三章【月望み叶う黎明】
一節〈救世主なんていなかった〉
その日は、雪の降る聖夜だった。
真っ白な雪がちらほら街に落ちて、凍えるような風がビルの隙間を通っていく。
どこにでも、いつでもあるようなそんな冬のある日だったのだ。
ばん、ばきり、ぐちゃり。
ばん、ばきり、ぐちゃり。
ばん、ばきり、ぐちゃり。
何度も何度も何度も引き金を引いて、何度も何度も何度も頭蓋を撃ち抜いて、何度も何度も何度も脳幹を掻き回す。
その度に視界が真っ赤に染まる。
血の臭いが脳を犯す。
何度目かも分からず指に力を込めた時、もうそれは動かなかった。
弾倉の中身を全て撃ち切ったからだ。
跨る下の狂信者は、驚愕の表情のまま動かない。
眉間に空いた銃創から鮮赤色を垂れ流したまま動かない。
呼吸も、脈拍も停止したまま動かない。
自分以外の時間が停止していた。
■は、狂信者を撃ち殺した。
たった九の齢の少年が大人を撃ち殺したのだ。
────……おにいちゃん、おにいちゃん。
おとうさんも、おかあさんも動かないの。
無視するの。どうして、どうして無視するの?
ねえなんで、教えてよおにいちゃん。
どうして、どうして、どうしてどうしてどうして。
静かな空間、血塗れの空間に似つかない声が響く。
振り向くと、倒れ伏した男女の側に幼い少女が縋りついていた。
■とお揃いの真っ白なダッフルコートを赤に染めて、必死に。
話し掛けても返さない両親。
冷たくて、動かない両親。
少女はまだ幼かった。
死という概念を理解できていなかった。
だから、この惨状を正しく認識できていなかった。
いや、どちらかと言えば認識することを拒んだのだ。
精神が狂ってしまわないように。
────みんな赤いの、みんな冷たいの。
おとうさんもおかあさんも、周りの人もみんな。
おにいちゃんも赤いよ、おにいちゃんも冷たいの?
わたしを無視するの?
■は少女に歩み寄る。
凶器を放り投げ、震える少女の抱き締めた。
────僕は温かいよ、■を無視したりしないよ。
ねえ、■。こんなこと全部忘れてね。
全部全部嘘なんだよ、夢なんだよ。
夢から醒めたら、全部元通りなんだ。
みんな笑って、みんな楽しい世界に生きてるんだ。
だから、おやすみ。
こんな
憶えているのは、自分だけでいいのだから。
少女を、■の目を瞑らせて眠らせる。
これは、夢だ。質の悪い悪夢。
神様が走り書きした悲劇の脚本。
これが
辛ければそれが
今の■には、もう分からなかった。
ただ一人遺された、守った肉親を癒やすことしか考えられなかったのだ。
やがて、規則的な寝息が聞こえてくる。
そこには先程までの狂乱した雰囲気はどこにもなく、どこにでもいるような少女が安らかに眠っているだけだった。
■を数少ない綺麗なままの床に寝かせ、放り投げていた拳銃を拾う。
まだ、戦いは終わっていない。
どこかに、あの狂信者の仲間がいるかもしれないからだ。
弾が入っていなくたって、牽制くらいにはなる。
そう考えて、いつでも構えられるように備えながら出口へと歩いていく。
静まり返ったホールの中、一歩一歩踏み出す足音が響いた。
辿り着いたのは、飛び散った血が付着した自動ドア。
積み重なった遺体を退けて、扉を開けた。
あんなに開かない、開かないと人々が絶叫していたドアはいとも容易く開いてしまう。
電気が途切れ、自動で開閉しなくなっていたとしても、開けること自体は容易だったのだ。
ならば、何故彼らは開けなかったのだ。
そんな思考は、冷たい風で妨げられてしまった。
久しく感じる外の空気。
眩く輝く、イルミネーション。
そして、座喚く周囲。
暗闇に馴染んだ目が明度に慣れた時、■が認識したのは恐怖と嫌悪が入り混じった人々の顔だった。
この中に、彼の仲間がいるのだろうか。
右手の拳銃を構え、引き金に指を掛ける。
それから弾丸が出ることはない。
しかし、人々の感情の天秤を傾かせるには、黒鉄の凶器の姿だけでも十分だった。
