五節〈静寂なる晦冥の町で〉
静かだ。
微かに聞こえる呼吸音、痛みに喘ぐ声。
大きく息を吸って、吐いた。
肺が膨らむ感触と、激痛が走る身体。
ああ、そうだった。
今の自分は少し、いやかなり負傷していたのだった。
レイフォードは左腕に力を入れないように、肋骨に走る痛みを耐えて、ゆっくりと起き上がった。
くらりと揺れる視界に咄嗟に頭を抑える。
意識が持っていかれるようなそれは、血を流し過ぎたことによる貧血かもしれない。
腕や身体、頭に巻かれた包帯は、見える範囲でも血が染みているのが分かった。
レイフォードの体質により回復系の術式が効かないため、止血が難しかったのだろう。
精霊術などの術式は源素、即ち神秘的
基本的に小は大に干渉できず、大が小に干渉することは容易だ。
大小と言ってもそこまで差がないことが殆どだが。
一般的な成人────この国の成人は十八歳である────の体内源素量を一とする。
五歳くらいなら二割、十歳頃なら四割、成長期を迎えると一気に大きくなり九割、そこから緩やかに残りの一割が増えていく。
レイフォードの年齢ならば、余程源素量が少なくなければ干渉することは用意のはずなのだ。
それができなかったのは、一重にレイフォードの異常な体内源素量にある。
一般人を基準としたとき、国家精霊術師は最低でも三倍はある。
訓練すれば訓練するほど源素総量は増えるものであり、国家精霊術師ほどにもなると、かなりの源素量を保持しているからだ。
偶に現れる異常値としては、シルヴェスタが分かりやすいだろう。 彼は一般人の百倍の総量を誇っていた。
他の異常値枠の者でも十倍や二十倍が限界。
大規模術式の連発など早々できないのだが、シルヴェスタは五十倍はあるし、すました顔で三連発する。
そんなシルヴェスタが計り知れないほどの大きさなのが、レイフォードだった。
彼らの特殊な“眼”を持ってしても、その総量は分からない。
ただ一つ分かっていたのは、今を生きる人類の中でレイフォード以上の源素量を持つ者はいないということ。
それほどまでにレイフォードの体内源素量は強大であった。
回復術式による治療が期待できず、また重傷であるから、本来ならばこのまま診療室で休養していなければならない。
しかし、この異常事態の中で大人しく寝ていられるほどレイフォードは図太くなかった。
レイフォードには、気掛かりなことがある。
意識を喪失する前、衛兵によって運ばれる際に見た町中。
人一人いない静かな空間。
通常、魔物が町の周辺に現れたとしてもそこまで静かにはならない。
今回の件は明らかに異常事態であることは認識していたが、住民全員の気配がなくなるほどのことだとは思えなかった。
自分の知り得ない情報、それが気になって仕方がない。
とても、大切な何かがそこに隠れている気がしていたのだ。
緊急時、クロッサスの町では中央の広場に集合することになっている。
普段は馬車の乗り換えや市場が行われている、町一番の拓けた場所だ。
そこには、レイフォードの家族も居るはずだった。
一先ず彼ら彼女らと合流し、情報を得たい。
何があったのか、何が起こっているのか。
そして、何よりも心細かった。
身体の痛みも、魔物に相対した恐怖も今になってぶり返している。
誰かに会いたい、声が聞きたい、安心したい。
不安な時に人肌を求めてしまうのは、レイフォードに残っている数少ない子どもらしい要素だった。
半ば這いずるようになりながらも診療所の扉を開け、大通りに出る。
空は未だ真っ黒で、風の音だけが響いている。
広い大通り。
昼は人で賑わい、夜は家屋や店から漏れた少量の光が照らす道は、僅かな街灯の光と暗闇だけに包まれていた。
見渡しても誰もいない。
自分の吐息と風の音しか聞こえない。
