11.祓い巫女
「大変大変」
母がパートから帰ってきた気配がする。バタバタとせわしなく足音をさせているのはいつものことだが、
「ねぇ明文知ってた? いま大変なのよ」
と声をかけてくるのはよほどのことがあったときだけだ。
「どうかしたの」
二階からのそっと顔だけのぞかせて明文は聞いた。母親の顔面は蒼白というほどではなかったが、深刻な面持ちをしていた。
「近所で飛び降りあって」
「えー……ほんとに?」
このところ気分が滅入っている明文としては、他人事とはいえその報告は胃の辺りに重い一撃を加えた。飛び降りて、そのあとどうなったのか、母ははっきりと言わなかったが、だいたい察しはつく。
「現場見たの?」
「ううん、通りかかっただけ。もう警察が来てて、ブルーシートですっかり覆われてて、なんにも見えなかったわよ。だからわざわざその辺に集まってた人に聞いちゃった。なにかあったんですかって。そしたら今日の朝? 飛び降りた人がいたんですって」
そういうの野次馬って言うんだよ、と内心であきれながらも、なんとなくほっとする。母親は心臓が強い部類の人間だが、だからといって進んでショッキングな場面に出くわしてほしくはない。
「あんたも気をつけなさいね」
突然矛先を向けられてどきりとした。でも突然休職して帰省してきたのは自分のほうなのでなにも言い返せなかった。なにか病みを抱えて帰ってきたのだと思われてもしかたがないし、親として心配になるのは真っ当だ。それにまったくその心配が的外れというわけではない。ただこの母には明文の置かれている現状も悩みも理解することはできないだろう。
「つらくなったら仕事なんてやめて、いつでも帰って来ていいからね」
いや、それはだめだろ。
という出かけた言葉を飲み込む。
もしもそんなことしてみろ、ご近所中でちょうど良い世間話のネタにされるのが目に見えている。青木家の二階に引きこもり息子と同列に語られるなんて屈辱極まりない。
だいたい自分は教職に就きたくてここまで走ってきた。教師になる夢を叶えて、いままでやめたいなどと思ったことは一切ない。
母に訴えたかった。僕がこうなっているのはすべて身の回りで起きる不可解な出来事のせいなんだ。と。
そう思った瞬間、嫌な予感で急に頭が冷えた。
身の回りで――って、あれ、まさか。
「近所ってどこ」
「むかし紫珠ちゃんの住んでたアパートよ。知ってた? あそこまだあるの。すごいわよね」
母の何気ない答えに、足元から首筋まで怖気がぞっと込み上げるのを感じた。
そのとき。
ピンポ――ン。
玄関のチャイムが鳴らされて、明文は腰を抜かすほど驚いた。普段神経が図太くゴキブリにも動じない母も、短く悲鳴を上げている。
「は、はい」
母がドアモニターまで駆けて行って応答する。恐る恐る明文がそのあとをつけていくと、聞き覚えのある声が耳に届いた。
「あーっ! 俺俺、ぶんたろーさんの友人の者っす! ぶんたろーさんいますか?」
潔すぎる俺俺詐欺のような挨拶が聞こえてきた。
「はぁ。ぶん、たろう……?」
「はい、います!」
母がドアモニターの前でぽかんとしている隙に、大急ぎで割り込んで応答する。ガタイの良い神主装束の男が画面のなかで仁王立ちしていた。
「おお、よかった! 話はあとだ。とにかく一緒に来てほしい」
「なんでうちの家がわかったんですか?」
車に乗り込みながら明文は聞いた。二日ぶりに見る土門鹿助は、ひどく久しぶりのような印象を受ける。
「古坂アパートから徒歩圏内の中川って表札の家を片っ端から当たってたんだよ。一軒目でヒットしてよかった」
「霊視したんじゃないんですね」
「おお、その手があったか」
しかし鹿助が運転を始めると車内はしばらく無言になった。外を見る気になれず、助手席の明文は視線をカーナビにやるしかなかった。
ローラー作戦までして自分を迎えに来たのはなぜなのだろうか。またしても勝手気ままに振り回されたが、このときばかりは正直助かったと感じていた。あのまま母親とふたりで家にいてもどんな思いで過ごせば良いかわからなかったからだ。
それにまた今夜も悪夢を見るだろうという予感がしていた。実家に帰ってから、紫珠の幽霊が現れる現象こそなかったものの、もう二日続けて同じ夢を見ている。子どもの頃の自分が、紫珠の母親に剥き出しの憎悪をぶつけるという内容の嫌な夢だ。夢のことを鹿助に報告しようかどうか、ちょうど迷っていたところでもあったのだ。
だけどいまは、その話よりも先にいろいろと伝えなければいけないことがある。
「あの、実はさっき近くで……」
「聞いてる」
鹿助が早口に遮った。ちらりと顔を見る。笑みはなかった。いつなく真剣な顔をしている。
「ほんとにあったんですか、その……」
言葉を濁す明文に、鹿助は短く、
「身元不明だそうだ」
と先回りして返した。つまり彼は、なにが起こったのか知ったうえで明文の家を探しに来たというわけだ。
「偶然、なんでしょうか。青木先生のこともそうだし、僕らがアパートに寄った直後にそんなことって……気味が悪いです」
