#16 第三者の善意

 咲いている花がそのまま落ちて縁起が悪いとされるのは、椿だったっけ。

 ツツジの蜜を吸っていた子どもの口からツツジの花が道路に落ちた時、真っ先に連想したのはそんな絵画みたいな情景だった。

 現実逃避をしたかったのかもしれない。

 駅前の交差点、横断歩道の向こう。

 俺たち以外にもそれなりに人が行き来している中で、もちろん子どもの周囲にも何人もの人が歩いている中で、その子どもだけが道路から消えた。

 いや、より正確には、子どもがマンホールに引きずり込まれた、ように見えた。

 きっと錯覚だ。

 工事中でも何でもないマンホールが開けっ放しな訳も無く、神による人攫い、神隠しそのものだったんだと。

 確かに俺の目にはそう見えたのに、信号が青に変わり近づいた時、そこに子どもの姿はあった。

 道に落ちているツツジの花だけが、俺の認識と違わぬ場所にある。

 ツツジの花を集めていただろうその子ども本人は、文字通り物言わぬ石になっていた。

 道端で子どもが石になっているっていうのに、通りがかる人の誰にも慌てた様子が見受けられないのは、その子どもが七歳以下だと一目瞭然だからだろう。

 すぐ近くの花屋の店員らしい、エプロンを着けた人物が、淡々と通報している様子が聞こえる。

 でも、その店員が特別冷たい訳では無い、と思う。

 だって、七歳以下なら残機がある。

 第二の生、彼方者あっちものという残機が。

 

えにし、もう通報はされてるみたいだよ」

 たとえ多重だったとしても、通報なんてするに越したことは無い。

 それなのに水侑みゆうが俺の手を止めたのは、別の意図があるからだろう。

 疑われるから、目立つから、しばらくここから立ち去れなくなるから。

 きっと比重として一番重たいのは、俺が疑われるからだろう。

 だって今回も、石化したその像は俺の腕の鉱石と同じ色をしている。

 後ろ髪を散々引かれながら、水侑みゆうに左袖を引かれていた。

「……ん」

 マンホールに落ちたんじゃないか、みたいな幻覚が頭から離れそうにない。

 石から戻り、今までと変わらない生活を送るそれとは別に、マンホールの下には死体が埋まっているんじゃないか、なんて。

 石化事件の被害者は、時を戻したら治るんだから、そんな訳は無いんだろうけれど。

 ああ、でも、例えば神に腕を食われた後で時を戻したら腕が生えるんだから、時を戻すまでは死体がマンホールの下にあってもおかしくないのか?