壁に寄り掛かりながら、町の中央へと亀よりも少し早いほどでゆっくり進んでいく。
石煉瓦で舗装された道は硬く、引き摺る足との間で起こる摩擦音が聞こえていた。
一層強く風が吹く。
思わず目を瞑って、右手で顔を覆ってしまう。
人の五感による近くの割合は八割が視覚によるもの、という定説がある。
視覚は人の認識に大きな影響を及ぼしており、時には真実を捻じ曲げてしまうこともあるという。
レイフォードは今、偶然にも視覚からの情報を消した。
目が見えない中、周囲を探るため聴覚に神経が集中するのは当然のことだ。
そして、その研ぎ澄まされた聴覚は、本来ならば聞き逃してしまうであろう音まで拾い上げた。
何かがこちらに向かって走ってくる音。
恐らく二足歩行で人型。
レイフォードは即座にその音の主を探した。
レイフォードに向けて走ってくるのであれば、音の主は広場から走ってきたはずだ。
現在の状況で避難場所の広場から遠ざかるのは、騎士団員か衛兵のどちらかである。
だが、今の状況で住民なわけがない。
だから、この足音は騎士か衛兵のどちらかのもののはずなのだ。
しかし、レイフォードはそうではない、と直感的に考えていた。
その足音に何とも言えない違和感がある。
あるものから逃げている、もしくは距離を置こうとしているような気がしたのだ。
周りには誰もいない。
誰もいないように見えていた。
どこまでも続く暗闇と石煉瓦。
肉眼が捉えるのはそれだけだ。
だが、レイフォードには“眼”がある。
一縷のずれもなく重なった、もう一つの世界を見る瞳。
神秘を見通す、神の落胤である証明が。
一つ、いや二つ。
小さなものと大きなもの。抱える者と抱えられる者。
視えたのは人の魂だ。
下位精霊ではない、生きた人の魂。
どれだけ見直しても、肉眼には姿は映らない。
しかし、“眼”はそこに人がいると伝えている。
どちらを信用するかなんて、分かり切ったことだった。
「そこの貴方、止まってください」
細く、掠れた声だ。
今にも掻き消えてしまいそうなそれは、この静かな空間上では凛と響き渡った。
レイフォードは行く手を阻むように大通りの中央へと立つ。
件の人物は一般人とは言い難い。
魔物が跋扈する夜の中、人一人抱えて町から出ていこうとするのは、自殺行為でしかないからだ。
子どもでも分かるそれ。
それでも、彼または彼女にはそうするべき理由がある。
誰にも見つけられないよう姿を隠し、外へ出る理由が。
「……おやおや、ぼく。こんなところに居ては危ないですよ」
レイフォードから逃げられないと察したのだろう。
何もない空間に、黒い
手には震える少女を抱えており、空いている方の手には短剣を握っている。
とても親子やきょうだいのようには見えない。
「外は魔物が居ます。
危険ですので、広場に戻った方がいいですよ。
喩え、武器を持っていても。
それとも────広場に戻れない理由があるのですか?」
男は微かに身動ぎする。
図星、もしくはそれに近い答えだったのだろう。
「いやはや、勘が鋭いようで。君は誤魔化せなさそうだ」
男は短剣を少女の首に添えた。
鋭利な切先は躊躇いなく細い首に向けられている。
予想通り、その人物は一般人ではなかった。
誘拐犯、とでも言うべきだろう。
「……その子を解放してください」
「それは無理な相談だ。
私はこの子が欲しいんだよ。
どこかの誰かさんたちが、可愛い可愛い私の子どもたちを殺してしまったからね。
補充のためにも、この子は手放せないなあ」
距離を詰めるべきか。
否、今のレイフォードの身体でそんなことをすれば、あの男に逃げられかねない。
逃げられてしまえば、再び見つけることは不可能になる。
レイフォードがやるべきは、誰かが少女の行方に気付き、ここに駆け付けてくれるまで時間稼ぐことだ。
「ああ、時間稼ぎとか考えてる?
