四節〈平穏はいとも容易く毀れるもので〉
右目が痛い。手足が痛い。頭が痛い。
激痛に苛まれる中、レイフォードは目を覚ました。
未だ誰かに触られているような感覚と不快感、痛覚が精神を蝕んでいく。
自分にされたことではないはずなのに、確かに全て憶えている。
原理も理由も解からずに、一人で耐えるしかなかった。
噎せ返る胃液を押し留めようと、こびりついた悪夢を掻き消そうとして喉を締めた。理性は、まだ残っている。
脳裏にまだ、肉塊と化した少年の姿が焼き付いていた。
暗闇と血の臭い、恐怖と宿怨が迫ってくる。
これで百回目。また、助けられなかった。
どうしたって、少女は大切なものを奪われる。
少年を助けることができない。
何度繰り返したって運命は変わらないのだ。
この夢か現実か判別できない世界から、レイフォードは抜け出せなかった。
唯一の救いは、レイフォードとして覚醒している場合には、少女として過ごすことがないということだろうか。
どうしてこんなことになってしまっているのだろう。
遠い昔のように感じるあの日を思い起こす。
遡ること一週間前、創造の月八日。
祝福の儀で発生した異常現象。
突如激痛に襲われ、意識を手放したレイフォードが目覚めたのは、日も暮れ始めた凡そ五時間後だった。
「……ああ、良かった」
耳に入ってきたのは、聞き馴染みのある男性の声。シルヴェスタのものだ。
「……父上? ここは────」
二の句を継ごうとしたが、頭がずきりと痛んで言葉が詰まる。
それどころか、全身に渡る凄まじい倦怠感と麻痺で身体を起こすこともできない。
行き場のない力が体内で霧散し、僅かに残ったものが指先を震わすだけだった。
自身はこんなにも虚弱だっただろうか。
いや、そんなはずはない。
現に意識を失う前まで何もおかしいところはなかった。
ならばどうして。
「お目覚めになられましたか」
「……何もかも、夢であれば良かったのだがな」
部屋の奥から歩み寄ってきたのは司祭だった。
レイフォードは、二人の会話に違和感を覚える。
『夢であれば良かった』とは、いったい何のことなのだろうか。
疑問で埋め尽くされる思考を解いたのはシルヴェスタだった。
眉間に皺が寄り、悲哀で歪んだ仏頂面で彼は残酷な事実を告げる。
「……レイ、今お前の身体はある異常が発生している。原因は、至って単純なものだ。
────見えるだろう、《魂》から溢れ出す《
自分の胸、心臓の辺りを見る。
いや、見るまでもなかった。
本来ならば、レイフォードの魂は親指ほどの大きさしかなかった。
意識して、見ようとしなければ見えることはない。
だが、今は意識しなくても見える。
何故ならば────魂よりも数千倍巨大な源素が、溢れ出していたからだ。
魂、それは源素と呼ばれる力を入れる器のようなものだ。
通常、肉眼で視認することは不可能であり、一部の特殊な能力を持つ者だけが見ることができる。
様々な機能があるが、特に重要なのは源素の保有・貯蔵だ。
一般的に、生物は『肉体』と『魂』の二つの要素が必要になる。
肉体は物質界に存在し、魂は幻想界に存在する。
その二つは両方が両方にとって必要不可欠であり、片方しか無い場合は生物として成立しない。
だが、その二つがただあるだけでは、まだ生物足りえない。
物質界と幻想界を繋ぐ
それが魂に入ることで、初めて物質界と幻想界は互いに干渉し合えるのだ。
許容量の個体差はあるとはいえ、魂がある限り全ての生物は源素を保有している。
逆説的に、非生物は源素を保有していない。
これは、後天的に魂が破損してしまった場合の生物でも同じことだ。
では例えば、源素が魂の許容量を超えて注がれ続けてしまったら、その生物はいったいどうなるのだろう。
杯に注がれた水が溢れるように、魂から源素が溢れ出ていく。
縁までたっぷりと貯まれば、それらはやがて器を覆い隠し、罅入れ、破壊する。
その過程で肉体に影響が及ぶのは明白だった。
物質界と幻想界を繋ぎ、干渉する源素が溢れ出ているのだから。
肉体は飽和した源素により、物質界との繋がりが急速に、もしくは徐々に薄まっていく。
そうして、魂が魂としての機能を成さなくなった瞬間に、肉体は消失する。
まるで、身体ごと源素に変わってしまうように。
レイフォードの身体を蝕む病、その名は《体内源素過剰症》。
