#18 イメージネイル
どうやって、触れられる前に逃げよう。
スタッフと楽しげにネイルのデザインを選んでいる
案内されたふかふかのソファは真っ白で、汚してしまわないかと妙にソワソワする。
ガラス製のテーブル上に置かれたハーブティーにだって、一度も手を伸ばせていない。
爪を塗るための光源として用意されている低い位置の照明と明るすぎる部屋は、薄暗いカフェと対照的すぎた。
強い光を見る度、舞台の上へ引きずり出されているような心地になってくる。
何を話しているのか、言葉の意味を何故か理解出来ない。
どうやら、スタッフの声が主な引き金らしい。
丁寧かつフレンドリーと表現しても良いだろう女性スタッフの声の何がダメなのかって、多分女性であることそのものが。
うるさいと、記憶の中の女性の声が俺の口を塞いでくる。
俺じゃない、多分兄貴の。
ブラックボックスになっている記憶がもう少し俺の中に残っていたら、きっと俺の話し方は兄貴と同じようなそれだったんだろう。
香水の匂いがぶつからないようにするためか、頭上で回り続けている換気扇だけが救いだった。
ビルの一階、美容室みたいなつくりの店構えで、出入り口だって目視出来る範囲内にある。
そう、三十分。
初めて来店した客が、カウンセリングを受け、デザインを選び、施術して貰うことを考えれば、ちょうどいいかむしろ短いくらいの時間らしかった。
「モチーフを決めると楽しいですよ、推しネイルとか。私もそうなので」
「お姉さんはのネイルは、何モチーフなんですか?」
「右手は
きっと、カップを持ち上げていたら中身をガラステーブルの上にぶちまけていただろう。
俺の知っている演者の中で、一番有名なのは間違いなく
だから、これは想定しておくべきなのかもしれなかった。
本名の
夜の知識、つまり性知識の暗喩で、元々は彼が好きなアニメの年齢制限付きの同人誌を執筆する際の名義だった。
彼はVTuberであると同時に同人誌の作者、イラストレーターとして有名になった、らしい。
らしいがつくのは、十八歳以上しか見ることの出来ないそれの現物を俺が見たことはないからだ。
今となっては、彼自身が同人誌の題材になっていることを薄らと認識している。
演者とキャラクターが一対一でほぼ同一視扱いされるVTuberに対して、創作上でセクシャリティを勝手に押し付けて、同僚相手に恋愛感情を抱いているだろうと錯覚して、凄まじい趣味だよな、なんて。
自分がネット上で活動する姿そのものであるそれが首を吊り死んでいるイラストを、彼は嬉々として見ていた。
俺はネット上の姿と自分を上手く切り離せていなくて、彼は切り離せている、それだけの話なのかもしれないけれど。
もちろん、創作上では人殺しだって肯定されるんだから、俺はその対象が
ただ、俺は見えないところでやってくれた方がありがたいと思うくらいで。
「へぇ、言われてみれば確かに! 赤いストーン、彼の赤い目に合わせてるんですね」
「そうなんですよ! 小指の爪は蝙蝠の羽モチーフで……」
皮肉にも、VTuberの話に、というか知り合いの話になった途端、
俺にとっての彼に赤い目の印象も無ければ、蝙蝠を見て彼らしいと思うことも無いのは、
色々知りすぎているという線は濃厚だろう、彼に蝙蝠の羽が生えている理由とか。
3Dの体を手にするVTuberなんてごく一部だけれど、式よるのはそれを手にするような上澄みだった。
同時に、彼は自身の立ち位置について自覚的で、ついでに頭の良い奴でもある。
車椅子に座ることで背丈が低くなるのなら、背の低いガワになればいい。
歩くトラッキングが存在しないのなら、羽で浮遊すればいい。
人前で話せない俺に、俺自身の声を録音したデータを元に喋るAIを作ってみせたように、違う、俺じゃなくて兄貴だってば。
「モチーフが二人の場合だとこんな感じですね。スタッフが知らないキャラクターでも大丈夫ですよ。イラストやイメージをお客様に頂いて作ることが多いです」
言われてみれば手は二本あるから、左右で別のモチーフを使うことも出来るという訳だ。
タブレットに表示された写真たちには、他の客がオーダーしたネイルと共に、キャラクターや芸能人の名前が並んでいる。
「え」
そんな中で、ふと
否、俺の声が止めてしまった。
『
ピンクと青のグラデーションに添えられた文字に、見覚えがありすぎた。
馬酔木の花はピンクと白だから、爪に塗りやすい色なのかもしれない。
とりあえず、そんな現実逃避を試みることにした。
確かに思い返してみれば、『寝らん』なんてコンビ名があって、そのコンビ名を他の演者であるレモンがさらりと口にしていた時点で、ファンからの見え方なんてある程度は想像出来る。
コラボをしているのは
実際にプライベートで同居するほど仲が良くて幼馴染なのは
あとは、同じ企業に所属しているかどうかとか、デビューのタイミングが同じかどうかとか。
俺たちっていうのは
つまるところ『寝らん』は同じタイミングでデビューしたいわゆる同期とかいうやつだ。
同じタイミングでデビューした演者同士は、仲良い様子を定期的に見せることが望ましいとされる。
それを嫌というほど叩き込まれているから、
「僕これにしようかな」
そのページで手を止めてしまったんだから、まあ動作としては自然だ。
テーブルがガラス製でさえなければ、テーブルの影に隠れて足を踏んでやるのに。
「それだと、そのお客さんと勝手にお揃いにならない? もし居合わせたらどうすんだよ気まずいだろ」
やめろ、という言葉をそのまま口から出さないようにするために、ここ最近で一番頭を回転させた気がする。
お揃いなんてどうでもいい、俺たち自身をモチーフにしたデザインをお前自身が使うとか信じられない。
何よりも俺が居た堪れない。
「あー、それもそっか。え、じゃあ……このカタログの中だとどのデザインが好き?」
身バレを気にすることに決めたらしい、賢明だと思う。
「えー……。じゃあ、これ」
好き嫌い以前に違いが分からん、という正直な感想は一旦胸の中に仕舞って、男性の手で掲載されている灰色がかった青緑を指した。
デザイン名は、死体から出る火の燐に華と書いて
強いて選んだ理由を考えるのなら、その華という漢字に吸い寄せられたのかもしれない。
「あー、それねぇ、ちょっと特殊な素材なんですよ。……って、あれ。連絡いただいた方じゃないですか」
「あ、どうも! お早いですね」
さっきまで話をしていたスタッフよりも、また少し年嵩に聞こえる声の女性だ。
女性の声と同時にぐわんぐわんと響く耳鳴りが、意味の理解を妨げている。
指先が緊張で冷たくなり、肌はまるでマネキンのように白い。
残念ながら比喩ではなく、きっと軽く弾けばガラスのコップを弾いた時のように澄んだ音が響くだろう。
布地の下で、手足に罅が入っているような気がしていた。
「お手洗い、お借りしてもいいですか」
「どうぞ、……男性のお手洗い、一度外に出て頂いて上の階です」
多分、それは申し訳なさそうな声だった。
この場から一旦逃げることに意識の向いた俺にとっては、むしろありがたい話だったが。
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