯罪だが」


 いきなり背後から響いた厳かな声に、男の台詞が止まる。

 振り返らずとも、その声の持ち主が誰であるかを、私は知っていた。


「あー……藤代ふじしろ先生、誤解ですよ。じゃ、俺行くわ」


 きびすを返して去る男を見送っていると、背後の気配が隣に移る。視線を向けると、彼はいつもの温度が低い眼差しでこちらを見ていた。

 言葉を探している間に、彼は元来た方向を指差す。


「――珈琲は、好きですか」


 ***


 彼の背中に続いて、研究室に入った。

 促され、部屋の中央の椅子に座る。机の上には多くの書物が積まれていた。見たことがある題名の小説もあれば、小難しそうな論文のようなものもある。

 勝手に触れて良いのかわからず、私は黙って座っていた。不格好な本の塔の隙間から、珈琲をれる彼の姿が覗く。


「砂糖と牛乳は」

「……できれば、どちらも多めで」


 私のリクエストに答えることなく、彼は作業を続ける。

 暫くして、彼は一つのマグカップを私の前に置いた。その珈琲は淡いブラウンに染まっている。恐る恐る口を付けると、穏やかな甘みの後に、ほんの少し大人の味がした。子どもの頃に飲んだコーヒー牛乳を思わせる懐かしさに、私は思わず頬を緩める。

 彼は立ったまま珈琲を啜っていた。その視線はやはり私を向いていない。

 時計の針がカチコチと無言の時間をカウントしていく。

 数分後、居心地の悪い静寂に先に音を上げたのは私だった。


「珈琲、お好きなんですか」


 ちらりとこちらを一瞥する。こくん、と彼の喉が鳴った。飲み下したそれを味わうようにゆっくりと目を閉じた後、彼は口を開く。


「――珈琲は文学的な飲み物だ」

「文学的?」


 私の問いに、静かに彼は頷いた。


「胃のを真っ黒に塗り潰すような色と味が、多くの人々を虜にしている」

「――だとすれば、私の飲んでいるこれは、珈琲ではありませんね」


 彼は私の持つマグカップの中身を一瞥し、小さく笑う。目尻に細い皺が浮かんだ。


「確かに。あなたの言う通りだ」


 そして、また一口珈琲を啜る。小さな世界は再度音をうしなった。

 会話の糸口を見失った私も、彼の言う珈琲ではない何かを啜る。きっと、私の胃の腑は、優しいキャメル色に染められていることだろう。


 室内には、互いが珈琲とその紛いものを味わう音だけが存在していた。

 いつしか、その空間は不思議と居心地が良いものへと姿を変えていた。

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