療法が存在しない、罹ってしまえば死亡が確定する難病の一つだった。
ああなるほど、とレイフォードは納得した。
この倦怠感も麻痺も、過剰症が原因だったのだ。
即座に消失しなかったのは不幸中の幸いだろうか。
まだ幼い少年。
病名も、病状も、知らなくて当然なはずだ。
しかし、レイフォードは状況を理解していた。
そして、その上で落ち着いていた。
定められた未来すらも、解っているはずなのに。
「……僕は、あとどのくらい生きられるのでしょうか」
レイフォードの問いに誰も答えられなかった。
シルヴェスタも司祭も、風や鳥だって答えてくれなかった。
誰一人として、レイフォードが生存できる期間を知る者はいないからだ。
「……過去千四百年間のアリステラ王国史の内、発症例は三件。
二件目の約二年、それが過剰症罹患者の最大生存期間だ。次点で半年、最低は五秒」
重い口を開けて、シルヴェスタは事実だけを並べる。
レイフォードが欲しているものは理解していた。
『お前なら死ぬことはない。絶対に治る』など、励ましてほしいのだろうと。
だが、シルヴェスタは口に出せなかった。
それが身勝手な言葉だと解っていたから。何の根拠もない守るという言葉は、いずれレイフォードを苦しめてしまうと解ってたから。
だから、事実を並べるしかなかった。
愛する我が子に、無にも等しい時間しかないと突き付けてしまうとしても。
シルヴェスタは決して愚かではない。
レイフォードも決して愚かではない。
理想と現実を明確に線引き出来る彼らだからこそ、この悲劇は起こってしまった。
────尊敬する父親から、自身はもう長く生きることはできないと宣告されてしまったのだ。
シルヴェスタは運が悪い男である。
対人関係は、それが顕著に表れる。
本人がどれだけ努力したところで、他人が関わり始めれば、その不運は遺憾無く発揮されてしまうのだ。
特に、二択を選ぶ時はいつも不正解を選んでしまう。
今回のように。
ここでシルヴェスタが励ましていれば、選択を間違わなければ、レイフォードは病を治すことに活力を見出せたかもしれない。
しかし、それはたらればの話だ。現実はいつだって残酷で苦しいものである。
「そう……ですか……」
喉がきゅっと閉まって声が出ない。
必死に泣き出さないように堪える。
ここで涙一つ零してしまえばシルヴェスタは、父はどう思ってしまう。
誰かが自分のせいで哀しむのは嫌だった。
レイフォードは、もう誰も哀しませたくなかった。
その感情がどこから来るものかも分からずに、ただ哀しませたくないという心のままに自分を偽り続ける。
「……今日はもう帰ろう。
司祭、今日はすまなかった。また後日正式に詫びる」
「いえいえ。こちらこそ何もできずに申し訳ありません」
シルヴェスタは司祭と話し終えると、何かを呟いた。
魂から源素が渦巻き、身体を巡っている。
そして、肩に突然小さな竜が現れた。
先程まで影も形もなかったというのに、確かに存在している。
司祭はその様子に驚くことがない。
そこで、レイフォードはあの竜が《精霊》であることに気が付いた。
何分、シルヴェスタの精霊を見たのは始めてであるし、不調で頭が回っていなかったのだ。
普段のレイフォードならば、一目で精霊と気付けるはずなのに。
“眼”は正常に機能しているというのに、頭が機能していなければ無駄ではないか。
瞬きをして、脳が悲鳴を上げていることを改めて認識する。
頭痛が鳴り止む気配はない。
数分後、椅子に掛けられていた上着を回収し、シルヴェスタはレイフォードを抱え上げた。
がらんと閑古鳥が鳴く礼拝堂を抜けて、教会を出る。
既に馬車は到着しており、御者台から降りてきた従者が馬車の扉を開け、レイフォードを抱えたまま颯爽と乗り込んだ。
貴族に見合う高級な
一仕事終えた、という風に溜息を吐き、自分も反対側の座席に座った。
書類仕事しかしないからと、母にも力比べで負けることもある細腕で、よくここまで運んでこれたものだ。
シルヴェスタが譲れない、父としての挟持を垣間見た気がした。
馬車が動き出す。
座っているからか、振動がいつもより強く伝わってくる。
自分が乗り物酔いする体質ではないことに、レイフォードは感謝した。
それでも気分の悪い身体には障るようで、頭痛も倦怠感も酷くなっていくばかりだった。