 そんなはずは無いのに、石化したその姿で自分との境界線が曖昧になって、自分のせいのような気がしてくる。


「さっきさ、あの子の体、下に落ちて行かなかった?」

「見てなかった。えにしにはそう見えたの?」

「まあ、うん。錯覚かもしれないけど……。マンホールの下に、体が落ちてるんじゃないかって、そんな光景が見えた」

 例え、そうだとして。

「石化から溶けた時点でその人が戻って来るならそれでいいんだけど、さ。もしあれが俺の見間違いじゃなくて、地面の下に体があるんだとしたら……」

「うわ、なんだっけ、それ。テレポテーションの能力を持った彼方者あっちものの知り合いが前にそういう系の話してたはず。ちょっと待ってね」

 辞書を引く様を、眺めているような気分だった。

 まず手帳を取り出し、何かの一覧を確認。

 随分と分厚い、リフィルタイプの手帳だ。

 スマホからクラウドを開き、日付だけが書かれている大量の音声データの中からひとつをクリック。

 スマホにイヤホンを接続、一時間数分という音声データの終盤まで一気に飛ばして、彼は何かを聞いていた。

「いいでしょ、僕の外付けの記憶」

「それがあるってことは覚えてんの?」

「最初に記憶を消すより前にこれの準備はしたからね。もちろん、記憶を消す度にデータ一覧を見て、概要を覚え直す必要はあるけど」

 記憶が無くても、自分が書いたものだという確信を得られることが出来れば、それを自分のものだと飲み込むことは可能だ。

 俺だって、ぐちゃぐちゃの絵を自分が描いたと言われたとしても、描いている様子の録画でもあれば物心つく前かと納得するだろう。

 忘れてしまう自覚が彼自身にあることで、外付けの記憶を用意出来ている。

 話した概要をクラウドで共有するその手段は、俺が兄貴から神波ネラとしての情報を得ていることと大差ないように思えた。

「あったあった、スワンプマン」

「ああ、思考実験の話?」

「そうそう。知ってるんだ」

「知ってる、兄貴がそういうの好きだから」

「立ち話するようなもんでもないなあ。お茶でもしてから行こっか、時間あるし」

 水侑みゆうの口調をどう聞いてもそれは提案ではなく決定事項で、俺に了承以外の回答は残されていなかった。

 若く柔らかい声質と中性的な口調で誤魔化されているような気がしているだけで、やっぱりコイツは結構押しが強い。

 もしくは、俺が有無を言わさず休めないといけないような顔色であるという可能性。

「ん、分かった」

 俺がひとりで出掛けた時の選択肢はカフェとヒトカラの二択だ。

 体臭を誤魔化せるような珈琲の匂いが漂うカフェか、個室に入ることが出来るヒトカラ。

 シーシャバーという三択目は、俺自身の過敏な嗅覚によって潰された。

 体臭が独特の甘ったるいチョコミントでそれなりに臭うくせに他人の匂いはダメとか、我ながらふざけた体質だとは思う。

 駅前で目についたのは店頭に出された黒板と、期間限定チョコレートパフェのラテという文字。

「今日は、車椅子のお連れ様は後からいらっしゃますか?」

 黒板の方に気を取られていたからか、話しかけて来たカフェの店員が、急に目の前へ飛び出してきたような気がした。

 ついでに、どう考えても眠留みんとと間違えられている。

「……いえ、大丈夫です」

 このやり取りだけで、分かったことが二つある。

 まず、極度の人見知りを自称する兄貴が店員から話しかけられる程度には、ここに通っているということ。

 そして、相当頻度で眠留みんと幽禍かすかが一緒に来ているだろうということ。


えにし、何飲むの」

 各テーブルの上に置かれた注文用のタブレットを見て、ここが眠留みんとの行きつけである理由を理解した。

 口頭で注文せずに済むかどうかは、眠留みんとにとって大きな違いだろうから。

「チョコレートパフェのラテ」

「甘い物好きだねえ。それ、余計喉乾かない?」

「セルフサービスの水も飲むからいい」

 俺自身は初めて来たはずの店なのに、水の場所に向かって自然と視線が向いていた。

「じゃあ、頼んでおくから水持ってきなよ」

「ん。水侑みゆうは?」

「水?」

「うん」

「じゃあ、お願い」

「うい」

 前にもこうやって、水の入ったコップを二つ持ってテーブルの間を歩いたような気がする。

 同行者が車椅子に乗っているから、水を持ってくるのはいつだって俺の役目で。

「おかえり。……えにし?」

「あぇ? 俺は……」

 俺はあまねだけど。

 そんな言葉が口から出そうになって、コップの中の水が揺れた。

「……今の俺、兄貴に見えた?」

「お兄さんっぽくはないけど、見たことない顔ではあったかな。今日、一軒だけにしとく?」

「いや、大丈夫。アポも取ってあるんでしょ?」

「まあね」

 水をテーブルに置いて、袖の上から右腕に触れた。

 皮肉な話だけれど、ゴツゴツとした鉱石の感触とマネキンのようなぬるさが、俺は俺だと証明している。

「ちょっと、兄貴の記憶との混濁があったっぽい」

「それ、お兄さんって言うか……」

 たっぷり三秒間、空調と、周囲の客の声だけが聞こえてくる時間があった。

「そこで話を切るなよ」

「いやでも、僕から言うのは……いや、逆にアリか」

「何が?」

「記憶について、僕は色々調べてるからさ。記憶転移っていう俗説があるんだよ、臓器移植をされた時に、その臓器の持ち主の記憶が移るんじゃないかっていう説」

「俺が兄貴の記憶を持ってるのはそれじゃないかって話?」

「ちょっと、いやだいぶ違うけどね。だって臓器そのものどころか、胎児まるごとだった訳だし……。って、僕がこう言えてるのは、君たちの顔を見分けられるからなのかな」

「同一視しようもないくらい違うってこと?」

「まあ、そう。声は本当に似てるけど、顔はね。でも、縁は分かんないでしょ、人の顔」

「まあ、判断材料は声かな」

「声を聞かなかったら?」

「……だいたいの年代と、可能性が高い方の性別」

 声を聞いてから予想と違うことに気づくことは、ままある。

「お待たせしました、ホットコーヒーとチョコレートパフェのラテです」

 例えばたった今飲み物を持ってきてくれた店員が女性だったことは、声を聞くまで分からなかった、とか。


 俺の前に置かれたホットコーヒーを、そっと水侑みゆうの方へ押しやった。

 きっとあまねが飲むのはホットコーヒーなんだろう。

 少なくとも、甘い物の苦手な兄貴がチョコレートパフェは選ばない。

 だから、店員は常連客の好みをよく覚えている優秀な人で、味覚の違う双子のもう片方が偶然来店しているこの状況の方がイレギュラーな訳で。

「パフェ食べたらちょっと顔色よくなったね」

「そう?」

「さっきとは全然違うよ。お腹の痛い人みたいな顔だったもん」

「別人みたい?」

「今からする話が何か考えた時に、うんって言えないよそれ」

「確かに」

 例えば俺が兄貴のスワンプマンになろうとした場合、続くのは兄貴と違う日常だから、それは俺でしか無いんだろう、なんて。

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