無駄だよ、今頃どこも大混乱だからね。
誰も助けに来ないよ」
だが、そんな浅知恵が通じる相手ではないようだった。
彼の言葉がどこまで信用できるかは疑問である。
ただの虚言の可能性だってある。
しかし、だ。
こうやって無駄話を続けているのは、誰も助けに来ないことをを把握しているからではないのだろうか。
そんな思考がレイフォードの頭を過る。
単に急いでいたのであれば、こんな子どもなぞ牙にもかけず走り去っていたはずだ。
そうする必要がない、つまり急がなくてもいい。
ここまで余裕でいられるのも、彼が何かしらの策を講じているから。
ならば、男の言う通り、時間稼ぎは無駄だ。
いつになっても来ない助けを待てるほど、レイフォードは肉体の余裕がない。
「少しでも動けばこの子を刺す。見捨てたくないだろう?」
少女が男の腕の中で震え、涙を零す。
人質を取られている。
レイフォードに交渉の手札がない以上、無策に動くことはただ不利になっていくだけだった。
「うんうん、大人しい子は大好きだよ。
男は短剣の切先をレイフォードに向け、何かを呟いた。
途端、石材を駆け巡る源素。
“眼”で見た情報から攻撃が来る地点を予測し、後退して避けた────はずだった。
「……な、んで……?」
右足に走る衝撃。
不測の事態に、レイフォードは思わず膝を付く。
ちらりと下を向けば、石の槍が足を地面に縫い付けてしまっていた。
「保険、掛けておいて正解だったか。
最近の子は怖いねえ、あれ避けちゃうなんて。
でも……動いちゃ駄目だって言ったよね?
今回は許してあげるけど、次はないよ」
溜息を吐きつつ、男はへらへらとそう言う。
少女の首に添えられた短剣が、肌を撫でた。
薄皮が切れたのか、少量の血が伝っている。
彼は本気で、少女の命を奪うつもりだ。
打つ手が無い、何もできない。
少女の命が男に握られている状況で、無茶などできるわけがなかった。
最優先は少女だ。
もし彼女を男から解放できれば、打開点もできるだろうが、その方法が思い付かない。
八方塞がりだった。
歯痒さと悔しさで拳を強く握る。
「いいねえ、殺人鬼を痛め付けるというのは。
正義の英雄にでもなった気分だ」
「……どういう、ことですか」
高笑いして言い放たれた言葉の意味を、レイフォードは理解できなかった。
殺人を犯した覚えはない。
レイフォードが奪ったのは、この世の膿である魔物だけだ。
「ん、分からない?
ああ、分からないのか。
ならそれでいい。
分かっても、もう意味はないしね」
再び短剣を向け、男は呟く。
彼の身体を巡る源素、次に貫かれたのは左足だった。
膝を付き続けることもできず、前方に倒れる。
ずかずかと近付いて来た男は、レイフォードの顔の前でしゃがみ込んだ。
「君の力、本当に厄介なんだよ。
私たちの計画の邪魔にしかならない。
だから、君には消えてもらう。
魔物の一匹として彼らに殺されて、ね」
男は懐を漁り、黒い液体の入った小瓶を取り出す。
見覚えのあるそれ。
レイフォードは直感的に、その小瓶の中身が魔物の血液であると察した。
魔物の血液なんて何のために使うのだ。
薄ら笑いの男の顔からは、何も読み取れなかった。
「冥土の土産に教えてあげよう。
これは魔物の血液を濃縮した特殊な液体でね、身体に入ったら直ぐに魔物になってしまうんだよ。
聞いたことくらいあるだろう?
魔物の血を取り込んだ者は、魔物になってしまうって」
男はレイフォードの顎を掴み、顔を上に向けさせる。
手首を掴んで渾身の力を込めても、びくともしなかった。
「抵抗するねえ、もう終わりだっていうのに」
固く一文字に結ばれた口に、親指が差し込まれる。
男の太く角張った指がレイフォードの口を無理やりこじ開けた。
噛み千切ろうとしても、男は表情を一切変えない。
光悦した表情で、瞳には暗い光を宿していた。
男は小瓶の蓋を片手で取る。
小瓶を左手、短剣を持ったままではあるが右手は口を開けさけている。
つまり、彼の両手は今塞がっていた。
当然、少女の拘束も外れている。
だが、長時間恐怖に晒された少女はへたり込んだまま動かない。
嗚咽を垂れ流し、地面を見つめるだけで何もできない。
あと一人、あと一人誰かいれば。
少女を連れ出し、あわよくば男に奇襲を掛けるものがいれば。
その願いも儚く、小瓶がレイフォードの口内に向けて傾けられる。
漆黒の液体が迫ってくる。
せめてもの抵抗に、男の腕に爪を立てた。
稼げる時間になど秒も無い。
それでも、やらないよりかはましだと思ったのだ。
悪足掻きにも満たない行為。
無駄にも思えたそれは、男の動きを刹那だけ止めた。
そして、その刹那は天秤を傾けるに値するほどの価値があったのだ。
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