「だよなぁ」
鹿助の相槌にはいつものような勢いがなく、明文は居心地の悪さを感じた。嘘でも気休めでもいいから、関係がないと言ってほしかった。
「詳しいことは警察が調べるだろうが」
青木医院長のときも警察は早々に自殺と断定していたことを思う。
自分はいったいどこへ向かうのだろうか。
だが足元を掬われるような不安とは裏腹に、静かな心地よい運転に揺られていると眠気が襲ってきた。明文は黙り込んだ。そのまま鹿助の車は神社へ向かった。
石鳥居の下で待っていたのは白衣に緋袴を纏った巫女で、よくよく見るとそれは土門凛華だった。気分が最悪のところまで落ち込んでいた明文にとって二日ぶりに拝む生身の凛華は破壊力が大きすぎて、立ちくらみがした。
「よお! ただいま帰った!」
と鹿助が手を挙げる。
「お待ちしてました」
凛華は品良く一礼しにこやかに微笑むと、
「こっちです」
とだけ告げ、先立って鳥居をくぐり歩き出す。向かうのは社務所ではなく、社殿のほうのようだ。
鹿助が神主をつとめるのは小さな神社で、石畳の参道は一本道だった。数段階段を登った先にこじんまりとしたお社が見える。今は参拝客もいないらしく境内は静かだ。
「ご無沙汰しております。ぶんたろーさん」
前を歩く凛華が、振り向き肩越しに声をかけてきた。
「どうも」
人は本物の神を目の当たりにするとうまく言葉が出ないものらしい。近づくことすらためらわれた。後ろから鹿助がついてきていなければ、もう少し距離を取りたかったぐらいだ。
「その後お変わりないですか。霊障など」
凛華の声はよく通る。名の通り凛として華がある、などと的外れなことを考えて、半分上の空で答えた。
「あ、ああ、特に実家にいるあいだは、大丈夫のようです」
そうですか。と安心したように凛華が口にした。ちょうど階段に差し掛かっていた。
そこで始めて明文はずっとお世話になっていたこの神社にきちんと参拝していなかったことに気づく。その負い目のせいだろうか、頭の上になにか乗っているように空気が重い。
「お履き物をこちらで」と凛華が拝殿の横の入り口で草履を脱ぐ。どうやら拝殿に登れということらしい。訳を聞くのもためらわれ、ただ言われるままにした。背後で鹿助が、「まあ遠慮せず上がれや」とのんびり言うのが場違いに響く。
拝殿内部は畳敷の八畳間だった。照明はついておらず、薄暗くて肌寒いぐらいだ。神主が祈祷をおこなう場所だというのは知っているが、明文にとって実際に立ち入るのはこれがはじめてだった。奥に祭壇があり、中央に装飾の施された円形の鏡が設置され、手前には三方に載せられた神酒などが供えられている。
「そこへ、おかけになってください」
手で指し示された先にあるのは、一枚の座布団だった。
自分のために用意されたものなのだろうか。
助言を求めて、後ろに立つ鹿助を振り返ったが、無言のサムズアップとうなずきを返された。
巫女姿の凛華が祭壇の前に立つ。紙垂がわさわさと結びつけられた木の棒を両手で持っていた。その正式な名称はわからないが、祈祷の際に神主が使用するものであることは明文も知っている。だけどもしそうなら普通は鹿助が使うはずではないのだろうか。
まあ神道のご祈祷の様式など詳しくないので実際のところはわからないが。
戸惑いながらおずおずと座布団のうえに正座すると、凛華を見上げるようなかたちで対面することになる。明文が知る以前、凛華は数年前まで地下アイドルをやっていたというが、ライブの最前列はこんな気分なのだろうか。直視するなんて無理だった。
まばゆいまでの神聖オーラに存在ごと消し飛ばされそうになりながら、この状況はいったいどういうことか、と頭の片隅で客観的に考えてみる。
ここは神社の拝殿で、祈祷の準備をした巫女が神前に立っていて。自分には数ヶ月前からたびたび幼馴染の幽霊が見えていて、幾度も怪奇現象に悩まされ、幼馴染に縁のある場所では不可解な死の報告が相次いでいる。
となれば。
凛華と鹿助が自分をここに連れて来た目的を、なんとなく理解したのと同時に。
「ぶんたろーさん、わたしはずっと、あなたのそばに紫珠さんの念が纏わりついているものだと思っていました」
静寂のなかに、鈴の音を鳴らすような凛華の声が響いた。
明文ははっとして顔を上げる。
「それは、たしかに、そう、なんですよね? 鹿助さんの霊視にもそういうふうに描かれていたし……」
だからここで、紫珠の霊を祓うのだろう。
紫珠が周囲に霊障を来たすほど悪意を持った霊になってしまったから。
しかし。
「いいえ。わたしたちは勘違いしていたのです」
凛華は少し沈んだ調子でそう言うと、明文を澄んだ目で見据えた。
そして、およそ予期せぬ答えを口にした。
「わたしたちが祓うべきは、あなただったのです。あなたが紫珠さんに憑いている、と言ったほうが良いでしょうか。中川明文さん」
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