一斉に聞こえ出す悲鳴。
煩わしいことこの上ない。
そう考えつつも、■は耳を塞ぐことができない。
両手で構えた拳銃を下ろせないからだ。
静かな空間から一変、騒がしい場所に来るとここまで煩いのだろうか。
耳鳴りと、きりきり痛む頭を抱えて周囲を索敵する。
どこにも彼の仲間らしき姿は見つけられない。
黒い鎧と紺の制服を着て盾を持った者と、赤いランプに白黒の車体が前方を取り囲んでいるからか、視界が通らなかった。
────警察だ。銃を捨て、両手を上げなさい。
拡声器からそんな声が聞こえてきた。
けいさつ、ケイサツ、警察。
ああ、やっと来てくれたのだ。
市民を危険から守る国家の従者が。
逆らう気もなく、■は銃を捨て両手を上げようとした。
だが、銃から手を離すことができない。
いくら離そうとしても、接着剤か何かで貼り付けたかのように指先すら動かせない。
離せない、動かせない。
この凶器から逃げ出せない。
腕が震える、呼吸が荒くなる。
何故、どうして。
混乱する頭とは別に、身体から急激に力が抜けていく。
足元から座り込んで項垂れた。
それでも、引き金から手が離せない。
重装備の者が近付いてくる音が聞こえる。
間を空けないように囲んだ彼らは、■の手首を掴んで丁寧に指を引き金から外していく。
石のように固まった指も、外部からの力には屈したようだった。
一本、また一本と外され、最後の一本が外された時、やっと肩の荷が下りた気がした。
一気に意識が遠退き、音も色も分からなくなる。
肩が揺さぶられても、声を掛けられても。
襲ってくる眠気に耐えられずに、■は意識を手放したのだった。
こうして、二〇一〇年十二月二十四日、神奈川県横浜市。
某ショッピングモールで起こった大量殺人事件、
後日、目覚めた■には事情聴取が行われた。
あの惨状を生き残ったのは予想通り■と■だけ。
他は全て失血死していたらしい。
あの男も含めて。
────妹は、■は大丈夫ですか。
開口一番、■が訪ねたのは■の安否であった。
警官は苦虫を噛み潰したような顔でこう答える。
────無事だよ。
あの日のことは全て忘れてしまったようだったけれど。
■はにこりと笑った。
なら良かった、と貼り付けたように。
それから、すべての質問に答え続けた。
ある男が急に趣旨不明の話を始めたこと。
拳銃を取り出し、人々を撃ち殺し始めたこと。
ブレーカーが落ちて、真っ暗になり扉が開かなくなったこと。
親が殺されたこと。
そして、男を自分で撃ち殺したこと。
それら全て一つも言い淀むことも無く、淡々と。
ありえないものを見るような警官の目が、■を貫いた。
怪物を前にしているとでも言いたげな顔で。
■も■のように目を背け続けられなのなら、楽だったのかもしれない。
全部忘れて、全部無くして、ただの子供として生きていけたのかもしれない。
だが、彼らのことを忘れてしまうこと。
それは逃げることだ。
自分が犯した罪から逃げ、一人のうのうと生きていくことだ。
あの日、あの場所に■が居なければ。
皆は死んでいなかった。
彼らが死んだのは、全て■のせいなのだ。
犯した罪が赦されるわけがない。
赦されてはいけない。
奪った命は、永遠に奪われたままなのだから。
狂ったまま、■は■を演じ続ける。
その命が潰える時まで、ずっと。
ある者は言った。
『今日の栄華も、明日には散ることだってある。死はいつだってお前を見ている』と。
では、今幸せでない人間は、どうするべきなのだろう。
手に入れる幸福もない人間は、どうしたらいいのだろう。
願ったところで誰も教えてくれない。
叶えてくれない。
結局のところ
死を忘れるほど、幸福を享受できる人間が。
死を忘れることのない■には、全くもって無縁な言葉なのだ。
今もこれからも、どれだけ先の未来でだって。
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