十数年前はもっと揺れが大きかったと聞く。
現在の改良された馬車でなければ、レイフォードは再び意識を失っていた可能性がある。
寝られると考えるならば、そちらの方が良いのかもしれないが。
茜色が徐々に藍色に染まっていく。
暫くすれば星々が顔を出し、月が世界を仄かに照らし始めるだろう。
今日は雲が少なかった。空を見るには丁度良い。
だが、その空をレイフォードが見ることは叶わない。
自立できないほど身体が弱っている。
せめてその数歩だけでも歩ければ、何か変わるかもしれないのに。
窓から見える景色に木々が映り始めた。
もうすぐ屋敷に着くだろう。
レイフォードの予想通り、数分もしない内に馬車は運動を停止した。
同じようにシルヴェスタが抱え上げて、降りていく。
屋敷では帰りが遅くなったことを心配した家族が待っていた。
母、兄、姉、付きの数人の従者。
春だと言ってもまだ肌寒い中、待ち続けることは些か辛いはずだ。
心配させてしまったことも、外で待ってもらっていたことも、レイフォードはとても申し訳無かった。
全て自分のせいなのだから。
「お父様、レイ!」
一人の少女が二人の元へ駆け寄ってくる。
色彩は母、顔は父シルヴェスタによく似た少女。
レイフォードの姉であるリーゼロッテだった。
「心配いたしましたわ。
どうしてここまで遅くなったのですか?」
「色々あったんだ。
後で話すから、今は一先ずレイを休ませてあげてくれ」
疑問を投げ掛けるリーゼロッテを往なして、シルヴェスタは家族の側に控えていた従者にレイフォードを預けた。
「クラウ、後で執務室に」
「……解ったわ」
妻であるクラウディアと耳打ちし、レイフォードを自室へ運ぶことの他いくつか命令を下すると、自分はやるべきことがあるからと離れていく。
従者の手に渡った時点で、レイフォードの意識は既に朦朧とし始めていた。
鈍器か何かで叩かれて続けているかのように視界が揺れ、鋭い痛みが脳を突き刺す。
途切れゆく意識の中で最後に見えたのは、あり得ないとでも言いたげな兄の目だった。
それからだった。
レイフォードがあの世界に落ち始めたのは。
最初は酷く動揺した。
身体を這う手の不快さも、振るわれ続ける暴力への恐怖も、大切な人を喪った哀しみも。
全てすべて自分のものであるはずなのに、一つだって自分のものではないのだ。
苦しい、辛い。
ずっと一人でそれらの感情を抱え続ける。
誰かに相談しようと思わなかったわけではなかった。
だが、レイフォードは躊躇った。
訳の分からないことを話して、おかしな目で見られることを。
可哀想な子だと憐れまれることを。
元々、少し異端な子どもであった。
歳に似合わぬ聡明さと、時折見せる懐疑な行動。
本人に思考の流れが存在してそれに沿って動いているといっても、他人はそのことを知る手段がない。
ましてや、レイフォードは誰にも言えない秘密が。
他人とは隔絶的に違う要素を孕んでいたことは事実だった。
────自分ではない、他人の記憶を持っている。
それも、ここではないどこか別の世界に生きた者の記憶。
それは、レイフォードが異端である証。
生まれてから現在に至るまで、秘匿され続けたもの。
これが他人へ知られれば、レイフォードはただの人ではいられなくなる。
もう既に人ではないとしても、誰にも知られるわけにはいかなかった。
どうしたって、レイフォードはシルヴェスタの息子で、彼らの家族であるレイフォード・アーデルヴァイトでいたかったのだ。
ああ、また秘密が増えた。
レイフォードの首をくるりと廻って締め続ける糸がまた一つ増えた。
増える度に息が吸えなくなる。
生きることが難しくなる。
それでも、レイフォードは生きねばならなかった。
あと僅かの生命を抱えて藻掻かねばならなかった。
何故なら、それが“レイフォード・アーデルヴァイト”なのだから。
人であり続けることをやめるわけにはいけないのだから。
偽り続けることを止めるわけにはいかないのだ。
眠れないのに、再び眠りに就こうとする。無駄だと知っても、人であるからには休眠は必要なのだ。
あの日からずっと続く悪夢は、レイフォードを離してくれない。
夜は、まだ明けることはなかった。
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